果てなき漆黒の彼方に

10.


 朝日が眩しい。
 今日はひときわ天気がいいようだ。
 いつも当たり前に受け止めていたこんな自然の姿さえも、妙に新鮮に感じる。
 もう二度と太陽の光を見ることなどできないかもしれないと、絶望に捕らわれそうになっていたのはまだ一昨日のことだ。
 昨日一日ゆっくり身体を休める意味で静かに屋敷で過ごしたが、この平穏がまだ信じられないような気さえする。
 投獄されていた時間は今にして思えばそれほど長くはなかったはずだけれど、それでもつらい時間だったことに変わりはない。
 ゆっくりと床から起き出した花梨は、ほっと小さく息を吐いて着替えを始めた。

 一昨日の夜、日付も変わろうとしていた頃に勝真と共に屋敷へ戻ってきた花梨を、紫姫は泣きじゃくりながら抱き締めてくれた。
 深苑は何か言いたそうな目で花梨を見ていたが、結局そのまま黙って戻っていった。
 そのまま一晩休めば十分だと花梨自身は高を括っていたのだが、自分で思っていたよりずっと身体は無理をしていたらしい。
 昨日の朝、床から起きることはできても歩くことができなかった。
 仕方なく昨日はそのまま休みをもらうことにし、屋敷で過ごした。
 と言っても八葉の皆が入れ替わり立ち代わり様子を見に来てくれたので、ゆっくり休むというよりはいささか賑やかだった感も否めない。
 既に花梨を認めてくれていた院側の四人だけでなく、帝側の四人も。
 皆、花梨が龍神の神子であることを改めてはっきり認めてくれた。

 ――八葉が、本当の意味で揃ったのだ。

 そしてもうひとつ、彰紋からは驚くべき話を聞いた。
『帝が今回のことを花梨さんに心からお詫びしたいと。それから――龍神の神子として、正式に認めるとのことです』
 まさに青天の霹靂とも言える言葉だった。

 これで院からも帝からも、認めてもらえたことになる。

 帝はまるで憑き物が落ちたかのように、花梨に対しての慙愧の念を露にしているという。
 近く、内裏に花梨を呼んで直接詫びたいとまで言っているそうだ。
 それが現実になるかどうかはまだ少し先の話になりそうだが、そう思ってもらえるだけでもう十分だと花梨は思った。
 彰紋に言わせれば今の帝の振舞いこそが本来の姿通りで、花梨を捕らえたあの時の動向こそ不可解極まりなかったとのことだ。
 花梨は直に帝を知らないのでよく分からないが、身内である彰紋が言うのならそうなのだろう。
 そういえば――とシリンを見かけたような気がすることを呟いたら、全員が一様に顔色を変えた。
 あの白拍子は確かにしばらく帝の傍近くにいたが、あの日を境に姿を現さなくなったらしい。
 それが何を意味するのかは分からないが――おそらく皆が同じ可能性を思い描いているのであろうことは花梨にもなんとなく分かった。
 だが、それもとりあえずは落ち着いたはずだ。
 ようやく憂いは無くなったわけだが、花梨にはひとつだけ気になっていることがあった。

 ――勝真があの時、どうして牢に入ってくることができたのか。

 あの場にいたのは勝真の他に、泰継と彰紋だった。
 どちらかに訊けば何か分かるかと思ったのだが、泰継は花梨の様子を見ただけですぐに帰ってしまった。
 だから彰紋が帰り際に一人になったところを見計らって声をかけてみた。
 勝真本人に尋ねてもよかったのかもしれないが、彼はあまり話さないまま早々に帰っていってしまったので、それも叶わなかったのだ。
 だが、どうやらそれは結果的に正しかったらしい。
 花梨の遠慮がちな問いかけを受けた彰紋は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた瞳で教えてくれたのだ。

