指先に願いひとつ


 怨霊など、今まで幾度も相手にしてきたはずなのに。
 神子になったばかりの頃でさえ、足が竦んで動けなくなることなどなかったのに。
 独りで怨霊に対峙するのはこれほど恐ろしいことなのだ。
 目の前の異形の存在から視線を外せないまま、花梨は小さく息を呑んだ。

 結局、誰かに守ってもらえなければ何もできはしない。
 今まで神子としていろいろやってこられたのは、八葉の皆の協力があったから。

 もちろんそんなことは誰に言われるまでもなく分かっていたつもりだったけれど、目の前に歴然と見せ付けられるのはやはり胸が痛かった。
(ううん、そんなこと言ってる場合じゃないんだ……!)
 現実として、目の前に怨霊がいる。
 ふと、今しがた和仁が口にした「土地の掃除」という言葉が脳裏に蘇り、その意味するところが花梨を戦慄させた。
 この怨霊を何とかしなければ京の町に危害が及ぶのだ。
(封印しなくちゃ。でも……もっと弱らせないといけない)
 だが自分ひとりの力で、どこまで怨霊の気力を削ぐことができるだろう。
 どんどん激しくなっていく鼓動が、なけなしの集中力を更に鈍らせていく。
 と同時に、弱気な心が頭をもたげてくるのがはっきりと分かった。

 勝真の言うとおり、早く逃げていればよかったのだろうか。
 一人で何とかしようだなどと、思い上がりも甚だしいばかりで。

 ――怨霊を目の前にしただけで途方に暮れるほど、こんなに自分は無力なのだから。
 
 それでも、今できることをするしかない。
 震える身体を叱咤して、花梨は目の前の怨霊を鋭く見据えた。
 全身に水の気を纏った女の姿をしている。
 水が本来持つ印象は清涼で透明なもののはずだが、この怨霊から感じるのは、それとは正反対の禍々しさでしかない。
 どのような経緯でこんな姿になったのかは知る術もないが、今はただ自分にできることをするだけだ。
 素早く掌に気を集中させ、怨霊めがけて放つ。
 衝撃に一瞬その身を揺らした怨霊は、しかし次の瞬間には何ごともなかったように体勢を立て直していた。
(ああ、ダメだ。やっぱりわたしの攻撃じゃ無理だよ……)
 今の一撃でもう十分だ。
 花梨ひとりではどうにもなりそうにないことが分かってしまった。

 だが――それならどうすればいいのだろう。

「花梨、今からでもいい。隙を見て逃げるんだ」
 尚も勝真が言い募る。
 花梨の攻撃では埒が開かないことを目の当たりにした為か、ますますその声音には緊迫の色が濃く滲み出ていた。
 だが怨霊をこのまま放って逃げ出すなど、龍神の神子の所業ではない。
 それに現実問題として、隙を伺うのは不可能に近いような気がした。
 花梨に狙いを定めているのは怨霊だけではないのだ。
 それを使役している時朝自身も、静かな気を纏いながらも確実に花梨に意識を集中させている。

 この窮地を脱する方法はおそらくひとつ――怨霊を封印するしかないのだろう。

 物理的に可能かどうかは、定かではないが。

 不意に浮かんだ絶望的な思考を、かぶりを振って追い出す。
 そのまま何も考えないようにしながら次の攻撃を繰り出してみたが、結果は同じだった。
 いや、更に悪くなったと言うべきか。
 怨霊が濁った瞳を気だるそうに花梨へ向け、ゆらりと指を持ち上げる。
 かと思った次の刹那、その先端から迸り出た瘴気が真っ直ぐに飛んできた。
 避ける間などあろうはずもなく。
 花梨の身体は見えない力に激しく打ち据えられ、強かに弾かれた。
「花梨っ!」
 倒れ伏した花梨の耳朶を勝真の声が打つ。
 大丈夫だと答えたいのに、そんな簡単なことすら上手くできないほど身体中が悲鳴を上げている。
 起き上がろうとするだけで精一杯だ。
 こんな様で目の前の怨霊を封印できる確率など、一厘ほどもありえない。
 そう考えてやっと、この場で命を落とす可能性が実感として胸に浮かび上がってきた。
(もう、ダメなのかな……勝真さんを元に戻すこともできずに……)
 恐れは不思議と薄い。
 ただ、勝真に対する申し訳なさだけが胸を大きく占めていた。

