めぐる恋歌
2.
見上げる視界の先で、西の空が茜から濃紺へと染まっていく。
当たり前に日々繰り返されるその光景を殊更に意識したことなどないけれど、今日は妙に感慨深く見てしまう自分がいる。
紫姫の邸でこんな刻限を迎える日がこようなどと、誰が予測し得ただろう。
花梨の頼みを引き受けたことを後悔するつもりは毛頭ないが、心中複雑であるのもまた事実だ。
勝真は内心で、何度目になるか分からない溜息を落とした。
(はぁ……ったく)
戯れに引き寄せた身体は驚くほど細く、柔らかかった。
くだらない冗談を仕掛けたのは自分なのでまさに自業自得だが、触れた指先に残る感触が未だにこの胸を騒がせて止まない。
平静を装えたのが我ながら不思議なほど、実は動揺していたのである。
だが花梨がそんなことを知るはずもなく。
心底から面食らった様子を見せてはいたが、本当に単なる冗談だったと彼女は思っているのだろう。
そうでなければ、あれほどすぐに気を取り直して用件を切り出したりはすまい。
すなわち――花梨にとっての勝真は、そういう対象ではないわけだ。
別に何を期待していたわけでもないが、改めてそれを証明されると些か面白くない心地も湧いてくる。
勝手な言い分であるのは百も承知だけれど。
自分だけが意識しているということが、ひどく滑稽に思えて仕方がないのだ。
(ただ、まあ……変に意識されるよりはマシか)
無邪気に笑いかけてくる姿を見ていると、それだけで十分だとも思えてしまう。
下手にぎくしゃくしてしまうよりは、ずっと。
そんな風に考えてしまうあたりがもう惚れた弱みというやつなのかもしれないが、こればかりは仕方がないのかもしれない。
(惚れた弱み、か。柄じゃないな、我ながら)
一人の女に対してこんな気持ちを抱くことがあるなど、考えたこともなかった。
己を責めて、何もかもを諦めて、ただ日々を繰り返しているだけだった毎日に、突如として飛び込んできた眩しい光。
会うたび、話すたび、笑顔を見るたび、惹かれていく心を止めることができない。
こんな鮮やかな感情が自分の中にあったなんて知らなかった。
彼女を守る八葉で良かったと思う反面、傍にいられるのは自分だけではないという現状に、くだらない嫉妬心さえ抱いてしまう。
そんな想いの交錯がそろそろ誤魔化しきれなくなってきた先日、勝真はささやかな行動に出た。
『遠乗りにでも出かけないか。たまには気分転換もいいだろ』
そんな風に声をかけたのは三日前のことだ。
何気ない調子で誘った勝真に、花梨は嬉しそうに頷いてくれた。
場所はどこでも良かった。
二人きりで出かけられるなら、それだけで。
だから、景色のいいところへ行きたいという花梨の希望を聞いて船岡山へ行くことにした。
『わぁ、すごいすごい! 馬の背中ってすごく気持ちいいですね!』
馬に乗ることを嫌がらないどころか大喜びする女は初めて見た。
本当に、どうしてこの娘の言動はいつも勝真の心を躍らせて止まないのだろう。
もっと傍にいたい。
もっと見ていたい。
花梨と顔を合わせる度、言葉を交わす度、想いは留まることなく募っていく。
長すぎる秋の風の中で、まるで春の日だまりのように温かな色を纏う娘。
この胸の内に宿る想いを知ったとしても、彼女は今と変わらない笑顔を向けてくれるのだろうか――。
「――ですか、勝真さん?」
突如、現実へと意識が戻る。
はっとして見遣ると、呼びかけてきた相手が気遣わしげにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
「は? 何がだ?」
おそらく同じ言葉を繰り返したのであろう花梨は、何故かじっと探るように勝真を見ている。
その瞳はどこか不安そうに揺れていた。
「その、ええと……ずっと遠くを見てるから。もしかして具合悪いのに無理してるとか、やっぱりわたしが無理なこと言っちゃったせいかな、とか……」
「――馬鹿だなおまえは」
ふわりと胸を温かいものに包まれた気がして、思わず苦笑がこぼれていた。
腕を伸ばしたのも、その手で髪に触れたのも、ほとんど無意識の行動だった。
