指先に願いひとつ


『おまえが俺のことを詮索せず誰にも言わない限り、俺はおまえを守ると約束するぜ』


 そう言われたのはさほど遠い過去ではないのに、もうずいぶん前のような気がする。

 ――単なる交換条件でしかない、ある意味一方的とすら言える約束。

 けれど、それでも構わないと思っていた。

 傍にいて、守ってくれる。
 すぐ近くで安心させてくれる。
 手を伸ばせばいつでも触れられる。

 いつの間にかそれが当たり前になっていた。


 ――その「当たり前」がそうでなくなる日がこんな形で訪れるなど、考えたこともなかった。


 

指先に願いひとつ

 

1.


 

 空は抜けるように青い。
 船岡山の景色は秋の清涼な空気の中で、ひときわ輝いて見える――はずだった。

 目の前で禍々しい気を振り撒く呪詛の種がなければ。
 そして、それを今まさに地面へ埋めようとしていた人物の姿がなければ。

「……和仁様、時朝殿。これはどう見ても言い逃れできる状況ではないと思いますが」

 うんざりという形容が何よりも似合う声で、あからさまに眉をひそめて勝真が吐き捨てる。
 さりげなくその背に花梨を庇う形になっているのは、きっと気のせいではないだろう。
 慇懃に名を呼ばれた和仁は、小細工を弄することを好む割に無表情を装うという芸当はできないらしい。
 彼は怒りと不快感を隠そうともせずに勝真を睨み据えた。
「うるさい! おまえごとき下級役人が私に気安く話しかけて良いと思っているのか!」
 その手に持っていた小さな石を、怒声と共に力強く握り締める和仁。
 彼の足元にはそれと同じような大きさの石がいくつも散らばっている。
 ただ無造作に置かれているようにも見えるが、よく見るとそれは何かの形に並べられているらしい。
 それが何の形かは分からないが、漂ってくる雰囲気は息が詰まりそうなほど異様だ。

 以前にも何度か見かけたものと、同じ空気。
 これは――間違いない。 
「勝真さん、あれ……やっぱり呪詛ですよね」
 後ろから小声で耳打ちすると、勝真が少しだけ顔をこちらに向けた。
「……間違いないだろ」
 頷く面持ちは硬い。
 釣られるように花梨も唇を噛み締めた。

 目の前で呪詛が行われようとしているのに、みすみす見逃すことなどできない。

 これまでの経験から、龍神の神子である花梨が触れれば呪詛は浄化されるはずだ。
 おそらくあの石の一つ一つに触れれば良いのだろう。
「勝真さん、わたし、たぶん浄化できます」
 再び小さく囁きかけると、勝真は眉をひそめた。
「今、宮様の前に飛び出していくのは危険だ」
 隙あらば飛び出していきかねないと思っているのか、
 花梨の行く手を阻むように勝真が片手を横に伸ばす。
 そんなことを言っている場合ではないと抗議しようと口を開きかけた花梨だったが、それより先に続く言葉があった。
「俺が気を逸らすから、その間に何とかしてみてくれるか」
 自分にだけ聞こえるように囁かれた小さな声に、花梨は即座に頷いた。
 それを確認した勝真が再び前へ向き直る。
「呪詛を仕掛けておきながら上級も下級もないだろう。
 身分にそこまでこだわるのなら、もう少しそれらしい行いをしてみせたらどうなんだ」
「なんだとっ!」
 既に敬語ですらない、歯に衣着せぬ物言いに和仁が色めき立つ。
「時朝っ! この生意気な小役人をどうにかしろ! 二度とこんな口が聞けないようにだ!」
「……御意」
 と、それまで和仁の後ろで黙して控えていた隻眼の男――時朝が初めて静かに口を開いた。
 大柄なその身体から並々ならぬ気迫をはっきりと感じて、花梨は思わず息を呑んだ。
 彼が本気を出せば、勝真とておそらくただではすまないだろう。
 ならば時朝が臨戦態勢に入る前に呪詛を何とかしなくてはならない。
 一瞬の隙も見逃すまいと神経を張り詰めて和仁を見遣ると、
 彼は酷薄な笑みを浮かべて時朝と勝真を見ている。

