指先に願いひとつ


 すっかり頭に血が上っていたのに、屋敷を飛び出す時にこっそり抜け道から出ることは忘れなかった。
 紫姫はもちろんのこと、女房や舎人の誰か一人にでも見つかれば、すぐさま部屋へ連れ戻されてしまうと分かっていたから。
 何故かそういう発想を冷静にできたことが自分でも驚いたし、この世界へ来てから何度か一人で京の町へ出たりしていたのがこんなときに役立つとは思わなかった。
 だが衝動的に飛び出してきたのはいいが、具体的にどうすればいいのだろう。

 勝真を今すぐ元に戻せる方法。
 そんな妙案が本当にあるのだろうか。

 もしあるのだとしても、一体どこをどう探せば見つかるのだろう。

 だんだんと頭が冷えていくにつれ思考にも冷静さが戻り、小走りだった足も気付けば緩やかな歩みに変わっていた。
「おい、待てと言っているだろう!」
 後ろから必死に引き止め続けていた勝真の声が、いよいよ苛立ちの色も露になってきた。
 それに従ったというわけではないが、花梨は螺子の切れた人形のように静かに立ち止まった。
 いつの間にか町の外れのうら寂しい雰囲気の場所まできていたことに、やっと気付く。
 立ち並ぶ家々は貧しい京の町の中でもひときわ古びており、もしかしたら既に廃屋なのかもしれない。
 もちろん辺りに人の気配はなく、あまり好んで近づきたいような場所ではなかった。
「まったく……闇雲に飛び出してきて、いったいどうするつもりなんだ」
 まさに今しがた思ったとおりのことを的確に指摘され、返す言葉もない。
「え、ええと、その……」
 言いよどむ様を見て、勝真は眉をひそめた。
「まさかとは思うが、何も考えていなかったわけじゃないだろうな?」
「そ、そんなことは……」
 ない、と言い切れるほどの勇気はなかった。
 そして、それだけでもう勝真は状況を正しく把握してしまったらしい。
 さほど長い付き合いというわけでもないのに、何故か花梨の動向はいつもすぐに勝真に知れてしまう。
 今もそれは例外ではなく、彼は大仰に溜息を落として厳しい視線をこちらへ向けた。
「考えなしもここまで来るといっそ賞賛したくなるな」
 先刻の重苦しい遣り取りがまるで嘘のように、いつもと変わらない口調で言う勝真。
 こんな風に叱られることはもちろんありがたくはないが、あの悲しい会話の後ではそれすらも嬉しいと思える。
(心配してくれてる……?)
 いつもそうだ。
 勝真は言葉も態度も荒いけれど、そこから伝わってくる優しさを花梨はいつも感じている。

 それなのに――いや、だからこそ。
 もう会わないと言われるのは、花梨にとって何よりも残酷な仕打ちだ。

 ――勝真は知らないのだろうけれど。

「だ、だけど――」
 確かにここまで飛び出してきたのは、考えなしだったと言われても無理はない。
 けれど理由はちゃんとあるのだ。
 言い訳がましいと思いながらも言わずにはいられなかった。
「だけどこのまま方法が見つからなくて、元に戻れなかったら、勝真さんは――いなくなっちゃうじゃないですか……っ」
 責めるつもりなどもちろんなかったが、見上げた瞳には無意識にそんな色が宿ってしまっていたかもしれない。
 途端に苦痛の表情へと逆戻りした勝真は、花梨から視線を外して呟いた。
「……結局、俺のせいか。おまえを苦しめるのも、無茶をさせるのも……」
「え?」
 表情と口調と言葉の内容とが綺麗に合わさって意味を理解した瞬間、花梨は激しくかぶりを振っていた。
「ち、ちがいますよ! 勝真さんのせいとかじゃなくて……そうじゃなくて……」
 どう言えば伝わるのだろう。
 分かってほしいのは、それほど複雑なことではないはずなのに。
 そこまで考えて、屋敷を飛び出す前に投げつけた言葉を不意に思い出した。

