指先に願いひとつ
3
つい先刻まで心地良いと感じていた朝の空気が、ひやりと身を震わせる寒風に一瞬で変貌したかのようだ。
ともすればその場へくずおれてしまいそうになる足に、花梨は必死で力を込めた。
「ど、どうして……いったい何があったんですか?」
勝真自身が答えを持っているとは限らないのに、つい勢い込んでそんな質問を投げかけてしまっていた。
細かいことを考える余裕など、今の花梨には欠片もありはしなかった。
だが、対する勝真は花梨が面食らうほど冷静に見える。
「さあな……俺にだって訳が分からない。今朝、起きてみたらこうなっていたんだ」
そう前置きをして、勝真は自身の把握している限りの事情を説明してくれた。
昨夜は特に異変は感じなかったらしい。
今朝、目を開けた瞬間に何かがおかしいことに気づいた。
まず不思議に感じたのは着物だったという。
確かに夜着で眠りについたのに、起きたら普段の着物を着ていた。
それだけで既に頭のどこかが警鐘を鳴らしたが、身に降りかかった災厄はそんなものではなかった。
女房がいつものように朝の支度をしにきたとき、やっとその正体が分かった。
彼女が、勝真の存在に気づかないのだ。
すぐ目の前にいるのにもかかわらず。
何度も呼びかけてみても反応がまったくないことから、声も届いていないとすぐに窺い知れた。
堪らず、彼女の肩を掴んで揺すろうとして――それが叶わないことにやっと気づいた。
主の不自然な不在を女房は無論不審に思い、青ざめた顔で他の者を呼びにいった。
他の女房や舎人など何人もの人間が勝真の部屋へやってきたが、誰一人として彼の存在に気づく者がいなかった。
――まるでこの世界から隔絶されてしまったかのように。
勝真の存在のすべてが他者に認識されなくなっているのだ。
当然のように邸の中は大騒ぎになった。
勝真が夜中のうちにどこかへ抜け出したというのが大半の者の最も常識的な見解だったが、門番はもちろんのこと、他の下働きの誰もそのような気配は感じなかったという。
当たり前だ。
勝真はどこへも出かけてなどいないのだから。
だがそれを立証できる者は誰もいない。
勝真自身が目の前で幾度訴えようとも、耳を傾けてくれる者もいない。
――邸中の、誰一人として。
「もしや俺は亡霊にでもなっちまったのかと思ったが、どうやらそういうことでもないらしい。亡霊なら、抜け殻になった身体が残ってるだろうしな」
冷静に考えたら相当恐ろしいことを、なんでもないことのように呟く勝真。
花梨が思わず身震いしたのは、朝の空気の冷たさのせいではもちろん無い。
「で、でも、わたし見えますよ勝真さんのこと。声だってちゃんと――今の話、全部聞こえましたよ」
とてもにわかに信じられるような事態ではないが、錯覚でも幻聴でもない。
今、勝真は目の前にいる。
理屈で説明できるような根拠はないが、直感とでも呼ぶべきものを花梨は確かに感じていた。
だがそれを聞いても勝真の表情が晴れることはなく、彼は重々しく息を吐いた。
「……おまえに気づいてもらえるなんて思っていたわけじゃないが、気付いたらここに来ていた。なんで――俺がいるって分かったんだ?」
「え、な、なんでと言われても……」
いきなり質問を投げかけられ、何故か必要以上に動揺してしまう。
「ええと……たまたまですよ。なんだかいつもより早く目が覚めちゃって、なんだか変な胸騒ぎがしたんですけど、それが何なのかはよく分からなくて。朝ごはんの時間までちょっと散歩でもしようかと思って――」
そこまで言った途端、花梨は鋭く息を呑んだ。
もしかしたら――あの胸騒ぎの正体はこれだったのだろうか。
勝真自身が先刻言ったように、彼の存在を認識できるのが花梨だけで、もしそれが龍神の力と関係しているのなら。
それと同じ理屈で、何かを感じ取っていたということなのかもしれない。
けれど、だからといって具体的に何かができるというわけでもないのだ。
言葉の途中で急に押し黙った花梨を、勝真が訝しげに見た。
「? なんだ?」
「いえ……」
ゆっくりと頭を振りながら、己の無力さをひしひしと感じる。
この状態で花梨が考え、且つ実行に移せることはひとつだけだった。
* * *
一堂に集い、話を聞き終えた八葉の反応は様々だった。
素直な驚きを表す者、思案気に眉根を寄せる者、怒りのような表情を見せる者――。
表現の仕方はそれぞれだが全員に共通している感情は、強いて言うならば当惑だろうか。
花梨が今の状態ですることができた唯一の行動――すなわち他の八葉を召集して事の次第を伝えること――を終えると、誰からともなく吐息が零れ、まるでその場の空気をすべて支配するかのように重く満ちた。
「――そんなバカげた話、信じろって言うのかよ!」
誰もが言葉を飲み込んだままの静寂の中、真っ先に心の内を吐き出したのはイサトだった。
直情的な彼らしい激した声に思わず身を竦めてしまう。
