果てなき漆黒の彼方に

9.


 今の言葉は本当なのかと、問いたい気持ちが心の中で悲鳴を上げている。
 あんな耳元で言われたのに、まるで現実感が湧かない。
 鼓動がうるさく暴れ始めたのは勝真の言葉のせいなのか、それとも今まさに猛威を振るっているであろう怨霊のせいなのか。
 自分でもよく分からなかった。
 ただ無性に、泣きたいような衝動がこみ上げてくる。
 勝真が自分自身を価値の無い存在のように言った先刻も、泣きたくてたまらなくなったけれど。
 涙の質が、それとは根本的に違う気がした。

 胸の奥が――熱い。

「おまえはここにいろ。すぐに戻る」
 たった今まで花梨を抱き寄せていた強い力があっさりと離れていく。
 返事を待つ気は無かったらしく、言うだけ言って勝真は踵を返した。
 暗い通路の向こうへ消えていく背中。
 それを見ているだけで胸いっぱいに不安が広がる。
 戻ってくると言った言葉を信じていないわけでは、もちろんないけれど。

 でも、どうしても――離れたくなかった。

 それにもし本当に怨霊なら、花梨にもできることはあるはずだ。
 ひとり頷き、花梨も走り出した。
 もう二度と出られないかもしれないと思った牢獄を後にして。
 いるはずの見張りは、通路の途中にも出口の付近にも一人もいない。
 外へ近づいていくにつれ、悲鳴と怒号がだんだんはっきり聞き取れるようになってきた。
 この牢へ入れられてからずっと感じていた、怨霊の気配。
 陰の気が凝って生まれたのだろうか。
 あるいは帝を呪詛する為か他の目的かは分からないが、何者かが用意したのかもしれない。

 ――内裏の者たちは、花梨がそれをしたと思っている。

 その事実に思い至った途端に足が止まった。
 今この場で花梨が出て行くことが吉となるか凶となるかは――分からない。

(でも……ううん、行かなくちゃ!) 
 迷いを抱いたのは、ほんの一瞬だった。
 どうせこのままおとなしくしていても処刑されてしまうのならば同じことだ。

 それに、この先には――勝真がいる。

 そう思うだけで不安も恐れも無くなっていく。
 どんな結果が待ち受けているとしても、花梨がすべきことはひとつしかないのだ。
「――だろう! 今はそんなことを言ってる場合じゃないことくらい分からないのか!」
 出口に差し掛かった途端、切羽詰った怒鳴り声が鋭く響いた。
 勝真の声だ。
「ここへ入る前に預けた俺の弓を寄越せ。あの怨霊が見えないのか? それともあんたたちでどうにかできるとでも言うのか!」
「だ、だが、貴殿にどうにかできるという保証もなかろう。偽の神子と通じているような男だ。案外あの怨霊も、あの娘に言われて貴殿が――」
「――ちっ、こんなときに要らない知恵だけは回る奴だな」
 苛立ちを隠そうともせずに舌を打つ勝真。
 それでも相手の武士は頑なに勝真を睨みつけている。
 花梨の元へ来る為に武器を取り上げられていたということなのだろう。
 確かに、武器がなければ怨霊と戦うことはできない。
 だが武士の方も譲るつもりはないようだ。
 勝真が再び口を開こうとした時、彼らの後方から声が飛んだ。
「彼に武器を返しなさい」
 激しさは無いが、凛とした声音。
 勝真と武士が同時に振り向く。
 花梨も無論そちらを見遣った。
 彰紋が懐剣を手に、ゆっくりとこちらへ歩いてくるところだった。
 武士が瞠目し、途端にしどろもどろになる。
「と、東宮様……」
「聞こえなかったのですか。彼の言うとおり、武器を返しなさい」
「ですが……」
「これは命令です。咎はすべて僕が負います。さあ早く!」 
 叩きつけるような有無を言わせぬ口調が、武士の更なる反論を完全に封じた。
 それでもまだ渋々といった体の武士から差し出された弓を、勝真が素早く受け取る。
「……結局おまえの力を借りないと、俺は何もできやしないんだな」
「そんなことはありません。勝真殿にしかできないことだってありますよ」
 自嘲の形に口の端を歪める勝真に、彰紋が苦笑を零す。
「――そうですよね、花梨さん?」
 急に呼ばれ、飛び上がりそうになる。
 勝真が弾かれたようにこちらを振り向いた。
「花梨、おまえ……」
「ご、ごめんなさい。でも怨霊だったら、わたしも一緒に戦います!」
 勝手に出てきたことを怒られるかと思ったが、意外にも勝真は小さく笑みを零した。
「……ああ、おまえはそういう奴だったな」
 照れ笑いを返すと頭を軽く小突かれた。
 そんな遣り取りだけで、恐れも迷いも消えていく。
 内裏の警備か、花梨の見張りか、あるいはその両方なのか、武士はあちこちにいる。
 だがその誰一人として、牢から出てきた花梨に注意を払う者はいなかった。
 皆、怨霊の方に気を取られているのだ。
 それを好機と言ってしまうのは不謹慎だと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。
 ――この騒ぎが治まった後にどうなるかは、今は考えないでおくことにする。
 怨霊の撒き散らす瘴気に当てられそうになるのを何とか堪えて、花梨は毅然と顔を上げた。
 建物の屋根よりも上に滞空している巨大な影。
 鳥のような姿をした怨霊だ。
 羽ばたきと共に瘴気を振り撒き、辺りを禍々しい色に染めていく。
 武士たちの中にも戦いを挑もうと試みる者がいたが、どうにかなる気配はまったく無さそうだ。
 当たり前と言えば当たり前だ。
 一介の武士や兵士でどうにかなる相手ならば、龍神の神子の存在がここまで大きなものになってはいないだろう。
(できるかな……ううん、やらなくちゃ。今までだって怨霊の浄化はしてきたんだし)
 不安が胸に、じわりと広がる。
 だがそれと同時に勝真の言葉が閃光のように甦った。