 花梨を庇ったせいでこうなった事実も。
 それを元に戻せない無力さも。
 言うことを聞かずにまんまと和仁の術中に嵌ってしまった愚かさも。

 ――何もかもが。

「ごめん、なさい……勝真さん――」
 呟く瞬間、きつく瞼を閉じてしまったから、勝真がどんな表情をしているのかは分からなかった。
 

 *     *     *

 
 冗談ではない。
 目の前で倒れる花梨を、ただ見ていることしかできないのか。
 無力な身で、しかしそれでもじっとしていることなどできなくて、勝真は思わず花梨の前に立ちはだかっていた。
「か、勝真さん……?」
 身体を起こしながら花梨が名を呼ぶ。
 どこか呆然としたその響きに、勝真は苦笑を禁じ得なかった。
 何もできないくせに何をしようとしているのかと、呆れられていても無理はないだろう。
 他でもない自分自身がそう思うのだから。
「すまない、花梨」
 苦渋を噛み締めた声で呻くように言うと、背後で花梨が息を呑むのが聞こえた。
「な、なんで勝真さんがあやま――」
「俺から言い出した約束なのに、守れなくて――すまない」

 ――『勝真さん、わたしのこと守ってくれるって……っ、約束したじゃないですか……!』 

 そうだ。
 約束したのに。

 いや、もはやそんな約束など無くても、この気持ちは変わらないけれど。

 たったひとりの相手を守ることくらい、造作もないことだと思っていたのに。

 それを果たせずに、目の前でみすみす失うのだろうか――誰よりも失いたくないと思う存在を。

(俺はどうなろうと……このまま元に戻れなくたって、そんなことは一向に構わない。だが、花梨だけは……!)
 神も仏も、信じたことなど無い。
 それでも祈りが届くなら、誰でもいいから聞き届けて欲しいと勝真は心底から思った。
 こんなときだけ祈るだなどと、虫の良すぎる話かもしれない。

 だが、一度だけでいい。

 もしも奇跡というものが本当にあるのならば、今このときでなければ意味が無いのだ。

「勝真さん――勝真さんはなんにも悪くなんてないです……!」
 震える声で、それでもはっきりと花梨が言う。
「もう、いいですから……勝真さんがそんなふうに言ってくれて、もうそれだけでわたし――」
「馬鹿なこと言うな!」
 鋭く遮ると、再び花梨が息を呑んだ。
 首を半分だけ巡らせて後ろを見遣ると、見開かれた瞳が驚愕を露にこちらを見ている。
「おまえを守りたかった。いや、今でも叶うならそうしたいんだ。誰よりも――おまえだけを」
 まるで、これが最後の機会であるかのように、驚くほどすんなりと言葉が滑り出てくる。

「約束なんて関係ない。きっかけがどうであれ、今の俺はおまえを――」 

 皆まで言う前に、視界の端で怨霊が動いた。
 素早く目を向けると、怨霊の袖が舞でも舞うかのように翻る。
「勝真さん、逃げて下さい!」
 今の勝真には無意味なことなのに、弾かれたように花梨が叫ぶ。
 どうしてこんなときにまで、相手のことばかり考えるような真似ができるのだろう。
 驚きと呆れと――これが花梨なのだという安堵にも似た不思議な感覚が胸に込み上げてくる。
「――おまえを置いて逃げられるわけがないだろう」
 もう一度振り向いてそう告げると、口元に自然と笑みが浮かんだ。

 たとえ役には立たなくても。
 ここを動くつもりなど無い。

 滑稽なのは承知の上で、勝真は頑なにそう思った。
 不気味に空気を震わせながら、再び怨霊から瘴気が放たれる。
「……っ!」
 無駄な行為と分かっていても、咄嗟に目の前へ腕を挙げる。
 真後ろの花梨が短く悲鳴を上げた。
 すまない、と声にならない声でもう一度呟いた、そのとき。

 ――かざした腕に、衝撃が伝わってきた。
 

 *     *     *
 

 その瞬間、反射的に眼を閉じていた。
 もう一度あの瘴気を浴びればおそらくただではすまないと、感覚的に分かったから。
 だが、先刻は一瞬で届いた瘴気が今度は一向にやってこない。
 何故だろう、とぼんやり思ったときだった。
「くっ……」
 勝真が小さく呻くのが聞こえた。
 そして花梨が目を開いたのと、和仁が叫んだのがほぼ同時だった。
「なっ――貴様、どこから現れた……!?」
(え……?)
 見ると先刻までの冷酷な笑みはすっかり消え、信じられないものを見るような眼がこちらへ鋭く向けられている。

 いや、その視線が向いている先は花梨ではなく――。

「生意気な下級貴族めが……! 貴様ら揃って私の邪魔をせねば気がすまないのか!」

 鼓動が大きく跳ねた。
(うそ……まさか……?)

