指先に願いひとつ
8
(ええと……どうしたらいいんだろう?)
滑稽なほど混乱している頭を花梨は必死に回転させた。
混乱の原因はもちろん、思いがけずこんな場所で和仁に遭遇したためだ。
今の事態を引き起こした原因は和仁の呪詛にあるのではないかと、勝真は言っていた。
ならば元に戻す方法も、もしかしたら得られるのではないだろうか。
和仁に直接会えることなど可能性の中に入っていなかったから、そんな方法は考えも及ばなかったけれど。
もしもそうなら――これは願ってもない好機なのかもしれない。
「あのっ――」
しかし呼びかけられたことなど目にも入っていない様子で、和仁は嫌悪も露に花梨を睨みつけた。
「ちょろちょろと目障りな小娘め。幾たび私の邪魔をすれば気が済むのだ!」
いきなり怒鳴りつけられた花梨は、訳が分からず眼を瞬く。
「え、わたし邪魔なんて何も……ただ聞きたいことが――」
尚も言い募ろうとする花梨を止めたのは、意外にも勝真だった。
「花梨――逃げろ」
「え?」
制止しただけでなく、勝真の声音は張り詰めた糸のように緊迫している。
振り仰いで見た先で勝真は鋭い視線を和仁へ向けていた。
「ど、どうしてですか? もしかしたら何か分かるかも――」
「そんなことを言っている場合じゃないだろう」
他ならぬ自分自身のことなのに、まるで瑣末なことのように吐き捨てる勝真。
ますます訳が分からなくなってきた花梨には、もはや何をどう尋ねたらいいのかも分からない。
すると、張り詰めた空気を纏ったまま勝真が重く告げた。
「宮様のあの様子からすると、またこのあたりで呪詛を仕掛けようとしていた可能性が高い」
「えっ……」
「それどころか、事と次第によっちゃ怨霊を仕掛けてくるかもしれないぜ」
「……っ!」
言われて初めてその可能性に気付き、思わず強張った顔を和仁へ向けてしまう。
確かに、何もしていない花梨に向かって邪魔呼ばわりをしたことなどから考えると、呪詛についての可能性は濃厚だと言えるかもしれない。
そして怨霊のことも――過去の和仁の所業から見れば十分考えられる。
もしそうなったとしても、今の花梨は一人きりでいるのと同じ状態だ。
封印はおろか、戦うことすら満足にできはしない。
勝真の言いたいことは理解できたが、しかし素直に頷くことはできなかった。
「で、でも……」
だからといって、最も有力な手がかりかもしれない相手を目の前にしてみすみすこの場を去るわけにはいかない。
勝真と和仁たちとを素早く見比べた花梨は次の瞬間、昂然と顔を上げて唇を引き結んだ。
「――いやです」
勝真にだけ聞こえる声で、しかし毅然と言い切る。
「花梨!」
叱り付けるような厳しさが胸に刺さったが、決めたことを翻すつもりはない。
和仁一人を真っ直ぐに見据えて、花梨はきっぱりと口を開いた。
「和仁さん、お願い。話を聞いてください。どうしても教えてほしいことがあるんです」
だがそんな必死の嘆願も、和仁は鼻で軽くせせら笑った。
「ふん、おまえのような下賤の小娘の言うことを、何故この私がわざわざ聞く必要がある?」
予想はできたが、やはり一筋縄では取り合ってもらえないようだ。
しかしこれしきのことで引き下がるわけにはいかないし、そうするつもりも毛頭なかった。
「お願い、大切なことなんです。少しでいいからわたしの話を聞いてくれませんか?」
「うるさいっ!」
途端、撥ね付けるような怒声に打たれて花梨は身をすくませた。
さほど失礼な物言いはしていないつもりだが、和仁は不快感を隠そうともせず苛々と言葉を吐き出す。
「おまえ如き下賤の者が私と直に言葉を交わすことすら、本来ならばありえないことなのだぞ! 私が本気にならないうちにさっさとこの場から立ち去れ!」
まるで子どもの癇癪と変わらない陳腐な言い様だ。
が、それを聞いた勝真はますます険しく表情を引き締める。
「本気ってのが文字通りの本気なのか、それともただの脅しなのか今ひとつ判断しかねるが……何にしても、今はこれ以上関わらないほうがいい」
今まで何度も危険な局面に向き合ってきたが、ここまで緊迫した様子を見せられたのは初めてかもしれない。
「今の俺におまえを守る力はないんだ。頼むから言うことを聞いてくれ、花梨……!」
とうとうその声音は懇願へと色を変えた。
(勝真さん……)
胸が痛まないと言えば、もちろん嘘になる。
こんな風に困らせたいわけでは決してないし、つらい思いもして欲しくはない。
でも、勝真が花梨を庇ったせいでこうなったのなら
それを解決する責任は自分が負うべきだと思うし、そうしたいと思うから。
「……ごめんなさい」
小さく謝って、再び和仁へ向き直る。
変わらず鋭い瞳で睨みつけられたが、もう怯みはしなかった。
「この前、船岡山で会ったときのことを覚えてないですか?」
呪詛のことを率直に口に出していいものかどうか一瞬迷ったが、和仁が反応を示すほうが早かった。
「よくも貴様……私の邪魔をしておいて、ずうずうしくもそんなことが聞けたものだな!」
「だって呪詛なんて良くな――じゃなくて。そのときのことで、聞きたいことがあるんです」
とりあえず和仁が覚えていると分かり、胸に一縷の安堵がよぎる。
ならば多少は話の通りも早くなるはずだ。
僅かに増えた勇気を頼りに、花梨は早口で告げた。
「あのとき、最後にひとつ残った呪詛の石が勝真さんにぶつかったでしょう? あのあと勝真さんの身に大変なことが起こってしまったんです。だから、たぶんあれがきっかけじゃないかって――」
和仁の後ろでずっと黙したままでいた時朝が、そのときぴくりと片眉を動かしたように見えたのは気のせいだったのだろうか。
ほんの一瞬、しかも微かな変化だったから、目を向けたときにはもう何も分からなかった。
「あの生意気な小役人がどうなったか知らないが、それが私と何の関係がある?」
和仁の態度は変わらず不遜なままだ。
それどころか勝ち誇ったように酷薄な笑みさえ浮かべて、彼は花梨を嘲笑った。
「目障りで邪魔な八葉など、どうなろうと知ったことか。どいつもこいつも私の前からいなくなってしまえばいいさ」
(え……?)