 信じると言ってくれた真摯な声音が、耳の奥でまだ響いている。

 大丈夫だ――ひとりではない。

「これではもはや、秘密裡に事を運ぶどころの騒ぎではないな」
 いつの間にいたのか、背後から突如聞こえた声に花梨は再度飛び上がりそうになった。
「泰継さん!」
「あの怨霊を浄化しろ、花梨。今の状況のすべてを打開するには、それしか手段はない」
 花梨が驚いていても、泰継はまったく意に介する様子はない。
 そんな相変わらずの姿が、逆に安心感をもたらしてくれるような気がした。
「――はい!」
 状況のすべて、と泰継は言った。
 それは、ここから逃げ切ることも含まれているのだろうか。
 ちらりとそんな思考も脳裏をよぎったが、深く考え込むような余裕はもちろん無い。
 すべきことが目の前にあるのなら、全力で取り組むだけだ。
 勝真の矢が怨霊に向かって飛んだ。
 それが合図になったかのように、彰紋も懐剣から念波を振り放つ。
 泰継が呪文を唱えて印を結ぶと、指先から迸った光が怨霊を包んだ。
 怨霊はもがき、羽をばたつかせて抵抗を試みている。
 羽ばたきの風圧と共に襲い掛かってくる瘴気。
 武士たちの間に悲鳴のようなどよめきが沸き起こる。
 すんでのところで瘴気を避けた勝真が、素早く次の矢を放った。
 それが上手く怨霊の目に命中し、効果的に動きを止めることに成功した。
 獣のような咆哮が不気味に響く。
 怨霊の苦しみが、まるで手に取るように伝わってきた。

 ――この苦しみから解放してあげたい。

 突如として胸に浮かんだひとつの思い。
 それは願いにも似ていた。
 怨霊を苦しみから解き放てば、引いては京に平穏をもたらすこともできるはずだ。
 それが龍神の神子の力であり、為すべきことなのだと。
(わたしが、本当に――龍神の神子なら)
 信じてくれる人がいるなら、頑張ろうと思える。
 守りたいものがあれば、強くなれる。
 たとえ京の大半の人々が花梨を認めようとはしてくれなくても。
(わたしにできることがあるなら、したいよ。本当に神子の力があるなら、使いたい――!)
 刹那、脳裏にひとつの言葉が閃いた。
 言葉と言うよりは旋律に似ていたかもしれない。
 理屈よりもっと深い部分で、魂に語りかけてくるかのような。
 それは怨霊を鎮め、呪縛の鎖から解き放つ言葉。
 まるでずっと昔から魂の奥に刻み込まれていたかのように、呼吸をするのと変わらないほどの滑らかさで滑り出てくる。
「――めぐれ、天の声。響け、地の声」
 両腕を真っ直ぐ天に向けて伸ばす。
 誰に教えられたわけでもないのに、どうすればいいのかを迷う気持ちは微塵も湧かない。
 勝真も彰紋も泰継も、動きを止めて弾かれたように花梨を見た。
「花梨……?」
「静かにしろ」
 訝しげに呟いた勝真を泰継が制した。
 有無を言わせぬ雰囲気を受けて口を噤む勝真。
 彰紋はただ目を瞠ったまま花梨を見ている。
 近くにいた武士たちも、何が起こっているのか分からず怨霊と花梨とを交互に見遣るばかりだ。
 だが、それらはすべて花梨の目にも耳にも入ってはいなかった。
 意識の向く先は――眼前の怨霊。
 苦しみから解き放つ術が、もしもこの手にあるのなら。

