指先に願いひとつ
5
実はすべて悪い夢だった。
明日の朝に目覚めたら、そうなっていたりしないだろうか。
まだ往生際悪くそんなことを考えてしまう自分を、花梨は内心で鋭く叱咤した。
(逃げてちゃダメだよ。これからどうしなくちゃいけないのか、ちゃんと考えなきゃ)
勝真の為にできること。
だが考えを巡らせて、花梨は愕然とした。
――何ひとつとして思いつかない事実に。
それどころか、上手く思考すらまとまらない。
ただひたすらに――不安で。
いつも守ってくれていた広い背中。
さり気なく差し伸べてくれる大きな手のひら。
当たり前のようにすぐ傍にあった安心感に、どれほど身を委ねていたかを改めて知る。
(わたし本当に、いつのまにか勝真さんに頼りきってばかりだったんだ……)
まるで、繋いでいたはずの手を急に放された幼子のようだ。
追い求めて必死に伸ばす指先に、望むぬくもりを得られないことが心細くてたまらない。
初めて京に降り立ったあのときでさえ、今より遙かに良かったとまで思える。
何も頼れるものがなかったあのときよりも、今感じる痛みのほうがずっと鋭い。
そして、そんな風に感じる事実に改めて愕然とする。
――『おまえが俺のことを詮索せず誰にも言わない限り、俺はおまえを守ると約束するぜ』
たとえ交換条件でも、勝真は嘘をつかなかった。
そもそもの理由が何であれ、いつも全力で花梨を守ってくれた。
(それなのに、わたし――)
約束で守られることが物足りないだなんて、どうして思えたのだろう。
昨日、心の片隅に抱いた微かな不満が、慙愧の念となって胸を締め付ける。
どれほど大きな力で包まれていたのか考えもせずに。
――ただ傍にいてくれるだけでどんなに嬉しいか、今ならこんなにはっきりと分かるのに。
(でも、どうしてこんなに心細いんだろう。勝真さんが大変なことになって、つらいのはもちろんだけど……)
八葉は勝真だけではない。
勝真に守ってもらえなくとも、他に花梨を守る人がいないわけではないのに。
理性ではそう思っても、別の部分が違う感情を訴えてくる。
いつも傍にいてほしいのは――守ってほしいのは、勝真なのだと。
「……っ」
そこまで考えた途端、胸の痛みがよりいっそう鋭さを増した。
同時に早鐘を打ち始める鼓動。
今までこんな感覚を味わったことはない。
他の誰のことを考えても、こんな痛みは伴わない。
困惑の只中で、それでもなんとなく分かった気がした。
それはたぶん――勝真だから。
きっと、他の誰であっても駄目なのだ。
そう気づいたら、心の堰が壊れたように様々な感情が溢れ出してきた。
勝真の笑顔や仕草や、何気ない言葉のひとつひとつが胸に浮かんでは降り積もっていく。
溢れて――張り裂けそうになる。
こみ上げてくる熱いものを懸命に堪えながら、花梨は思わず両手で胸を押さえた。
どうして今、こんなときに気づくのだろう。
――こんなにも勝真のことを好きでたまらない心に。
「勝真さん……」
名前を口にした瞬間が限界だった。
「かつ、ざね――さん……っ」
止め処なく零れては落ちる涙が音もなく膝を伝う。
世界が滅びてもここまで絶望はしないだろうと、肩を震わせながら花梨は思った。
* * *
泣いていたのだろう。
おそらくは、たったひとりで。
翌日、四条の尼君の館を再び訪れると、花梨の眼は真っ赤に腫れていた。
勝真の顔を見ると嬉しそうに笑ってはくれたが、それは勝真の知るいつもの花梨の笑顔では到底ない。
無理もない。
というより当たり前だろう。
表面上だけであれ笑顔を作れることに、勝真のほうが驚いたほどだ。
気丈な娘だと、今更のように思う。
そしてそんな花梨の強さが、今の勝真にはとにかく居た堪れなかった。
この手で花梨を守りたいし、できることならばいつも心から笑っていてほしい。
泣かせるなどもってのほかだ。
だが今はそのすべてが叶わない。
叶わないどころか――花梨の心を乱しているのは他の誰でもない、勝真自身なのだ。
花梨を守った結果だと言えばそうかもしれないが、これでは守った内には入らない。
改めて己の不甲斐なさに反吐が出そうだ。
――結局、この無力な身にできることなど何ひとつないのだと、今更のように思い知らされて。
「ところで勝真さん……おうちのほうは大丈夫なんですか?」
おずおずと問いかけてくる声で我に返った。
見ると、いかにも心配そうな眼が静かに見上げている。
それに関してだけは多少なりとも安心させてやれるかと思い、勝真の表情が僅かに緩んだ。
「ああ、当面は何とかごまかせそうだ」
予想外の答えだったのだろう、花梨が大きな瞳を瞬いた。
「え、どうやってですか?」