 ――今なら彼の意識は二人に集中している。

 花梨の思いに応えるように、勝真が一歩足を踏み出す。

 ――刹那。

 花梨はその場から駆け出し、和仁の足元に飛びつくようにしてひざまずいた。
「なっ……」
 当惑したように和仁が声を上げたが、花梨の意図が分からず咄嗟に判断ができないのか、動く様子はない。
 早鐘を打つ胸を必死で宥めながら、花梨は散らばっている小さな石にひとつひとつ触れていった。
 石は触れられた順に燐光を発し、粉々に砕け散っていく。
「しまった……!」
 いち早く状況を察したらしく、声を上げたのは時朝だった。
 だが彼の前には勝真が立ちはだかる。
 行く手を阻まれた時朝が足を止めた隙に、花梨はすべての石に触れ終えた。
「小娘、貴様……っ!」
 そこまで見てからようやく和仁にも状況が把握できたらしい。
 地面に跪いた体勢のまま見上げると、彼は憤怒の形相で花梨を見下ろしていた。
 ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
「小癪な……私の呪詛を浄化したというのか!」
「和仁様――こうなってしまってはもうどうしようもありません」
 勝真の向こうから呻くような声で時朝が進言する。
「すべての石を正しく並べねばこの呪詛は成立しません。
 恐れながら、宮様がお持ちの石ひとつでは、もはや――」
「黙れっ!」
 認めたくない事実を的確に指摘された和仁が幼子の癇癪のように声を上げる。
 その全身が怒りのあまり小刻みに震えているのが花梨にも見て取れた。
「おのれ……忌々しい龍神の神子と八葉め! いつもいつも私の邪魔ばかりしおって!」
 和仁の握り締めた掌の中から、嫌な気配がひしひしと伝わってくる。
 足元の石をすべて浄化してもまだどこか空気が澱んでいるように感じるのは、おそらくそのせいだ。

 ――彼の手の中の、最後の呪詛の石。

 この場所でどれほどの規模の呪詛を仕掛けようとしていたのかは分からないが、彼が持つのはその部品のひとつに過ぎないらしい。
 だから彼らの思惑通りの呪詛はもはや無理だが、それでもその石から伝わってくる邪気は決して小さなものではなかった。
 あるいは和仁の執念がそれを増幅させているのかもしれない。

「おまえたちなど――皆いなくなってしまえばいい! 消え失せろ!」

 それこそ子供の喧嘩のような台詞と共に和仁が右手を振り上げる。
 意図は瞬時に理解したが、ひざまずいた姿勢では咄嗟に逃げることもできず、ただ花梨は息を呑んで反射的にきつく瞼を閉じた。
 視界が暗転する寸前、和仁の腕が振り下ろされようとするのが見えた。
「花梨っ!」
 弾かれたような声と共に、何かが空(くう)を走る鋭い音が耳を打つ。
 和仁の手から放たれた呪詛の石に身を打たれるのを覚悟したが、しかし衝撃も痛みも一向に訪れない。
 微かに疑問を抱きながら恐る恐る目を開くと、見慣れた朱と浅葱色の着物が視界に飛び込んできた。
「か、勝……真、さん……?」
「怪我はないな?」
 振り向いて問う瞳へ条件反射的に頷き、数秒置いてようやく事態が理解できた。
 怒りに任せて投げつけられた呪詛の石から、勝真が身を挺して守ってくれたのだ。

