めぐる恋歌

3.


「え、うそっ!」
 素っ頓狂な声を上げた花梨が、そのまま口をあんぐりと開ける。
 今が夜中であることなど、彼女の念頭からはおそらく消し飛んでいるのだろう。 
 言われた紫姫は、困惑も露わに眉尻を下げた。
「申し訳ありません神子様。ですが確かに起きていたはずの女房たちの誰も、そのような声は聞いていないそうですわ。あの……わたくしにもやはり聞こえてはおりません」
「そんな……」
「おい、落ち着けよ花梨」
 宥めるように、殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 花梨は素直に口を噤んだが、その目が不安げに勝真へ向いた。
 確かに、不可解な現象であるのは間違いない。
 だがここで冷静さを欠いても得るものは少ないだろう。
「今までだって、おまえにしか聞こえていなかったんだろう? だったら今のが紫姫たちに聞こえなかったのは別に、何もおかしなことじゃないさ」
 そもそもの大前提が既に十分【おかしなこと】だが、それが【いつもどおり】ならば、そこに関しては今さら取り立てて騒ぎ立てることではない。
「むしろ条件が絞られてきたんじゃないのか。おまえと俺にだけ聞こえて、他の奴に聞こえてないってことは――」
「あ、そうか。そうですよね」
 ようやくその可能性に思い至ったらしく、花梨がぽんと手を叩く。
「やっぱり紫姫が言ってたみたいに、神子と八葉にしか聞こえないってことなのかも!」
「ああ、そういうことだ」
 最初に花梨が言ったように、おそらくその可能性が濃厚だろう。
 怨霊なのか別の何かなのか、そこまでは分からないが。
「だとしたら……ええと、どうしたらいいのかな」
 口元に指を当て思案を始めた花梨だったが、すぐにその目が不安げに勝真へ向いた。
「やっぱり他の八葉のみなさんにも知らせるべき……です、よね……」
「……謎を解きたいとおまえが思うんなら、そのほうがいいかもしれないな」  
 否定でも肯定でもない曖昧な物言いで返すと、花梨の瞳がますます不安の色に揺らいだ。
 だがそれ以上の言葉は続けられない。
 知らせろとも知らせるなとも、勝真には言えない。
 花梨の迷いの理由は分かるが、それは勝真が決めることではないと思うから。

 他の八葉に知らせることになれば、なぜ最初に勝真にだけ知らされたのかを追求されるだろう。
 そうなれば花梨は自分自身の弱点についても明かさなくてはならなくなる。

 勝真から見れば幽霊が怖いことくらい弱点でも何でもないと思うのだが、本人が知られたくないと思っているのならば、とやかく言える筋合いは勝真にはない。
 花梨もそれは分かっているようで、彼女は勝真にそれ以上の答えを委ねようとはしなかった。
 唇を引き結び考えを巡らせる姿を見て、なんとも言えない心地になる。
(こういう生真面目っていうかまっすぐなところが、こいつの良さのひとつなんだろうな)
 花梨に対して感じる魅力はいろいろあるが、やはりこういう部分がいちばん大きいと思う。

 常に前を向いて、自分の力で進もうとする強さ。
 その輝きは時に眩しすぎるけれど、目をそらしたくなるような眩しさではなくて。

 ――それどころか逆に、ずっと見つめていたいとさえ思えてしまう。
 
 しばらく黙って待ってやると、やがて花梨は小さく頷いた。
「もし何かの事件とかだったら放っておけないです。だから……他の皆さんにも知らせてみます」
「――そうか」
 予想通りの応えに返せる言葉は、それ以外に見当たらなかった。
 花梨ならそう言うに違いないと心のどこかで分かっていたし、そうであってほしいと思っていたのも事実だ。

 だが――同時に気付いてしまった。

 ほんの僅か、胸を焦がす何かがあることに。
 けれどそれが限りなく個人的な感情だということも分かっていたから、その場の誰にも悟られないよう胸の奥へと押し込める。
 花梨が自分にだけ打ち明けてくれたこと。
 理由はどうあれ頼ってもらえたのは嬉しかったから、それを他の八葉とも共有することに微妙な気持ちが沸いてくるのだ。
(分かってるさ――そんなこと考えてる場合じゃない) 
 自分自身にそう言い聞かせる声が、どこか空しく胸に響く。
 それも自覚はしていたけれど、気付かないふりをしておくことにした。



 *     *     *

 

 夜が明けるのを待ち、さっそく他の八葉に召集がかけられた。
 具体的な内容を説明されずただ緊急とだけ告げられたらしい七名は、不思議そうにしながらも皆できる限りの早さで集まってきたようだった。
 事の次第を花梨が説明する間、各々黙って耳を傾ける。
 やがて話が全体へ浸透していくにつれ、様々な反応が見られるようになってきた。
 眉を寄せて不安を露わにする者もいれば、既に何事か思案し始めている者もいる。
 かと思えばいつもと変わりなく飄々と笑みを浮かべている者もいて、勝真の胸に思わず嫌な予感がよぎった時だった。 
「おや、勝真はあまり驚いていないようだね」
 口の端を持ち上げてこちらを見る翡翠。
 なるほどやはりそうくるかと、内心で思わず舌を打つ。
 余計な部分にまで気を回して貰わなくても結構なのだが、おそらくそんなことを言っても始まるまい。 
「まあ、俺は……既に知ってたからな」
 殊更に無関心を装いながら返すと、翡翠は目を細めて肩をすくめた。 
「ほう? 我々の誰よりも早く姫君から秘密を打ち明けられていたというのかい。それは聞き捨てならないね」
「……別にいいだろう。成り行き上、たまたまそうなっただけだ」
 細かい経緯は省いたが、嘘ではない。
 それ以上のことを尋ねられたら無視を決め込もうと内心で決意を固めた勝真だったが、翡翠は薄く笑みを浮かべるだけだった。
「不可解な事象ですね。怨霊なのか、それとも何か別のものなのか……」
「とにかく、事の次第を確認いたしましょう。何か策を練るにしても、今のままでは何も分かりませんから」
「そうだよな。じゃあ今夜はみんなでここに泊まり込むってことでいいのか?」
 何やらあっさりと話がまとまりつつある中、花梨が驚いたように目を瞬くのが見えた。
「あの……ありがとうございます。皆さん信じてくれるんですね」
 言いながら、その表情が安堵の色に染まっていく。
 逆に驚いたのは八葉たちのほうだろう。
 そんな風に言われること事態、予想外だったに違いない。
「他ならぬ神子殿の仰ることです。疑いを差し挟む余地などございません」
「ええ。それに、勝真殿にも聞こえたということであれば、やはり神子と八葉に関わる事柄かもしれませんし」
 当然のことだと、その場の誰もが異口同音に言う。
 それは勝真にとっても当たり前のことだと思えたので、異を唱える要素は全く見当たらなかった。



(Saika Hio 2012.01.30)