指先に願いひとつ


 それぞれが各々の思いを抱えたまま、館を辞去していった。
 皆ひとりずつ、自分にできることをすると花梨に強く約束した後で。
 それが実際に功を奏するかどうかは残念ながらまた別の話だが、皆の気持ちは純粋に嬉しかった。
(わたしには――何ができるんだろう……?)
 虚ろな思いで空間に視線を彷徨わせ、小さく唇を噛む。
 いつの間にか勝真もいなくなっているのに気付き、自分でも驚くほど胸が痛んだ。
(勝真さん……)
 いきなりこんなことになって、いちばん戸惑っているのも困っているのも勝真のはずだ。
 いつも助けてもらってばかりだから、こんなときこそ何かしたいのに。
「これから、どうしたらいいんだろう……」 
 重い溜息と共に、胸の内がそのまま零れ出でる。
 握り締めた拳が震えているのが自分でも分かる。

 ――と、そのとき渡殿のほうで気配がした。

「……っ!」
 理屈ではない何かで、確かに感じ取れたそれは。

 紛れもなく勝真の気配だった。

「勝真さんっ――」
 転がるようにして渡殿へ出ると、果たしてそこに勝真が立っていた。
 みるみるうちに胸中へ染み渡っていく安堵感。

 ――目の前に勝真がいることを、これほど嬉しいと思うなんて。 

「よかった……帰っちゃったかと思いました」
 心底からの思いを素直に口に出すと、それまで無表情だった勝真がぴくりと眉を動かした。
 不可解なものを見るような視線が、じっと花梨に注がれる。
 やがてその眼を静かに逸らして、勝真は呟いた。
「――帰ったところで、どうなるものでもないからな」
 どこか自嘲気味に響く言葉。
 今ならもう、彼の姿が普通ではないことがひと目ではっきりと見て取れる。

 不自然に透けた、有り得ない状態の身体。
 自分の邸へ戻っても、今の勝真を認識して出迎えてくれる者はいないのだ。

「……すみません」
「別に謝るようなことじゃない」
「でも……」
「――ちょうど、それを言おうと思っていた」
「え?」
 微妙に調子の変わった声音に思わず首を傾げてしまう。
 勝真は花梨のほうを見ないまま続けた。
「おまえのことだからきっと、いろいろ気にしてるんだろ」
「そ、それは――」
 当たり前だと思う。
 そう言おうとするよりも勝真が言葉を次ぐほうが早かった。
「おまえがそこまで気に病む必要はない。それだけ――言っておきたかったんだ」
「そっ――そんなわけにはいかないですよ!」
 胸を占める思いと正反対のことを言われ、知らず花梨の声は強くなっていく。

 和仁の呪詛の石がこの事態を引き起こしたというのなら。

 ――勝真は、花梨を庇ったせいでこうなったのだ。

「だって――わたしのせいじゃないですか。あのとき、ほんとなら……っ」
 本当なら、あの石を身体に受けていたのは。

「わたし、だったはずじゃ――ないですか……」

 力なく消えていく言葉。
 言ったところで事態が変わるわけではないけれど、それでも言わずにはいられなかった。
「……そう言うと思ったぜ」
 大仰な溜息が耳を打つ。
 俯いた花梨の目に勝真の表情は見えないから、怒っているのか呆れているのかは分からなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい勝真さん」
 謝罪の言葉に意味などないことは分かっている。
 どんなに繰り返しても、勝真を元に戻す方法には成り得ない。

 だが今の花梨にできることは他にないのだ――何ひとつとして。

「ごめんなさい。わたし……っ、勝真さんに迷惑ばっかり――」
「やめろ花梨」
 堪りかねたように遮られて、それ以上言葉を次げなくなる。
 と、ふわりとした温かな気配が近づいたのを感じて、花梨は弾かれたように顔を上げた。 

 いつもならきっと、小突くような仕草で頭を撫でられている距離だ。
 目の前にある勝真の姿は、確かにこの目に見えるのに。

 ――勝真は、確かにここにいるのに。

「おまえのせいだなんて思っちゃいないし、迷惑だとも感じてない。むしろおまえがこんな目に遭わずにすんで良かったと安堵してるくらいだ」
「そんな――」

「おまえを守ると約束しただろう。だから――これでいいんだよ」

「……っ!」
 まるで何の迷いもないような口振りで、軽く笑みさえ浮かべて勝真は言った。

 ――こんなときにまで、どうして。

(どうして……?)

