指先に願いひとつ


 黙って去っていった勝真の後ろ姿が、いつまでも花梨の脳裏に焼きついて消えない。

 ――どうして答えてくれなかったのだろう。

 逸らした目を花梨と合わせないようにしていたのも、気のせいではなかったはずだ。
(やっぱり勝真さん、本当は怒ってるのかな……)
 花梨のせいではないと言い、気にするなと笑ってくれたけれど。
 やはり彼の本心は別のところにあるのかもしれない。
 元来、呆れるほど前向きで馬鹿がつくほど能天気だと自負しているが、今回ばかりはさすがにそうもいかなかった。

 勝真が今、何を思っているのか知りたい。
 だが言葉で尋ねても、同じことを繰り返されるだけなのだろう。

 勝真は優しい人だから。
 花梨を責めることはきっとしない。
 そんな彼が心の奥底で抱えているのは何なのだろう。

 知る術などおそらくありはしないと、分かっているのに。
 それでも考えずにはいられなかった。
 昨晩のように涙こそ零れはしないけれど、胸の苦しさは変わらない。
 そんな風に一晩中、頭の中を勝真のことだけが駆け巡っていて、気付いたらいつの間にか朝だった。

 やはり今日はもう、勝真は来てくれないのだろうか。
 

 そして、これから先もずっと――そうなのだろうか。

 
(やだ、そんなの……!)
 自分の思考に身震いが走り、慌ててかぶりを振る。
 それだけは嫌だ。

 たとえ守ってもらうことができなくても。
 ぬくもりを感じることができなくても。

 それでも、ただ――傍にいてほしい。

 静かに目を閉じて、祈るようにそう思ったとき。
「……!」
 庭のほうで、確かに気配を感じた。

 
 *     *     *

 
 来るつもりはなかったのに。
 気付けば身体が勝手にこちらへ向かっていた。

 こんなときでも――こんな状態でも、せめてひと目だけでも顔を見たいと願ってしまう。 

 我が心ながら、なんと弱く愚かしいのだろう。
 それこそが何よりも彼女を苦しめているに違いないのに。
(俺には何もできない。あいつが何を求めても、それに応えてやることは――)
 自嘲も露に思ったとき。
 初めてふと気にかかることがあった。

(花梨はどうして、こんな状態の俺に会いにきて欲しいなんて言うんだ……?)

 いくら手を伸ばしても届かない、こんな現状に胸を痛めているのは明らかだ。
 普通ならば間近で目にすることすら厭うだろう。
 それなのに、会いにきてくれと懇願する。
 立ち去る間際に翌日の約束を得ようとする。
 そんな必死さが不可解極まりないと今更のように気付いて、勝真は眉をひそめた。
(やっぱり……会わない方がいい)
 理屈ではない部分が俄かに警鐘を鳴らし始める。
 花梨に会ってはいけない。

 会ってしまったら、何か――対応しきれない事態になるような気がする。 

(今だけじゃない。俺がこの状態のままなら、これから先ずっと――)
 暗澹たる思いでかぶりを振った、そのときだった。
「――勝真さんっ!」
 慌しい足音に数拍遅れて響いた声。
 しまったと思ったときには遅かった。

 ――どうしてこの娘はこうあっさりと気配を察知してしまうのだろう。 

 花梨の居室からは決して近くない場所だ。
 ましてや物音など立てられない今の状態で、気付かれてしまったことは驚異に値する。
「勝真さん、よかった……もう来てくれないかと――」
 安堵の色に満ちた眼差しに耐え切れず、明らかにそれと分かる仕草で視線を逸らす。
 花梨もさすがに気付いた様子で、嬉しそうだった声を不自然に途切れさせた。
「あの、勝真さ――」
「来るつもりはなかった」
「え……?」
 零れ出でた声は、自分でも驚くほど冷たくこわばっていた。
 一瞬だけ胸が痛んだが、むしろこれでいいのだと即座に思い直す。

 ――優しい言葉など、今は邪魔になるだけでしかない。

「今日だけじゃない。もう、俺はこの先ずっと……おまえの前には現れない」
 口にしてしまえば存外あっさりとした言葉だ。
 だがその中に込められた想いは、決して軽いものではない。
 目を逸らしたままではすべてが伝わらないかもしれないと思い、覚悟を決めて勝真は視線を戻した。
 呆然と見開かれた双眸が傷ついた色を刷いて勝真へと注がれている。

 ――こんな表情を、見たくなどないのに。

「か、つざね、さん……?」
「そのほうが――いいんだ」

 
 *     *     *


 勝真は今、何を言ったのだろう。
 言葉は音として耳に入ってきたけれど、何を言われているのか分からない。

 いや――分かりたくないだけだというのが正しいのかもしれない。

「ど……いうこと、ですか……そのほうが――いい、って……」
 心臓が、おかしい。
 今までに聞いたこともないような音で、忙しなく胸を叩き続けている。
 両手で強く押さえても収まってくれそうにない。
「どうして……?」
 愚かしい質問だったと、口にしてから後悔した。
 聞くまでもないことだと花梨にも本当は分かっている。