それを見た幸鷹が軽く咎めるような目でイサトを見た。
「イサト、気持ちは皆同じです。少し落ち着きなさい」
「なんでっ――、落ち着いてなんていられるんだよ!」
「怒りや焦りは何も生まない。これからどうするかを冷静に考えるべきだ」
火に油を注がれたイサトへ別方向から頼忠が言葉をかける。
短いが理路整然とした物言いに、ようやくイサトもしぶしぶといった体で押し黙った。
再び訪れた沈黙に耐え切れず、思わず花梨は口を開いた。
「……本当に皆さんには勝真さんが――見えないんですか……?」
部屋の隅に勝真はいる。
だが誰一人としてそれに気づいている様子はない。
八葉同士ならば何らかの繋がりで見えたりしないのだろうか――そんな花梨の期待に反して、頷いてくれる者はいなかった。
「姿は見えない。ただ、気を感じるだけだ。だから勝真がそこにいることは分かる」
「ええ、わたくしも勝真殿の力強い気をすぐ傍に感じます。ですが、お姿までは……申し訳ありません」
八葉の中でも特に霊力の高い泰継と泉水がそう言うのなら、他の者もそうなのだろう。
「そう――ですか」
努めて淡々と呟いたつもりだったが、落胆は誰の目にも明らかだったろう。
だが少なくとも花梨の話が本当だということだけは、この場の全員が分かってくれている。
それだけでほんの少し、心の中に明かりが点ったような気がした。
幸鷹も言ったとおり、勝真の身を案じているのは皆同じなのだ。
ふとそこで、最も根本的な問題に花梨は気づいた。
――そもそも何が原因で、勝真の身に異変が起こったのだろう。
「あの……どうしてこんなことになってしまったんでしょう? 昨日まで勝真さん、全然変わったところなんてなくて――」
「――宮様の、あの石じゃないのか」
「え?」
それまで沈黙を守り通していた勝真が急にぽつりと呟いた。
聞き間違いかと思い、慌ててそちらを見遣ると、勝真は暗い瞳を花梨へ向けてもう一度同じ言葉を口にした。
「宮様が呪詛に使っていた石のひとつを投げて、それが俺の身体に当たっただろう。そこまで強い力を秘めているようには感じなかったが、原因といったらあれしか思い当たらない」
「……っ!」
頭を何かで思い切り殴られたような感覚に、花梨はよろめきそうになった。
勝真の言うとおりなのだとしたら、それは、つまり――。
「花梨さん、どうかしたんですか?」
急に様子の変わった花梨を気遣うように彰紋が口を開く。
「勝真殿が何か仰っているのですか?」
「あ、あの……」
八葉の皆と、その皆には見えない勝真とを交互に見比べてしばし迷う。
和仁は彰紋の兄だ。
彰紋の前で――今この場で、その出来事を話していいものだろうか。
だが勝真の目は花梨を促すようにまっすぐこちらを向いている。
皆に伝えてくれと、その目は言っていた。
確かに、呪詛の石をぶつけられたのは事実だ。
それが原因だという確たる証拠はないが、もしかしたら何かを導き出してくれる者がいるかもしれない。
花梨は小さく頷いて、皆の方へ向き直った。
「実は、昨日――」
船岡山での出来事をかいつまんで話すうち、皆の表情がそれぞれ違う色へと変化していく。
怒り、呆れ、悲哀――中でもとりわけ憂いと戸惑いの色を濃くしたのは、やはり彰紋だった。
「兄上が、そのような……」
「あの、でも、それが原因かどうかは分からないし――」
「ならば他にどのような可能性がある」
居た堪れなさから思わず苦しい気休めを口走った花梨に、泰継が容赦なく畳み掛ける。
答えなど持たない花梨は口を噤むしかなかった。
「少なくともひとつは可能性があるのなら、まずはそこから当たってみるしかないでしょうね」
彰紋に対して若干気遣う様子を見せながらもあくまで冷静に分析するのは、幸鷹だ。
「宮様の不穏な動きは前々から気になっていましたが……このような形で調査の理由ができるとは思いませんでしたよ」
眼鏡の端を指先で押し上げながら呟く幸鷹の頭の中では、既に調査の計画が練られつつあるのだろうか。
どこか虚ろな眼で見るともなしに見ていた花梨は、自分が溜息を零したことにも気付いていなかった。
(もし本当に和仁さんの呪詛の石が原因なんだとしたら――)
「神子殿、そう気を落とすものではないよ」
突如、場違いなほど明るい声音が静かに部屋の空気を揺らした。
弾かれたように見遣ると、いつもと同じ飄々とした笑みを浮かべた翡翠が、じっとこちらを見ている。
花梨の重い吐息をどう受け止めたのか、彼は幼子に諭して聞かせるような口調で囁いた。
「何も勝真は命を落としたわけではない。ならば元に戻す方法を考えればいい――違うかい?」
無論、それは真理だ。
それさえ可能ならば、今の事態はすべて解決する。
翡翠の言葉は単なる気休めではない――けれど。
「そう――ですよね」
曖昧な笑みを浮かべて小さく頷いてみせる。
翡翠の気遣いは嬉しかったが、今の花梨には心から事態を楽観視することなど到底できそうになかった。