 喉元まで出かかった疑問を花梨は必死で飲み込んだ。
 なんとなく尋ねてはいけない気がして。
 代わりに花梨の唇は、まったく違う疑問を紡ぎ出していた。
「わたし……わたしには、何ができますか? 勝真さんはこれから――どうするんですか?」 
 それも答えにくい質問であることに変わりはないだろう。
 案の定、勝真は僅かに眉をひそめて言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「おまえは今までどおり神子の務めを果たせばいい。俺は――」
 軽くすくめられた肩と、口の端に刻まれる苦い笑み。
「――俺はどうするかこれから考えるさ」
 他人事のような口調の中に見え隠れするのは、自嘲の響きと――諦め、だろうか。
 締め付けられるような痛みを訴えてくる胸を、花梨は思わず両手で押さえた。
 だがすぐに気を取り直して勝真へ向き直る。
「でも、皆さんもいろいろ力になってくれるし、きっとすぐ元に戻れますよ」
 わざと明るく言うと、勝真は微かに瞠目した後に小さく笑った。
「ああ……そうだな」
 それは先刻のような苦味を帯びた笑みではない。
 少なくとも花梨にはそう見えた。
 彼がそういう表情を見せてくれたことは、こんなときでもやはり嬉しかった。
「じゃあ俺はそろそろ行くぜ」
「え?」
 咄嗟に瞬きで見上げた先に、驚くほど静かな瞳がある。
「一応、家に戻ることにするさ。いつまでもここにいるわけにはいかないだろ」
「それは――」
 確かにそのとおりかもしれない。
 だが、いつもなら笑顔で見送ることができるはずなのに、今はどうしてもそうすることができない。

 ――まるで、このまま二度と会えなくなってしまうようで。 

「あの……っ、勝真さん!」
 立ち去ろうとする背中を呼び止めたのは無意識だった。
 不思議そうに振り返る勝真へ言うべき言葉を探したのは、一瞬のこと。
「ひとつお願いをしても、いいですか?」
 そんな発言は予想だにしていなかったのだろう。
 勝真の瞳に浮かんだ色は呆れに似ているように見えた。
「なんだか分からないが……今の俺にできることなんて何もないぜ」
 それでもいいなら聞くだけ聞いてやる、と声の端から感じ取れて、胸が熱くなる。

 ――こんなときでも、花梨の言葉に耳を傾けようとしてくれる。

 こんな優しさを、花梨は他に知らない。

「明日からも、会いに来てくれますか――ううん、来てください……お願いします」
 言い直した意味が勝真に伝わったかどうかは分からない。
 永遠にも思えた空白の後、彼は小さく息を吐いた。
「さっきも言ったが、今の俺がおまえにしてやれることは何もない。傍にいても――何ひとつ」
 静かな口調が容赦なく突きつける現実。
 ならば、続く言葉はおそらく拒絶に違いない。
 絶望感に苛まれながら半ば覚悟を決めてしまっていたから、次に聞こえたのは幻聴かと思った。

「だが、それでもいいなら……おまえがそれを望むなら、そのとおりにしてやるよ」 

「……ほんと、ですか……?」
「ああ」
「っ……! ありがとうございます……!」
 その瞬間、浮かべた笑みはおそらく子供のようだったに違いない。
 それくらい嬉しかった。

 ――昨日までは当たり前だったはずの、こんな些細なことが。

 そう考えた途端、ちくりと胸に痛みが走り、花梨の顔から笑みが消えた。
 勝真も同じことを思ったのだろうか、居た堪れないといった風情で視線が逸らされる。
「じゃあな」
「あ、はい」
 それ以上呼び止める理由は無い。
 花梨が素直に頷くと、今度こそ勝真は背を向けた。
 と同時に指が意思を持ったかのように持ち上がり、勝真のほうへまっすぐ伸びていく。

 確実に届いていた距離だ――いつもなら。
 勝真の逞しい腕に指先が触れていたはずだ――本当だったら。 

 けれど花梨の指はそのまま静かに己の身体の脇へと戻ってきただけだった。
(勝真さん……)
 強く瞼を閉じて、切れそうなほどに唇を噛み締める。
 そうしていないと、溢れ出そうとする感情に押し流されてしまいそうだった。