素直な驚きに勝真の心も一瞬和む。
「泰継が式神を用意してくれてな」
「しきがみ、ですか」
「ああ、昨夜いきなりやってきて、俺の姿形をした式神を置いていった」
勝真の行方が杳として知れず落ち着かないままの屋敷に、泰継は文字通り音もなく現れた。
そして、見えていない割にはやけに正確に勝真のほうを向き、式神について説明すると、来たときと同じように静かに去っていったのだ。
「以前に泰継の姿の式神を見たことがあるが、本当に見た目は本人と全く変わらなかった。だから今回もたぶん、大丈夫だろ」
「そうなんですか……」
どこか安堵したように花梨が呟く。
それに水を差したいわけでは勿論ないが、勝真は念の為に付け加えた。
「だがあくまで『当面は』だがな。いつまでも誤魔化しきれはしないだろう」
「そう――ですよね」
途端に力なく俯く様は、さながら萎れた花のようだ。
と思う間もなく再び顔を上げた花梨は、毅然と唇を引き結んでいた。
唐突な様子の変化に勝真のほうが軽く戸惑う。
「やっぱり一刻も早く元に戻れる方法を考えないといけないですよね。わたしも頑張りますから!」
両の拳を握り締めて力強く宣言する小さな身体。
その全身から溢れ出る見えない輝きに目が眩んだような錯覚を感じて、勝真は堪らず眼を逸らした。
「ああ……すまない」
頼り切ることしかできない今の状況が、とにかくもどかしい。
再び花梨を守ることができる日はいつなのだろう。
いや――本当にそんな日が訪れるのだろうか。
(……っ)
もしもこのままずっと元に戻れなかったら。
二度と花梨を守れない。
細い腕に、柔らかい髪に、小さな肩に――二度と触れることはできない。
まるで今はじめてその事実に気付いたかのように、勝真はきつく唇を噛み締めた。
もともと花梨の傍にいたのは勝真ひとりではない。
他にも花梨を守る存在はいるのだから、勝真がいなくても花梨自身は何ら困りはしないだろう。
だが、それに異を唱える声が脳裏で響くのだ。
花梨を守る役目を他の誰かに譲りたくない。
(いや、違う。それもあるが、そうじゃなくて、もっと――)
それは建前だ。
そうではなくて、胸の底に渦巻く本当の気持ちは。
――花梨を、他の誰にも取られたくない。
漠然と抱いていた想いが突如として明確になり、軽い眩暈に似た心地に襲われる。
(なんで……こんなときに……っ)
他の誰でもない、自分自身を罵る言葉が危うく口を突いて零れそうになる。
何故、今、気付くのか。
――文字どおり何もできないでいる、こんなときに。
「勝真さん……?」
不安げに問いかけてくる声にも振り向くことができない。
目を逸らしたまま、続く言葉を探すこともできない。
「勝真さん、あのっ――」
いつもの調子で、着物の裾を引こうとでもしたのだろう。
細い指先がこちらへ向けて伸ばされたのが視界の端で見て取れた。
だが次の瞬間その手がこわばり、弾かれたように戻っていく。
思わず視線を戻すと、花梨は胸の前で両手を強く押さえて目を伏せていた。
「ご、ごめんなさい……」
「いや……」
何も謝る必要などない。
そう言おうとした唇は、しかし上手く動いてはくれなかった。
今更のように気付いたから。
どんな言葉を紡いでも花梨の心を軽くしてやることはできないのだと。
気にするなと何度言っても。
おまえのせいじゃないと、どんなに告げても。
きっと花梨は納得しない。
頷いたとしても、それは本心ではない。
勝真が今の状態から解放されない限り、花梨は胸を痛め続けるだろう。
――目の前で見せ付けられていては、なおさら。
(花梨……)
こんな身体になっても会いに来てほしいと言われたとき、嬉しかった。
花梨が望んでくれるのなら、そのとおりにしてやりたかった。
だが、それは――間違っていたのかもしれない。
「すまない。今日は……これで失礼する」
搾り出すような声音でそれだけ告げて、後はもう振り返らなかった。
「え、勝真さん?」
突然のことに困惑した様子で花梨が声を上げる。
「あのっ、来てくれてありがとうございました!」
どこまでも律儀にそんなことを言う真っ直ぐさが、今はただ胸に痛い。
もしかしたら、その次に続く言葉を予測していたせいかもしれない。
「明日も、来てくれます……か……?」
思ったとおりの言葉が静かに耳を打つ。
控えめに願う声に、応えてやりたかった。
だがどうしても頷くことができず、かといって突き放す言葉を口にすることも叶わず、勝真は無言のままその場を後にした。
「勝真さん? ――勝真さんっ!」
戸惑いと焦りとの入り混じった声がいつまでも耳の奥で響いて、消えてくれなかった。