『あの時は僕も必死で、咄嗟にこれしか浮かばなかったんです。勝真殿には訊かれなかったので知らせていないんですが――』

 耳を疑うというのは正にこういう状態を言うのだろうと思った。
 思い返すだけで恥ずかしさに全身が熱くなる。
 勝真が知らないというのがせめてもの救いだ。
 それを聞いたのは勝真が帰った後だったから、この先どんな顔をして彼に会ったらいいのか分からない。
 勝真の方が知らないのなら、花梨も知らないふりをしていればいいのかもしれないが――。
「神子様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
 着替えもすっかり終えた頃、御簾の外からちょうど紫姫の声がした。
「うん、おはよう紫姫」
「おはようございます神子様。早くから勝真殿がお見えなのですが……」
「……え」
 思わず動きが固まる。
 まさかこの流れでその名前を聞くことになるとは。
「お通ししても宜しいですか?」
 にこやかに尋ねる声へ、駄目だと答える理由はない。
 慌てて肯定の返事を伝えると、程なくして勝真が現れた。
「よう。……大丈夫か」
 さりげない気遣いの挨拶。
 そんな些細なことが驚くほど鼓動を騒がせる。
 気付かれないように何でもない素振りを装うのも至難の業だ。
「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます」
 ぎくしゃくと頷くと、勝真が安堵したように小さく息をついた。
「そうか――ならいいんだが」
「えっと、あの……ど、どうしたんですか? こんなに早くから……」
「ああ……すまない」
 勝真の瞳が微かに揺らぐ。
「その、なんだ……昨日は他の奴らもいて、あまりゆっくり話ができなかったからな」 
 微かに逸れていく視線は言いづらい思いを表しているのだろうか。
 けれど、わざわざ話をするために早くから来てくれたことは分かった。
 瞬きにしては長すぎる間隔で目を閉じた勝真は、再び開いたそれを改めて花梨へ向けた。
 大きくひとつ、跳ねる鼓動。
「――本当に、すまなかった。どんな言葉で詫びたらいいのか、今でも実はよく分からないほどだ」
「えっ……」
「おまえを守るはずが、あんなことになって……連れて行かれるおまえを、ただ見ていることしかできなかった。――最低だな」
「そんなことないですよ!」
 遮ったのはほぼ無意識だった。
 真っ直ぐに見上げた先で、当惑したような瞳とぶつかる。
「勝真さんは何にも悪くないのに、そんな言い方しないでください。そんなの……いやです」
 力なく、何度も首が横へと動く。
「捕まる前、庇おうとしてくれたし……助けにも来てくれたじゃないですか。それに、わたしちゃんとこうして無事なんですから」
「……っ、それは」
「だから大丈夫です。もう、いいんです」
 それでも勝真は何か言おうとしていたが、きっぱりと言い切る花梨を見てさすがに口を噤んだ。
 ほんの束の間、微妙な沈黙が流れる。
 どちらも視線を外さないままただ見つめ合っていたのは、呼吸を三度ほど繰り返す間だったろうか。
 再び口を開いたのは、花梨の方が先だった。
「それと……勝真さんがいなくなっても誰も困らないなんて、お願いですから二度と言わないで下さい」
 勝真は何も答えなかった。
 表情も動かないままだ。
 だから彼がこの言葉をどう受け止めているのかは分からないけれど、それでも言わないわけにはいかなかった。    
「あのときも言いましたけど、わたしは――困ります。勝真さんがいなくなったら、絶対に……いやです」
 あの言葉を思い返すだけで胸が締め付けられる。
 どこまでの意味合いを持つ言葉だったのかは、勝真本人にしか分からない。
 だが、あの局面でよもや軽い冗談だったということはないだろう。

 少なくともあの時の勝真は――本気でそう思っていたのだ。

「……ひとつ、聞いてもいいか」
 低く抑えた声音が不意に耳を打った。
 驚いて見返すと、真摯な視線が真っ直ぐこちらを向いている。
 何故か上手く声が出なくて、花梨は黙って首を頷かせた。
 収まりかけていた鼓動が再びうるさく鳴り始めたのは、何かの予感だったのかもしれない。
「それは、俺が……八葉、だからか?」
「……え?」
 質問の意味がよく分からない。
 問い返す言葉すら見つけられずに、花梨はただ目を瞬いた。
「俺が、八葉で……おまえを守る存在だからか? だから、いなくなったら困るのか?」
「なっ……」
 それはまるで、ひどい皮肉にしか聞こえなかった。
 我知らず頭に血が上り、何らかの反駁を試みようと唇が動く。
 だが花梨が言葉を探そうとするより先に、勝真はかぶりをひとつ振った。
「すまん、言い方が悪いな。そうじゃなくて――」
 珍しいほどの歯切れの悪さ。
 怒るのも一瞬忘れて、思わず勝真の顔を凝視してしまう。
「俺は……俺も、おまえを失いたくないと本気で思った。だがそれは――おまえが龍神の神子だからじゃない」
「……? ど、どういう意味ですか?」
 あのとき彼は、はっきり言ってくれたはずだ。
 花梨が龍神の神子であることを認める、と。
 その後の怨霊騒ぎで有耶無耶になってしまったが、確かにそう言ってくれたと思ったのに。
「それって、やっぱりわたしを……認められないってことですか……?」
 自分でも驚くほど急速に気持ちが沈んでいく。
 が、続く勝真の言葉は少し予想とは違うものだった。
「馬鹿、そうじゃない」
 少しだけ硬さの取れた声が、ゆっくりと耳に響く。 
「おまえが龍神の神子だってことは信じるし、認めてる。それは嘘じゃないさ。だが、それとこれとは別なんだ」
「え、っと……それって……?」
 ますます意味が分からない。
 だがそこで何故か、昨日彰紋から聞かされた言葉が脳裏に甦ってきた。



