指先に願いひとつ


 こんなかすり傷ひとつに、あそこまで顔色を変えるとは。
 花梨という娘の気質はそれなりに理解しているつもりだったが、まだまだ認識が甘かっただろうか。
(まったく……大袈裟な奴だぜ)
 呟きと共に零れるのは、微かな苦笑。
 気遣って貰えるのは決して悪い気分ではないが、少し心配性すぎはしないだろうか。
 それが彼女の美徳と言ってしまえば無論そのとおりなのだが。
(人の心配をするより自分の心配をしろと言いたいがな)
 いろいろと頑張っているのは分かるが、見ていて危なっかしいことこの上ない。
 常に全力で駆け回っているから自分のことまで考える余裕がないのだろう。
 それなのに相手のことを気遣う余地があるのは、勝真にとっては不思議としか言いようがないのだが。
(まあ、そんな奴だからこそ守り甲斐もあるってものか)
 知らず口元に穏やかな笑みが浮かんでいく。
 花梨を守ることは今や勝真にとって、当たり前のように自然なことになりつつあった。
 きっかけは勝真からの一方的な約束だったが、掛け値なく彼女を守りたいと思う気持ちが今は確かにある。

 ――そんな勝手な言い分は、とても言い出せはしないけれど。

 だからせめて全力で守ることが、今の勝真にできるすべてなのだと思う。

 花梨のためにできることは――今はそれしかない。
 多少の傷を負うことくらい、なんでもないことだ。

(だが……少し気にはなるな)
 腕を見ながら、勝真は微かに眉を寄せた。
 外傷自体は本当に大したことはない。

 けれど、あの石は確かに呪詛を帯びていた。
 ぶつけられた一瞬に身体を取り巻いたように感じた、禍々しい感覚。

 あれが、ただの気のせいならば良いのだが――。

 そのまま考え込んでしまいそうになるのを、頭を振って追い払う。
 他の石は花梨が浄化したのだし、心配はないだろう。
 現に今も自分の身体に異変などは感じられない。
 何も気にすることなどないはずだ。

 そう結論付けて灯りを消し、勝真は眠りについた。
 

 ――無意識下で異変に蝕まれていることにも、気づかないまま。

 

 *     *     *

 

 床から起き出した花梨は、気合を入れて大きく伸びをした。

 何故か今朝はいつもよりずいぶんと早く目が覚めた。
 普段ならば一度目を開けてもなかなか起き出す決心がつかず、往生際悪く床の中で過ごしてしまうことも少なくないのに、今朝に限ってはそんなこともなく、自分でも驚くほどすんなりと花梨は身を起こした。
(んん、なんだろ……なんだか胸騒ぎがする……?)
 せっかくの早い目覚めも、あいにくすっきりとした感じではない。

 何か――上手く説明できない奇妙な重さが、意識の上に載っているような感覚とでも言うのだろうか。

 けれどそれが何なのかは、さっぱり分からなかった。

(昨日の和仁さんの呪詛の件が、まだ心に引っかかってるのかな?)
 この世界へ来てから呪詛は何度か目にしてきたし、そのたびに浄化もしてきた。
 触れるだけで浄化できると今は分かっているから、向き合うことに対して恐れのようなものはあまりないが、だからといって簡単に慣れたり割り切れたりできるわけではないのもまた事実だった。
(誰かを、不幸にしようとするためのもの……)
 そんな恐ろしい力を、自らすすんで行使しようとする者がいる。

 それはひどく残酷で――悲しいことだ。

(でも今回もなんとか阻止できたんだものね)
 最後の石を和仁が持っていってしまったのは少し気にかかるが、あのひとつだけで呪詛は成り立たないと時朝は言っていた。
 ならばとりあえずは大丈夫なはずだ。
 暗い気分を振り払うようにわざと明るく考えて、花梨は両手で自分の頬を叩いた。


 朝餉までにはまだずいぶんと時間もありそうだ。
 庭の散歩でもして時間を潰そうと思い、縁に出てみることにした。
 色づいた木の葉が朝の柔らかな光を浴びて微かに揺らめく。
 こんな穏やかな景色の中にいると、京の混乱などまるで嘘のようだ。
 澄んだ空気に誘われながら庭をゆっくり歩き始めた花梨は、しかしいくらも進まないうちにその足を止めた。
「あれ……?」
 少し離れた木の陰に見慣れた色を見かけた気がして、思わず目をしばたたく。
 そのまま首を傾げたのは、今ここにあるはずのない色だからだ。

