めぐる恋歌
1.
いつものように部屋を訪れると、いつものように花梨が出迎えてくれた。
だが今日はどことなく微妙な違和感を覚える。
(なんだ……? 何かあったのか?)
今日の花梨は笑顔がどこかぎこちない。
ほんの微かな変化だが、勝真は見逃さなかった。
まだごく浅い付き合いだけれど、まるでもっと以前から知っている間柄であるかのように花梨の様子は分かるつもりだ。
そしてどうやらそれは気のせいではなかったようで、問うより先に向こうが口を開いた。
「あの……勝真さん」
言おうかどうしようかをまだ迷っているのがはっきりと分かる。
いつも明瞭な花梨にしては、本当に珍しい。
「なんだ、どうした?」
「ええと……ですね、ひとつお願いがあるんです」
「別にひとつだろうがふたつだろうが構わないぜ。今さらなに遠慮してるんだ」
思わずこぼれた苦笑を聞いて幾らか安心したのか、花梨の表情から少しだけ陰りが消える。
それでもやはり一拍迷う様子を見せてから、彼女は言った。
「あの、できたら今夜一晩、一緒に過ごしてほしいんです、けど――」
「――は?」
時が止まったように感じたのは、きっと気のせいではない。
凍り付いた、という表現のほうが正しいだろうか。
必死に見上げてくる花梨を見下ろしたまま、返答どころかどういう表情を作ったらいいのかさえ分からない。
「おまえ、今、なん――」
「いきなりこんなこと言ってごめんなさい。でも一晩だけでいいんです。図々しいお願いしてるのは分かってるんですけど――」
「………」
聞き間違いかもしれないという僅かな望みは、繰り返された発言によって脆くも打ち砕かれた。
しかもこの表情を見る限り、至極真面目に言っているに違いない。
頭を抱えたくなる衝動を必死に堪え、勝真は内心で盛大に溜息を落とした。
「おまえな……意味分かって言ってるのか?」
まさかそんなわけはないだろうが、と言外に含みながら言うと案の定、花梨は大きな瞳を瞬かせた。
「え? 意味って――」
「男に一夜を共にして欲しいと要求するだなんて、ずいぶんと大胆なことを言うようになったじゃないか」
わざと意地悪く笑みを浮かべてみせると、面白いほど明らかに花梨の表情が固まった。
「え……えっ?」
「当然、そういう意味で言ってるんだよな?」
「そういう、って……え、ちょっ、勝真さ――」
慌てるあまりにばたばたと振り回される腕を素早く捕らえ、そのまま引き寄せる。
それほど強引に力を込めたつもりもなかったのに、細い身体は呆気ないほどすんなりと均衡を崩した。
腕を掴んでいるのと反対の手を背中へ回し、肩を抱いて固定する。
驚愕に見開かれる瞳を至近距離で見下ろしながら、勝真はわざと声の調子を落として囁いた。
「一晩だけなんて遠慮しなくていいんだぜ? おまえがその気なら――」
「わぁ、あの、えっとごめんなさい違うんです! その気とかそんなんじゃぜんぜんなくってつまりあのっ!」
存外早く我に返った花梨が、必死に首を振りつつ早口でまくし立てる。
耳まで真っ赤になっているその様は見ていて非常に面白かったが、勝真はそこであっさりと花梨の腕を解放した。
「……ま、そりゃそうだろうな」
「え……?」
「おまえがそんなこと言い出すわけがないってことくらい分かるに決まってるだろ。冗談だよ」
「冗談、って……」
束縛を解かれた安堵で少し落ち着いたように見えた顔色が、再び一瞬で赤くなる。
「そ、そうだったんですか……っていうかひどいです勝真さん! 本気でびっくりしたじゃないですか!」
「おまえが突拍子もないこと言い出すからだろうが。俺だって驚いたんだからな、ちょっとした仕返しだ」
軽く睨んでやると、捨てられた子犬のように花梨はたちまち肩を落とした。
「うう……ごめんなさい」
「ったく……で、いったい何の話なんだよ」
仕切り直しとばかりに改めて問う勝真に、花梨も表情を引き締めて頷いた。
「実はですね……数日前から夜中に変な声が聞こえてくるんです」
「変な声? なんだそれは」
「よく分からないんですけど、女の人の声っぽくて、何か歌でも歌ってるみたいな感じに聞こえるっていうか」
「……さっぱり意味が分からないぞ」
「そうなんですよね、わたしにもぜんぜん分からなくて」
思案顔で頷く花梨。
「でも毎晩聞こえてくるのは確かで、しかもそれって……わたしにしか聞こえてないみたいなんです」
「はぁ?」
「紫姫や女房さんたちにも一緒にいてもらってみたんですけど、わたしには確かに聞こえてるのに、傍にいた他の誰もそんなの聞こえないって」