『勝真殿には訊かれなかったので知らせていないんですが、勝真殿が牢に入れるようにするために、僕、ひとつ嘘をついてしまいました』
『ウソ? って、どんな?』
 首を傾げて真面目に考えてみた。
 いったいどんな虚偽を以って、そんなことを可能にできたのだろう。
 彰紋は少し照れたような瞳で花梨に微笑いかけ、次の瞬間とんでもないことを口にした。
『勝真殿が、花梨さんの恋人だって。最後に一目どうしても逢いたいと仰ってるって懇願したら、兄上も聞き入れてくれましたよ』
『――え!?』
 予想もしていなかった言葉だったので、意味を理解するのに数秒を要した。
 ようやく自分の中で意味が通じた瞬間、全身に灯が点ったかのような感覚を花梨は嫌と言うほど味わうことになった。
『あ、あああ彰紋くん! いくらなんでもそれって……!』
『本当にあの時はそれしか思いつかなくて……でも、今でもあれ以上の理由はやっぱり浮かばないような気がします』
 悪戯っぽく微笑う瞳に邪気はまったく伺えない。
 それどころか、彼は更にこんなことを言った。
『勝真殿に怒られてしまうでしょうか? でも僕、不思議とそう思わないんです。なんとなく、ですけど』 
『ど、どういうこと?』
『花梨さんを助けようと必死になっていたのは、責任感だけではないような気がして。……僕の勝手な見解ですけれど』



 彰紋のあの言葉と、勝真の今の言葉が絶妙な加減で重なる。
 同じ意味合いのことを言われているような気がするが、それは、つまり――。
「ど……どういう意味ですか……?」
 様々な思いが脳裏を駆け巡ったが、実際に口を突いて出たのは先刻とまったく変わらない疑問だけだった。
 この難題に花梨が勝手な結論をつけてしまってはいけない気がする。
 耳まで熱いのも鼓動がひどく暴れて仕方ないのも、どうしてなのか考えてはいけないのだと。
 すると、それまでやや厳しく表情を引き締めていた勝真が、ふとその緊張を緩めたように見えた。
 目元に柔らかな光が灯り、唇からは吐息とも苦笑ともつかない音が洩れる。
「――さあな」
 突き放す口調ではないが、少なくとも答えにはなっていない。
「そうだな……まあそのうち、気が向いたら教えてやるよ」 
 固唾を呑んで待っていた花梨にとって、それはあまりにも拍子抜けな返答だった。 
 思わず口を突いて恨み言が零れ出る。
「ええー、そんな……ずるいです勝真さん……」
 謎掛けめいた遣り取りばかりで、結局なにも分からないままだ。
 勝真が何を問いたかったのかも――花梨に何を伝えたかったのかも。
 口を尖らせて下を向くなんて子どものすることだと分かっていても、そうせずにはいられない。
 と、今度こそはっきりと勝真が苦笑を零した。
「仕方ないな。じゃあ特別に――手がかりをやろうか?」
「え?」
 よく意味の分からない言葉と共に勝真がこちらへ近づいてくる。
 咄嗟に顔を上げると、近すぎる位置で視線がぶつかった。
 慌てて後ずさろうとするよりも先に腕を取られ、軽い力で引き寄せられる。
(え……?)
 一瞬の瞬きの隙に、何か暖かいものが額に触れた。
 何が起こったのかを理解できたのは、掴まれていた腕を解放されて数秒の後だった。
(い、今の、って……)
 ほんの軽くだが、確かに額に触れたのは。

 勝真の――唇。

「なっ――あっ、の……っ!」
 心臓が爆発しそうだ。

 花梨を助けたいと思ったのは、龍神の神子だからではなくて。
 その理由の、手がかり。

 ――と、いうことは……。

「あとは自分で考えてくれ。――とにかく、そういうことだ」
 目も合わせないまま早口で言うだけ言い、踵を返す勝真。
 彼の頬も微かに染まっているように見えたが、今はそれを確認するどころではない。
「まっ――待ってください!」
 咄嗟に両手で掴んだのは、紅い着物の裾だった。
 本気で振り払おうと思えば簡単にできたはずだろうに、彼はそうはしなかった。
 振り向き見下ろしてくる瞳からは、その内心は伺えない。

 けれど、なんとなく――花梨の言葉を待っているように見えたのは、気のせいだろうか。

 絡み合う視線を解くことができない。
 どんな言葉で告げたら、きちんと伝わるだろう。

 少しだけ考えてみたけれど、凝った言い回しなど浮かぶはずもない。
 だから花梨は心の内にあるままを、何も飾らずに口に乗せることにした。

「あの、勝真さん。わたし――」

 言葉にすれば、ほんのひとこと。
 でもそれは、胸の中のほぼすべてを占めている想いだ。
 黙って聞いていた勝真が、僅かに目を瞠る。


 それから彼は嬉しそうに笑い、両腕を伸ばして花梨をしっかりと抱き締めたのだった。 

 【完】

(2008.05.10 Saika Hio)