何かが頭の片隅に引っかかった。
今の和仁の物言いに、聞き覚えがあるような気がする。
――『おまえたちなど――皆いなくなってしまえばいい! 消え失せろ!』
まるで子供の喧嘩のような捨て台詞。
そうだ。
呪詛の石を投げつける瞬間、和仁は確かにそう言った。
憎々しげに、忌々しげに――もし本当にその術があったなら迷わず行使していたであろうほどの歪んだ力強さで。
あのとき和仁は心底から思ったのだろう。
自分の邪魔をする相手など消え去ってしまえばいいと、本気で。
(じゃあ、やっぱりあの石が原因で……)
他の可能性など思い当たらなかった時点で分かっていたつもりだったが、やはり勝真がこうなったのは花梨を庇ったせいなのだ。
禍々しい呪詛の力が残る石と、それに匹敵するほどの負の感情。
紡ぎ出された言葉は言霊となり、邪な力と相まって尋常ならざる事態を引き起こした――。
おそらくはそれが最も有力な可能性なのだろう。
見えない刃が無数に胸を貫いているような感覚。
だが今は、打ちひしがれているよりも他にやるべきことがある。
「呪詛を消す方法を知りませんか? 勝真さんを元に戻す方法を――もしも知っていたら教えて欲しいんです」
切々と訴える花梨を見ても和仁は表情を変えようともしない。
時朝もそれは同様だった。
花梨の声も願いも、彼らには届いていないのだろうか。
どうしてこんなにも――非情でいられるのだろう。
「……無駄だ、花梨」
ぽつりと呟いたのは勝真だった。
それこそすべてをあきらめているかのような、奇妙な静けさ。
「俺のこの状態が宮様の思惑によるものなら話は別だが、そうじゃないなら元に戻す方法だって分かるわけがないさ」
「……っ、そんな……」
「まあ、仮に知っていたとしても素直に教えてくれるとは思えないけどな」
言い返す言葉を花梨は持っていなかった。
まさに勝真の言うとおりだと、心のどこかが訴えてくる。
だが――分かっているからと言って納得できるわけではない。
「そんな、じゃあ――どうしたらいいんですか……!」
やっと手がかりを得たと思ったのに。
結局、事態は何も進展していないことになる。
――勝真を元の姿に戻すことは、できない。
絶望感に目の前が眩み、震える足が痺れたように感覚を失う。
「もういいから早く逃げろ花梨」
焦れたように勝真が同じ言葉を繰り返す。
「俺のせいでおまえに何かあったら――何のためにおまえを守ったのか分からないだろう!」
それは激しい口調でありながら、どこか胸を締め付けられる奇妙な切なさに満ちていた。
(なんの――ために……?)
どういう意味かと問う言葉が花梨の口の端に上るよりも、和仁が怒声を発するほうが早かった。
「忌々しい小娘めが、よもやこの私にそのような言いがかりをつけて、
ただで済むなどと思っているわけではあるまいな?」
危険な響きを孕んでいるのはすぐに分かった。
咄嗟に警戒し身構えたが、実際に何ができるわけでもなく、残酷な愉悦に満ちた和仁の笑みをただ呆然と見遣る花梨。
文字通りそれを嘲笑いながら、和仁は更に言葉を重ねる。
「本当は下賤な民の住まう土地の掃除でもしてやろうと思っていたのだが、気が変わった」
「え?」
「小娘一人を相手にするのは勿体無いような気もするが……特別に使ってやる。感謝するんだな」
言い終わるか終わらないかのうちに和仁は背後の時朝を仰ぎ見た。
まさか、と花梨の脳裏に浮かんだとおりの言葉がその唇から飛び出す。
「時朝っ! 怨霊を呼べ! 目障りなこの娘を葬り去ってしまえ!」
直立不動で控えていた時朝は、胸の前で片手の拳を固めて小さく首を頷かせた。
「――御意」
意思を持たない操り人形のように、いつも和仁の命令だけを時朝は遂行する。
今このときに於いても、例外などありえないのだろう。
本心の見えない暗い瞳を静かに花梨へ向けた時朝は、ひと言だけ低く呟いた。
「すまない。――悪く思わないでくれ」
抑揚の無い声音。
花梨を見る瞳には敵意も悪意も欠片すら見いだせない。
それどころか、どこか痛みに似た色が見えるような気さえするのに。
「出でよ怨霊、我が元へ!」
時朝が片手を翻してから、遅れて数秒。
空間の一部が澱み、歪んで、どす黒い気が溢れてくる。
開かれた扉をくぐるように、そこから現れたのは――紛れもない怨霊。
「花梨っ!」
勝真の叫びが耳を打つ。
けれど花梨は怨霊に視線を奪われたまま、指一本動かすことができなかった。