 目の前にある、大きな背中。
 くせのある長めの髪は夕日の色に似ていると前から思っていた。
 剥き出しの二の腕は、いつも安心感を与えてくれる逞しさのままそこにある。

 先刻からずっと、花梨にだけは見えていた姿。


 ――まさか。

 
 手を伸ばそうかどうしようか、迷ったのは一瞬だった。
 もしも違っていたら、きっと落胆どころではすまないだろうから。
 だがそれでも、欲求には勝てなかった。
 恐る恐る伸ばした両の指が震えながら近づいていく。
 行き着いた先は、左の肘の辺りだった。

 そうして――指先に伝わってきたのは、紛れもないぬくもり。

「か、つ、ざね――さん……?」
 呟きながら、手に力が篭っていく。
 声が震えているのが自分でも分かった。
 夢かもしれないとさえ思う。
 勝真も驚いたように振り向き、花梨を見下ろしている。
「……」
 勝真は何も言わず、花梨が触れている箇所へ反対の手を伸ばしてきた。
 そのままゆっくりと手首を掴まれる。
 じわりと伝わってくる熱が、全身にまで広がっていくような感覚。
「うそ、じゃ、ないです……よね……?」
 短い言葉でそれだけ告げて、あとは唇を引き結ぶ。
 そうしていなければ、感情が溢れ出て止まらなくなることが分かっていたから。
「ああ――たぶんな」
 曖昧な答えを返しながらも、勝真の瞳は穏やかに笑んでいる。
 と、それが一瞬歪んだのを花梨は見逃さなかった。
「あっ――勝真さん今の瘴気に当てられたんですよね! 待ってください、撫物を――」
「いや、後でいい」
 慌てる花梨とは対照的に、勝真は毅然と言い切った。
 その眼が気遣うように花梨の双眸を覗き込んでくる。
「それより、おまえのほうこそ大丈夫か?」
「え? あ――はい」
 最初の攻撃を受けたことを心配してくれているのだと分かった。
 確かに万全の体調とは言いがたいが、そんなことも気にならなくなるくらい気持ちは高揚しているので花梨はしっかりと頷いた。
 それを見て、勝真も頷く。
「じゃあ、さっさとあいつを封印するぞ。細かいことはその後だ。……いいな?」
「――はい!」
 もう一度、よりはっきりと頷いてみせる。
 視線を上げた先で、怨霊は未だ揺らめくように動いている。
 だが、もう恐れる気持ちなどほとんど消え去っていた。

 すぐ傍に勝真がいる。
 手を伸ばせば触れることができる。

 そんな当たり前が戻ってきただけで、驚くほど気持ちが違うのだ。

 勝真がいてくれるだけで力が湧いてくる。
 守ってもらうばかりでなく、一緒に立ち向かえることが嬉しい。 

 ――できるならば勝真にも、それを伝えたいと思うけれど。 

(でも今はまずこの怨霊を封印しなくちゃ)
 勝真の言うとおり、細かいことはすべてその後だ。
 改めて怨霊に視線を戻し、意識を集中させる。
「今は弓を持っていないからな、術を使うしかないか」
「あ、はい、そうですね」
 素早く五行の気を集中させて勝真へ送る。
「来い、天かける迅雷――召雷撃!」
 勝真の声と共に雷が迸り、怨霊の身体を容赦なく貫く。
 一撃でかなり体力を奪われたらしい怨霊は、先刻までの優勢が嘘のように鈍い動きでゆらゆらと揺れはじめた。
 これならば封印できるだろう。
 花梨は両手を怨霊へ向けてかざし、大きく息を吸い込んだ。
「めぐれ、天の声。響け、地の声。かの者を封ぜよ!」
 微かに尾を引くか細い声と共に、怨霊は一枚の札へと姿を変えた。
 一瞬の出来事についていけなかったのか、和仁は瞠目したまま怨霊のいた場所を凝視している。
「宮様、恐れながらここは引き時かと――」
 この男が平常心を崩すときなど果たしてあるのだろうか。
 そんなふうにさえ思わせるほどの冷静な声音で時朝が進言する。
「うるさいっ!」
 相変わらず往生際悪く和仁が叫ぶ。
 だが為す術がないことは彼も分かっているのだろう。
 それ以上の言葉はその口から出ては来なかった。
「くそっ……覚えていろ!」
 意外なほどあっさりと二人は去っていった。
 花梨ひとりならともかく、勝真も一緒では――ましてや怨霊を封印された後では、勝ち目があるとはさすがに考えないのだろう。
 一方、残された花梨も、次に何をしたらいいのか考えることができずにいた。
 とにかく怨霊を封印するのに必死で――細かいことはその後だ、と勝真は言っていた。
(細かいことってなんだっけ……ああ、そうだ、勝真さんが元に戻って――)
 呼びかけようと振り向いたつもりだった。
 名前を口に載せたつもりだった。

 なのに、そのどちらも成功しなかった。

「花梨! おい、しっかりしろ!」
 不意に勝真が叫んだ理由もすぐには分からないほど、花梨の頭は朦朧としていた。
 逆らえない引力に引きずられるようにして、身体が傾いでいくのだけは分かる。 

 抱き留めてくれた温かい腕があまりにも心地良くて、花梨はそのまま身を委ねて意識を手放した。