 ただ認めたくないだけで――嘘だと言ってほしいだけで。

「分かるだろう、今の俺には何もできない。本当に何も――何ひとつ、だ」
 暗い嘲りの表情は花梨に向けられたものではなく、勝真が自身を罵っているのだと分かる。
「おまえの傍にいたってどうにもなりはしない。おまえの役に立ってくれる奴は他にちゃんといるだろ」
「やっ――」
 その先を聞きたくなくて咄嗟に耳を塞ごうとしたが、間に合わなかった。
 花梨にとって最も残酷な言葉を、勝真は静かにその唇に乗せてしまっていた。

「だから、俺はもう――必要ないだろう?」

「そんなっ――そんなことないです!」
 千切れそうなほどにかぶりを振って全力で否定しても、勝真の態度は揺るがなかった。
 いっそ滑稽なほど静かな瞳で、ただ花梨を見ている。
 まさしくそれが本気の証なのだと、分かりたくもないのに分かってしまった。
「いや……です、絶対に、いやです……っ!」
 自分の無力さを今ほど恨めしく思ったことはない。
 駄々をこねる子どものように、懇願することしかできないなんて。
「お願いだからどこにも行かないで、勝真さん……!」
 血を吐くような願いにも、応えてくれる声はない。
 勝真は苦しげに唇を噛み締めたままで再び視線を逸らしてしまった。
 このまま会話が途切れたらそこが終わりだと、咄嗟に緊張が走る。
「約束、したじゃ……ないですか」
 込み上げてくるこの感情を何と呼べばいいのだろう。
 乱れた思考と激情のままに、花梨は叫んでいた。

「勝真さん、わたしのこと守ってくれるって……っ、約束、したじゃないですか……っ!」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。
 こんなことが言いたいのではないのに。

 守ってもらえなくても、そんなことは構わない。

 何も大それたことなど望んではいない。


 ――ただ傍にいてほしいだけなのに。


「……すまない」
 花梨の理不尽な罵倒にも、勝真は静かに呟いただけだった。
「っ……謝らないで、ください……っ」
 謝罪はまるで刃のようだ。

 もう彼の心は決まってしまったのだと――その約束は既に無効なのだと、認められてしまったようで。

「勝真さん、わたし――」
 どうにかして勝真を引き止めたいと、それだけが頭の中で渦巻いていた。

 ――考えるより先に口走っていたのは、自覚したばかりの淡い想い。

「わたし、勝真さんに言いたいことがあるんです。今まで気付かなかったけど、ほんとはずっと勝真さんのこと――」

「花梨!」
 鋭く遮られ、口を噤むことしかできなくなる。
 それだけで何よりも雄弁な拒絶の意思を感じ取り、胸に鋭い痛みが走る。
 だが勝真は花梨よりもっと苦しそうに表情を歪め、搾り出すような声で呟いた。
「駄目だ。それ以上……言うな」
「ど、どうして……」
 言葉にすらさせてもらえないことに僅かな理不尽さを感じたのは一瞬のこと。
 見たこともないほどの苦悶を滲ませる勝真の顔を見ていたら、そんな考えも即座に消し飛んでしまった。 

「今の俺には、おまえのどんな言葉にも応えてやれる術はないんだ。だから――言うな」

 掠れる声に滲むのは、触れるのも躊躇われるほどの激しい痛み。
 花梨が何を言おうとしたのか、すべて分かった上で言っているのだろうか。
 もしも、そうなのだとしたら。

 ――これ以上残酷な拒絶の言葉を、花梨は知らない。 

「勝真さん――」
「いや――言わないでくれ。……頼むから」
「勝真さん……っ」
 そして同時に思う。
 これほどまでの優しさも他に知らない、と。

 ――誰よりも好きだと想えることに、誇りすら感じられるほど。 

 だからどうしても、離れたくなどない。
 一方的なこの想いは通じなくても構わないから。

 そばにいてほしい。

 
 ――願うのは、それだけ。

 
 改めて狂おしいほどの感情が募る。
 どうすれば勝真はどこへも行かずにいてくれるのか、
 すばやく巡らせた考えの中で答えがひとつだけ導き出された。
「……じゃあ、方法を見つければいいですか?」
 唐突に話向きが変わったことで、勝真が訝しげにこちらを見る。
「方法を見つけて、勝真さんが元の姿に戻れたら――そしたらどこへも行かないでいてくれますか?」
「なに……?」
 明らかに面食らった様子の勝真が、瞬きを繰り返して花梨の顔を注視する。
「おまえ、いったい何を――」
「勝真さんが元に戻れる方法を見つけてきます。だから、待っててください!」
 有無を言わせぬ口調できっぱりと言い切り、返事も待たずに踵を返す。
 そのまま駆け出した背中に勝真の声が飛んできたが、立ち止まることはしなかった。
「花梨? ――おい、ちょっと待て!」
 ようやく花梨の思惑を把握したのか、その声は段々と切迫したものになっていく。
 だが今回ばかりは、聞き入れることはできなかった。

「待て花梨――花梨っ!」