 ――『勝真さん、私のこと守ってくれるって……っ、約束、したじゃないですか……っ!』

 改めて思い返すと、あまりの理不尽さと我侭さに眩暈がしそうになる。
 勝真がいなくなってしまう恐怖で混乱していたから、などと言っても言い訳にはならないだろう。
 あの言葉をもしも真摯に受け止めてしまっていたのなら――彼が苦悩するのも無理はないのかもしれない。
 けれど花梨が本当に言いたいことは違うのだと、それだけは分かってほしかった。
「ごめんなさい……さっきはひどいことを言ってしまって」
 何度も息を吸って吐いて、心を落ち着かせる。
 急に様子の変わった花梨へ、さすがに勝真も驚いたような視線を向けた。
「勝真さんは何も悪くなんてないんです。守ってもらえなくても、何かをしてもらえなくても、そんなことは全然構わないんです」
「何……?」

「傍にいてほしいんです。ただそれだけです。どこにも行かずに……傍にいてほしいだけです」 

 伝わるだろうか。
 分かってくれるだろうか。

 本当は、この手で触れてぬくもりを確かめたいけれど。

 それが叶わないのならばせめて、こんなささやかな願いくらいは摘み取らないでいてほしい。

「……俺だって、できることなら――」
「え……?」
 呟きは小さすぎて、耳に届いたような届かなかったような微妙な感覚しかもたらさなかった。
 しかし聞き返そうとした花梨を制するように、勝真は力なくかぶりを振った。
「――どんなに望んだって……叶わないことはいくらだってあるだろう」
 まるで何もかもを諦めてしまったかのような、絶望を内包した言葉が胸に刺さる。
「どうして、そんな……」
 結局、何も伝わってはいないのだろうか。
 花梨の言いたいことを、何も分かろうとはしてくれないのだろうか。

 ――厚い壁に隔てられているかのように、勝真の心が少しも見えない。

「なんで、もう元に戻れないって決め付けたみたいに言うんですか! 
 気付いたら、叫んでいた。
 勝真の意識にも言葉にも、ひと欠片の希望さえ見出せないからだ。
 それはつまり、勝真自身が事態をそこまで絶望視しているという事実に他ならない。
 花梨の疑惑を裏付けるように、勝真は微かに眉を吊り上げた。 
「じゃあ、戻れるという確証はあるのか? そんなもの――どこにもないかもしれないんだ」
 前半は花梨に向けられていたが、後半はまるで自分自身に言い聞かせるかのような口調だった。
 だが、どこへ向かった言葉であろうと関係ない。
 問題はその内容だ。
 勝真の今の発言は、花梨にとっては到底容認できるようなものではなかった。
「そんなのっ――やってみなくちゃ分からないですよ!」
 どうして最初から諦めてしまうのか、花梨には分からない。
 そんなに簡単に手放してしまえるほど、勝真にとっての自身は軽い存在だとでも言うのだろうか。
「何もしないうちから諦めるなんて絶対にいやです!」
「諦めてるわけじゃない。ただ、ありもしない希望に縋ったところで
 裏切られるのが目に見えていると思っているだけだ」
「おんなじことじゃないですか!」
 言葉を変えても、言っていることは同じだ。
 あまりにも平行線過ぎる遣り取りが、花梨の頭に血液を上昇させていく。
「もうっ、なんで分かってくれな――」
「うるさい声が響くと思えば……おまえか、小娘」
 突如割って入った第三の声は、不機嫌を隠そうともせず露骨な淀みに満ちていた。
 弾かれたように振り向きその姿を見て、思わず上げそうになった声を花梨は咄嗟に喉の奥へ呑み込んだ。
「このような人気のない場所で一人騒いでいるなど、気でも触れたか?」
 古びた建物の影から悠然と姿を現した和仁は、侮蔑の色も露に花梨を一瞥した。
 その後ろから静かに歩み出でてきたのはもちろん時朝だ。

 彼らの視線は花梨一人に注がれている。
 勝真の姿も声も、やはり認識されてはいないのだ。

 そんなことを冷静に考えている場合ではないと脳の片隅が警鐘を鳴らすのを、どこか他人事めいた心地で花梨は聞いていた。

 ――今この場で自分がどうするべきか、咄嗟に判断ができないまま。