不安の色しか見えなかった瞳が、驚きを宿して僅かに見開かれる。
「勝真さん……?」
「そう簡単に体調を崩すほどやわじゃないし、乗り気じゃなければとっくに帰ってるさ」
少し指を動かすだけで、柔らかな髪の感触が手の中で踊る。
「今ここに俺がいるのは俺の意志だ。おまえに言われたから無理にじゃなく、おまえの頼みを俺が聞いてやりたいと思った――それだけのことだ」
優しく、だがきっぱりと言い切ってやると、花梨は照れたように笑った。
「そんな風に言ってもらえるなんて、嬉しいです。ありがとうございます勝真さん」
礼を言うのはこちらの方だ、と言いたいのをどうにか堪える。
――おまえの笑顔が見られるのなら、どんなことだってしてやる。
思わず口走ってしまいそうになる言葉を、勝真はなんとか呑み込むことに成功した。
* * *
別室で仮眠を取っていた花梨が戻ってきたのは、戌の刻を少し過ぎた頃だった。
うたた寝程度の軽い睡眠を既に済ませていた勝真は、柱にもたれて座ったままそちらへ目を向ける。
「そろそろか?」
勝真の斜め向かいに座りながら、花梨が小さく頷く。
「そうですね、もう少しかな……聞き逃しちゃったらいけないから、ちょっと早めに起こしてもらいました」
「なるほどな」
真面目な花梨らしい行動だ。
勝真が軽く笑うと、逆に花梨は眉尻を下げた。
「あの、でも……もし何もなかったらごめんなさい」
「別に構わないさ。何もなければそれに越したことはないだろうし」
さらりと返すと、花梨もそれ以上は言わなかった。
「そういえば、その声とやらはいつ頃から聞こえ始めたんだって?」
具体的に何日前かという話は聞いていなかったような気がして、ふと尋ねてみる。
花梨は少しだけ考える様子を見せた後、指を三本立てて見せた。
「ええと、三日前……です」
遠慮がちながら、口調には揺らぎがない。
その日にちに間違いはないのだろう。
だがどことなく歯切れの悪さというか、不自然さを感じるのは気のせいだろうか。
「なるほどな……何かきっかけになるような心当たりでもあったか?」
「うーん……それが分かればたぶん今こんなに悩んでないです」
「そりゃそうか。悪い、意味のないことを聞いたな」
「いえ、そんなことは」
かぶりを振り、そのまま花梨が僅かに目を反らす。
その仕草がやはりいつもとは違って見えて、勝真は瞬きを繰り返した。
よく見ると、微かに背けた頬が少し上気しているように見える。
(ん? そういえば……)
三日前といえば、ちょうど花梨を誘って一緒に遠乗りに出かけた日だ。
今回のことに関わりがあるとは思わないが、花梨のこの不可思議な態度には何か意味があるのだろうか。
「なあ花梨、おまえ――」
声をかけた、その刹那。
「――!」
突如として息を呑んだ花梨が、弾かれたように顔を上げた。
緊迫した面持ちが外へと向けられ、そのまま固まる。
ただならぬ雰囲気を勝真も感じ取り、知らず息を詰める。
(っ――まさか……)
鼓動がひとつ、大きく跳ねる。
己の耳が確かに、ある音を拾っていることに気づいた為だ。
音というよりは、音色と言った方がいいのだろうか。
か細く澄んだ響きのそれは、微かに、けれど確実に、空気を震わせてこの耳に届いている。
「これ、は……」
「こ、これです! 聞こえますか? 勝真さんにも聞こえてますか?」
「ああ――聞こえてる」
珍しいほど怯えた様子で悲鳴のように問う花梨へ、はっきりと頷いてやる。
幻聴と決めつけるには鮮明な、しかし正体を探るには曖昧すぎる音色。
聞こえているのが自分一人だけではないことに安堵したのか、花梨の瞳の緊張が僅かに緩む。
その間も、音色は緩やかに響き続けている。
花梨は女の歌声のようだと形容したが、言われてみると確かにそう感じられなくもない。
「……」
言うべき言葉が見つからず、声を発してはいけないような気もして、息を詰めたまま耳だけを澄ます。
やがて闇に吸い込まれるようにして、それは静かにかき消えた。
「……」
しばし顔を見合わせたまま、どちらも口を開くことができなかった。
(Saika Hio 2011.11.13)