 そう――勝真の着物の色に似ている。

(まさか勝真さんのはずないし……ここのお屋敷の誰かの着物かな? 風で飛んじゃったとか?)
 それなら持ち主が困っているだろうから、きちんと戻してあげた方がいいだろう。
 花梨はひとつ頷いて、そちらへ向けて小走りに足を進めた。
 だが近づいていくにつれて、花梨の胸には釈然としない思いが少しずつこみ上げてきた。
 着物が木の枝にでも引っかかっているのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。

 明らかに、誰かがそれを着て立っている。
 そしてそれは女性ではなく、割と背の高い男性のようだ。

 花梨が頭ひとつ分以上も見上げなくてはならないくらいの――ちょうど勝真くらいの――。

(え……うそ……?)
 ようやく目に飛び込んできた姿に、花梨は一瞬言葉を失った。
 まさかと思っていた相手が目の前にいるのはそれほど奇妙な感覚だったが、見間違うはずもない。

 ――何故か今、四条の尼君の館の庭に勝真がいる。 

 けれど彼は確かにこちらを向いていて、花梨の姿にもおそらく気づいているはずなのに、一言も声を発しようとはしない。
 ますます疑問が募る中、花梨の唇は無意識にその名を紡いでいた。
「勝真……さん……?」
 するとそこで、やっと勝真が反応を見せた。
 彼は弾かれたように肩を揺らし、信じられないものを見るような目でまじまじと花梨を見て小さく口を開いた。
「おまえ、見える――のか……?」
「え? 何がですか?」
 勝真らしくもない弱々しい声音に驚きを感じながらも、質問の意味が分からず素直に問い返してみる。
 それを聞いた勝真の表情が、何故か苦しげに歪んだ。
「……俺の――姿が、だよ」
「は……?」
 応えを貰っても、やはり意味は分からないままだ。
 目の前にいる勝真の姿が見えるのは当たり前のことなのに。
「もちろんですよ。なに言ってるんですか勝真さん? それにしてもいつの間に来てくれてたんですか?」
 思ったことをそのまま述べ、ついでにこちらの疑問も投げかけてみる。
 だが勝真は、そのどちらに対する返答とも違う言葉を口中で呟くばかりだった。
「声も聞こえてるんだな……おまえが龍神の神子だからか?」
「? あのぉ……話が全然見えないんですけど……」
 いつもの勝真はこんな謎かけめいた会話をする人ではないのに、今日はどこか変だ。

 いや――それ以前に何か途方もない違和感を感じることに、ようやくそこで花梨も気づいた。 

(なんだろう……?)
 違和感の正体を必死で探そうとしてみても、答えは何かに引っかかったように上手く出てきてくれない。
 当惑を露にしながら勝真を見遣ると、彼の眼差しは滑稽なほど真摯に花梨へと注がれた。
 と同時に、片方の手がまっすぐにこちらへ向けて伸ばされる。
「え……」
 目の前に差し出されたこの手は、どういう意味に受け取ればいいのだろう。
 勝真の顔と手とを見比べながらも手を出そうとはしない花梨へ、更に彼は近づいてくる。

 その指先が花梨の腕を捉えた――ように見えたのに、実際に起こったのは信じられない現象だった。

「え……ええっ?」
 勝真の大きな掌は、確かに花梨の手首を掴んでいるように見える。
 だがそれは「見える」だけで、花梨自身に掴まれている感覚は全くない。
(な、なに……なんで……?)

 鼓動がひとつ、やけに大きな音で胸を叩く。
 反対側の手を伸ばしたのは無意識だった。

 勝真の腕に触れようと伸びた指先は、しかしそんな簡単な動作を成功させることができなかった。
 彼の腕が見える場所を指は空虚に通り過ぎ、握り締めた手の中に収めたものは何もない。
 二度三度と繰り返してみても、結果は同じだった。

 ――勝真の身体に、どうやっても触れることができない。

「な、なんで? 勝真さん、いったいどうし――」
 答えを求めて振り仰ぎ、その途端に花梨は凍りついた。
 至近距離で見て、初めて気づいた。

 勝真の姿は、まるで幻影のように朝の光に透けているのだ。
 

 淡く儚く――そのまま消え入ってしまいそうなほどに、頼りなく。

 
「か、つ、ざね――さん……?」
 震える呼びかけに、応える声はない。

 勝真はただ、苦悶に歪んだ眼差しを力なく花梨から逸らしただけだった。