指先に願いひとつ

10


 いろいろな夢を見ていた気がする。
 いくつかの断片的な光景が現れては消える様は、まるで絵巻を見ているかのようで。
 だが、どれほど場面が移り変わっても、そこには必ず勝真がいた。

 神子だと信じてくれなかった頃の、いささか硬い表情。
 それでも、花梨の無茶を叱るときには真剣に引き締まる顔。
 少しずつ笑ってくれる回数が増えて、穏やかな表情が多くなったのはいつ頃からだったろう。
 会話が多くなるにつれ、ぶっきらぼうな言葉の奥の優しさが垣間見えるようになって。


 そうして、いつから――こんなに好きになっていたのだろう。


 胸が締め付けられるように、苦しい。

 この痛みは夢なのか――それとも現実なのだろうか。

「か、つ、ざね、さん……」
 試しに開いてみた唇は、ややぎこちないながらも思ったとおりに動いてくれた。
 いちばん大切な人の名前を、確かに紡いだ。
 だが耳を打つ音が自分の声ではないような、奇妙な感覚が全身を巡る。
 瞼に力を入れると、そこもちゃんと動かせそうだと分かった。
 そうやってひとつずつ感覚を確かめていくうちに、夢と現の狭間でたゆたっていた思考が次第に覚醒していく。
 ゆっくりと開いた眼は映像を結び、同時に意識は現実へと押し上げられた。
「あ、あれ……?」
 ここが紫姫の屋敷の中の自分の部屋であることは分かる。
 だがどう見ても外は明るいのに、どうして褥に横たわっているのだろう。
 何があったんだっけ、と考えながら体を起こしたときだった。
「――ようやく気がついたか」
 安堵の色を露にした声が静かに空気を震わせた。
 はっきりと響くそれは、すぐ傍から聞こえた。
 振り向いた先で眼を細めてこちらを見ている相手に気付いた途端、心臓が大きく跳ねる。
「寝てるかと思ったらいきなり人の名を呼ぶから驚いたぜ。それともさっきのは寝言か?」

 からかうような言葉。
 笑い混じりの声。

 こんな穏やかな空気を纏う彼を見るのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。

 いや――もしかしたらこれもまだ夢の続きなのかもしれない。

 つらすぎる現実を認めたくない心が懸命に逃避を試みているのかもしれない。
 

 もしそうなら――触れる前に儚くかき消えてしまうのだろうか。


(やだっ――そんなのやだ……!)
 やっと触れられたと思ったのに。
 その腕を逆に掴まれたあの感覚も、夢や幻では決してなかったはずだ。

 だから――どうか。

(勝真さん――!)

 上掛けに使われていた着物を弾き飛ばす勢いで身体を起こした花梨は、そのまま一箇所だけを目指して駆け出した。
 室内の、さほど距離も離れていない場所だという意識は頭になかった。
 気軽に足を崩して座っている勝真のもとへ、無我夢中で両手を伸ばす。
 突然の行動にただ目を丸くするばかりの勝真。
 だが、この場で彼に為す術はなかった。
「なっ、おい――うわっ!」
 一秒でも早く辿り着かなければ、その間に消えてしまうかもしれない。
 ただその一心で花梨が取った行動は、全身で飛び込むような形の体当たりだった。
 勝真の広い胸は十分に逞しく、通常ならば花梨の身体くらい楽に受け止めてくれるのだろうが、如何せん不意打ちには対応しきれなかったようだ。
 均衡を崩した勝真の身体はそのまま後ろへ倒れこみ、抱きついた状態の花梨がその胸の上へ転がり込む。
 勢いよく倒れたせいで、勝真の胸元に鼻を打ち付けてしまった。
 けれどその一連の流れはどれも、生身の相手でなければ為し得ないことだ。
(あったかい……勝真さん、本当にちゃんとここにいてくれてる……!)
 勝真の肩口の着物を掴む手に力が篭っていく。
 顔を埋めた胸元から、やや不規則な鼓動が確かに聞こえてくる。
「勝真さん――勝真さん……っ!」
 ようやく、このぬくもりに出会えた。
 感極まって混乱した頭の中を、様々な感情が激流のように駆け巡る。
 だが涙の一粒が零れ落ちるよりも先に、勝真が下から呟いた。
「……おまえ、見かけによらず意外と大胆なんだな」
 苦笑を通り越して笑いをこらえているようにさえ聞こえる声音が、一瞬にして花梨の頭を冷やさせた。
 結果として押し倒した形になった現実を今更のように認識し、次いで血の気が盛大に引いていく。
「――っ! や、やだ、ごめんなさ――」
 慌てて離そうとした身体は、しかし動かなかった。
 素早く背に回された腕に、しっかりと閉じ込められてしまっている。
「馬鹿。離すわけないだろ」
 囁きに耳をくすぐられ、思わず肩をすくめてしまう。 