 ということは――。 

「勝真さんは? 勝真さんは怪我してないんですか!」
 慌てて前へ回り込んでみると、勝真の剥き出しの腕には明らかな痣と裂傷のようなものができている。
 その足元に落ちているのは未だ邪気を放ち続ける呪詛の石。
 花梨めがけて飛んできたはずのそれを、勝真が自分の腕で受けてくれたのだ。
「勝真さん……っ!」
 蒼白になる花梨と対照を為すように、勝真は穏やかに笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。これくらいどうということはない」
「でもっ――」
 尚も言い募ろうとした花梨を遮り、勝真が再び和仁へ向き直る。
「まだ悪あがきをするつもりか?」
 もはや手の内の潰えた相手へ勝真がうそぶく。
 状況を冷静に判断したのは無論、時朝だった。
「……宮様、ここは退くのが肝要かと存じます」
「くっ――覚えていろよ!」
 さすがにこの場で打つ手はないと判じたのだろう、捨て台詞を吐いた和仁は勝真の足元にひとつ残った石を鷲掴みにして荒々しく踵を返した。
 時朝は一瞬だけ花梨たちの方を見遣り、そのまま黙して和仁の後へついていった。
「ったく……懲りない連中だな」
 呆れを隠そうともせず嘆息する勝真。
 やっと緊張から解放されて、花梨も小さく息をついた。
「あ、勝真さん、腕……!」
 先刻はうやむやになってしまったが、勝真は怪我をしていたのだ。
 だが彼の返答はやはり先刻と変わらなかった。
「大丈夫だと言ったろう。こんなかすり傷、いちいち騒ぐほどのことじゃない」
「でも……」
「命に関わるような怪我でもないんだ。頼むからそんな顔をするな」
 勝真はそう言って笑いながら、傷のない方の手で花梨の頭を軽く小突いた。
 大きな掌のぬくもりに心までじわりと温かくなる。
「……ごめんなさい」
 もっと上手く立ち回れていたら、余計な怪我などさせずに済んだかもしれないのに。
 そう思うと勝真の優しさがますます申し訳ない。
 そんな心の内まで正確に読み取ったかのように、勝真は苦笑を零した。
「謝るなよ。おまえを守ると約束したんだ、これくらい当然だろ」
「っ……それは……」

 約束。

 そのひと言を持ち出されては、反論の余地がなくなってしまう。

 だがそれでも譲れない部分は花梨にもあった。
「でも、やっぱり怪我とかは……できればして欲しくないし。だから――」
 尚も言い募る花梨を見て勝真は驚いたように瞬きをしたが、次の瞬間には再び苦笑を浮かべていた。
「ああ、分かってるさ。おまえに心配をかけるようなことはしない。もう少し俺を信用しろよ」
「――はい」
 最終的に花梨が頷き、そこでその話は終わりになった。

 けれど帰る道すがら、花梨の脳裏にはどこか複雑な思いが渦巻いていた。
(約束、かあ……確かにそのとおりなんだけど)
 
 勝真が守ってくれるのは、交換条件があるから。
 条件を花梨が破らない限り、勝真は花梨の身を守ってくれる。

 その取り決めは合意の上で結ばれたわけだが、何故か今になって微妙な引っかかりを感じつつあるのだ。

 勝真が守ってくれるのはもちろん感謝しているし、気にかけてもらえるのも嬉しいと思う。

  だが――それらがすべて約束に基づいた行動であると再認識するたびに、胸に走る微かな痛みを感じて止まない。

 (でも、傍にいてもらえるだけでもやっぱり嬉しいし……あんまり考えないようにしよう)

 根底にあるのが交換条件だとしても、今の勝真は気軽に笑いかけてくれるし気負いなく話もできる。
 からかわれることもしょっちゅうだし、子供のように頭を撫でられたりするのも何度あったか分からない。 
 そんな彼の態度は、最初の頃から見ればずいぶんな変化だと思う。
(うん、そうだよね。贅沢言ってたらきりがないし!)
 そう自分に言い聞かせ、花梨は埒もない思考を脳裏から追い出した。