「ますます訳が分からない話だな」
不可思議と言うべきなのか不穏と言うべきなのかすら分からない。
花梨も同じように思っているのか、その瞳が不安げに揺れる。
「聞こえるのは夜中だけなのか?」
「はい、いつも夜です。だいたい同じくらいの時間だと思います」
「律儀なもんだな」
冗談めかして肩をすくめてみせると、花梨は小さく笑った。
が、すぐにまたその表情が曇る。
「紫姫は、わたしが龍神の神子だからじゃないかって。それで、もしかしたら八葉の人になら同じように聞こえるかもしれないって、そう言ってるんですけど……」
「ああ……なるほどな」
そこでようやく勝真にも、花梨の言いたいことが分かった。
「それで、俺にもその声が聞こえるかどうか試したいってわけだな」
「そうなんです。ごめんなさい、やっぱり図々しいお願いですよね……」
「いや、別にそんなことは思っちゃいないが」
小さく頭を振る勝真を花梨が驚いたように見上げてくるが、それは本心だ。
花梨が気にしているらしき次元のことは、勝真にはまったく気にならない。
神子の力になるのは八葉として当然のことだと思っているし、頼ろうと思ってもらえたことに対して悪い気はしない。
だが別の懸念から、素直に頷くことはできなかった。
「おまえの言いたいことは分かったし、協力すること自体には異論もない。だが、そういう話なら俺よりも泰継殿や泉水殿の方がいいんじゃないのか」
「え、どうしてですか?」
「どうしても何も……どう考えてもそういう話の得意分野だろ。俺みたいに身体を動かす方が性に合ってる人間より、よっぽど適任だと思うがな」
正直なところ、大して力になってやれるとも思えない。
はっきりと言葉にしなかった部分も伝わりはしたようだが、花梨は頷かなかった。
「そ、そうですか……? ごめんなさい、そんな風にはぜんぜん考えてなかったです」
「……」
それはつまり、最初から勝真にしか話すつもりはなかったということなのだろうか。
思わずそんな都合のいい解釈をしてしまいそうになる。
すると花梨はますます言いにくそうに声を落とした。
「あの……笑わないで聞いてもらえますか」
「……別に今さら何を聞いても大丈夫だと思うぞ」
「その、ですね。も、もしかして、お化けとかだったらどうしよう……って思って」
「は……?」
「そしたらもう、相談できる人は勝真さんしかいないって思っちゃって。だから……」
「ああ……そういやおまえ、幽霊とかダメなんだったか」
まだごく新しい記憶を引き寄せながら納得すると、花梨は小さく頷いた。
少し前に勝真の都合で貴族の狩りに付き合わせた時のことだ。
山道で他にすることもなく、他愛もない話を二人でしていたら、その付近で噂になっていた神隠しの話になったのだ。
普段から怨霊を相手にしている割に神隠しだの幽霊だのを怖がることをそのとき初めて知って、驚くのと同時に微笑ましい心地になったのはここだけの話である。
怨霊と幽霊にどれほどの違いがあるのか勝真にはよく分からないが、花梨本人にとってはそれなりに深刻な問題だということか。
「他にそれを知ってる奴はいないのか?」
「はい、勝真さんだけです」
「……なるほどな」
確かにわざわざ自分から明かすような話ではないだろう。
勝真が知ったのは成り行きにすぎないが、それで今回の流れに繋がったというのも妙な因果だと思えなくもない。
「別におまえが何を怖がろうが誰も気にしやしないとは思うが……まあ、いいぜ。そういうことなら付き合ってやる」
「ほんとですか!」
途端、非常に分かりやすく花梨の表情が輝いた。
歓喜というよりは安堵に近いだろうか。
不安や恐れといった感情を表に出す様子はあまり見たことがないが、それなりに思い悩んでいたのかもしれない。
「ありがとうございます、勝真さん!」
心底からのものだと分かる笑顔でそんな風に言われては、悪い気になどなろうはずもない。
引き受けたことを後悔もしないし、花梨の力になってやれるのならこれほど嬉しいことはないと思うのも本音だ。
だがその無邪気な笑顔を見ていて、心の片隅にぽつりと浮かんだひとことは。
「……ったく、人の気も知らないで」
「え?」
口の中だけで呟いたつもりだったのに、その欠片は聞かれてしまったらしい。
しかし勝真は素知らぬ顔で、ただ小さく頭を振った。
「なんでもねぇよ」
花梨はまだ少し不思議そうな顔をしていたが、それ以上なにか言おうとする様子はなく、勝真は内心でこっそりと嘆息したのだった。
(Saika Hio 2011.10.23)