「ようやく――おまえをこの手に抱けるようになったんだからな」

 噛み締めるような声に篭る実感が真っ直ぐに伝わってくる。
 先刻引いていった血の気が、逆に頭に上っていく。
 恥ずかしさに思わず身をよじっても、勝真の腕の力は緩まない。
「か、勝真さん……」
「すまなかったな」
 背中から、片方の手が頭へと伸びてきた。
 そのまま指先で梳くように髪を撫でられる。
「この数日で、いったいおまえにどれほどつらい思いをさせたんだろうか」
「そんなこと――」
「だが、生きているのか死んでいるのか分からないような、あんな状態でおまえの傍にいたくなかった。おまえがその逆のことをしきりに望んでも、それを叶えてやりたいと思っても、その術を持たない俺にはどうすることもできなかった」
 言われて初めて、やっと勝真の抱いていた苦悩が花梨にも分かった。
 そんなことにも気付かずに、自分の気持ちばかり押し付けていたなんて。
「ごめんなさい、それなのにわたし……」
「おまえが謝ることなんて何もない」
 何故いつも勝真はこう言うのだろう。
 そう言われたら、返す言葉がなくなってしまうのに。
 けれど触れ合うぬくもりが心地良すぎて、それでもいいのかもしれない、とさえ思えてしまう。
「……花梨」
「は、はい」
「おまえに話したいことがあるんだ。触れることができなくなって、初めて――気付いたことがある」
 息がかかる距離で囁かれ、途端に鼓動が落ち着きをなくしていく。
「聞いてくれるか?」
「あ、はい、えっと――お願いします」
 動揺のあまり奇妙な返事をしてしまったが、勝真は気にする風もなく言葉を続けた。
「おまえを守るのは、約束のためだった。それ以外に理由なんてなかったはずだった。少なくとも俺はずっとそう思っていたんだ」
 どことなく、自身に言い聞かせているような響きで勝真は言う。
 相槌を打とうかどうしようか迷う間に、次の言葉が紡がれていく。
「だからそれができなくなっても、俺が苦にすることなんて何もないと思っていた。約束なんてなくたって、おまえが余計なことを言いふらしたりする奴じゃないってことくらい、もう分かっていたし……何より、おまえを守る奴は他にもいるんだからな」

 他の人。

 そう言われるだけで胸が苦しい。
 こうやって抱きしめられていても、実態のない痛みが走る。

 けれどまるでそんな花梨の心中を読み取ったかのように、勝真の腕に力が入った。
「だが、違ったんだ。約束なんてものはいつの間にか建前で、俺の本心は違うところにあるんだと気付いた」
「え……」
「ただ俺自身がおまえを守りたいだけだ。その役目を他の誰にも譲りたくない」
 花梨が小さく息を呑むのと、勝真が言葉を締めくくるのが同時だった。 

「渡したくないんだ。おまえを――誰にも」

 暴れだした鼓動は、収まるどころかますます激しさを増していく。
 それは、花梨自身が期待するとおりの意味だと思っていいのだろうか。
 だが決定的な言葉は何ひとつ言われていない。
 迷った末に零れたのは、あまりにも素朴すぎる疑問だった。
「な、なんで……ですか――?」
 しかし反応はない。
 もしかしたら聞こえなかったのだろうか。
 が、同じことを繰り返そうとしたとき、勝真の口から盛大な溜息が漏れ出でた。
「――おまえな。ここまで言っても分からないか?」
「え、えっとー……わ、分かるような分からないような」
 分かると言ってしまうのは自惚れのようだし、分からないと言うのも失礼な気がする。
 そんな混乱から飛び出したどっちつかずの曖昧な答えに、勝真がもう一度大きく息を吐く。
 そして、花梨の頭を更に強く引き寄せた彼は、耳朶に唇が触れそうな距離で囁いた。

「――俺が、おまえを好きだってことだよ」

 それは、ずっと花梨が望んでいた言葉だ。
 そう言ってもらえたらどんなにいいだろうと。
 自分自身も気付かないほどの奥底で、ずっと前から想っていた。
 けれど実際に言われてみても、何故かまるで他人事のように実感が湧かない。
「勝真さん……」
「なんだ?」

「……ズルイです」

「………は?」
 仮にも愛の告白をされた直後の言葉としては、これほどそぐわないものもないだろう。
 勝真の困惑は手に取るように伝わってくる。
 だがこれが、今いちばんに胸を占めている気持ちだった。
「だって、そんなこと全部先に言われちゃったら、わたし……なんて言ったらいいか分からないじゃないですか……」
 花梨のほうも言おうと思っていたのに。

 あのとき――勝真がいなくなってしまう恐怖に突き動かされて。
 勢いとはいえ、言いかけた言葉は本気だった。

 もちろん、あのとき遮られた意味も今なら理解できるし、同じ想いで繋がっていることが分かったのは本当に嬉しいけれど。

 ――先を越されてしまった悔しさが、どうにも否めない。

「別に……先とか後とか関係ないだろ?」
 声に混じる苦笑を隠そうともせずに、至極もっともなことを勝真は言う。
「そうですけど……」
 尚も不満そうに呟くと、宥めるように頭を撫でられた。
「今からだっていいじゃないか。教えてくれ、おまえの言いたいことを」
 優しすぎる声が心地良く耳をくすぐる。
「聞かせてくれ、花梨。俺に言うことがあるのなら――おまえの口から、おまえの言葉で聞きたい」
 勝真にはもう分かっているのだろうか。
 花梨が言いたいこと――あのとき言えなかった言葉を。

 もしそうなら――やはり少しずるいと思うけれど。

 でも間違っていないのだから、仕方ないのかもしれない。

 勝真の胸元に寄りかかったままで少しだけ身体を動かすと、いつもは見上げる位置にある顔が下方にあって、また胸が騒ぐ。
 促す視線に絡め取られて、そのまま動けなくなる。


 ――そして。

 
 小さく開いた唇から、何よりも告げたかったひとことを花梨が紡ぎ出した次の瞬間。

 嬉しそうに眼を細めて勝真が微笑った。



 それから彼は花梨の頭を静かに引き寄せ、唇に己のそれを静かに寄せた。

 

 

 【終】  (written by Saika Hio)