 ――どうか。

「かの者を封ぜよ!」

 自分の中から発せられたとは思えないほど凛とした声が空気を打った。 
 同時に放たれる目映い光。
 黄金色に輝くそれは怨霊をたちまち包み込んだ。
 あれほど大きく獰猛だった怨霊が瞬時にして掻き消える。
 ――否、消えたのではなく姿を変えたのだと、気づくのに数秒を要した。
 怨霊がいたはずの場所から、何か小さなものがひらひらと舞い降りてくる。
「その札を取れ、神子」
 そう言ったのは泰継だ。
 意味も理由も分からなかったが、伸ばしたままだった両手を花梨は反射的に上へ向けた。
「あ、はいっ!」
 静かに落ちてきたそれが手のひらに載るのを見て、ようやく札であることが分かった。

 ――と同時に、気付く。

(泰継さん、今わたしのこと……)
 神子、と確かに言った。
 振り向こうとしたが、上手くできなかった。
 急に足元がふらつき目の前の光景がぐらりと歪む。
 倒れる――と覚悟したのに、何故かそうはならなかった。
「おい、大丈夫か」
 背中を暖かい何かで支えられたのと同時に、耳元で優しく囁かれた。
 それが勝真だと分かったので慌てて身体を離そうとしたが、上手くいかない。
「わ、え、あの、だ、大丈夫です! 大丈夫、なんですけど……っ」
 意識ははっきりしているのに、身体に力が入らない。
「あの……ご、ごめんなさい……」
「無理しなくていい。しばらく俺に寄りかかっていろ。……よくやったな」
 吐息とも苦笑ともつかない声が耳をくすぐる。
 鼓動がどんどん早くなっていくのを、気付かれはしないだろうか。
「封印を会得したな、神子」
 相変わらずの無表情のまま、泰継が言った。
 今度こそ聞き間違いようもない。

 ――神子、と確かに言われた。

「あ、あの、わたし……」
「花梨さん……本当にすみませんでした」
 彰紋が心底申し訳なさそうに頭を下げる。
 どんな反応を示したらいいのか迷う暇も与えないまま、彼は続けた。
「今までの非礼、本当にどんな言葉でお詫びしたらいいのか分からないほどです」
「そんなこと……」
「いいえ、あなたになんと言われようと、それは変わらない。だからせめて――僕にできることをさせて下さいね」
「え?」
 首を傾げる花梨にひとつ微笑いかけ、彰紋は毅然と顔を上げた。
「皆、見ましたね。この方が怨霊を鎮め、封印したのを」
 呆けたように事態を見守っていた武士たちが、雷に撃たれたように姿勢を正した。
 強張った面持ちで彰紋の顔や怨霊がいた場所へせわしなく視線を動かす武士たち。
 どの顔にも、一様に当惑の色が浮かんでいる。
「封印、というのか……あんな怨霊を一瞬で――」
「この娘、偽者ではなかったのか? だがあんなことができるのは――」
 さざなみのように広がっていく声。
 徐々に彼らの視線は花梨へと向かう。
 だがそこに込められた色は、今までのものと明らかに違っていた。

 ――龍神の、神子。

 誰かが呟いた声が、妙に鮮明に響いた。
 それが合図になったかのように、彰紋が再び口を開く。
「帝には僕から直々に、きちんとご説明します。この方は紛れも無く龍神の神子であると」
 もはやどよめきすら起こらず、武士たちは固唾を呑んで彰紋の言葉に聞き入っている。
 反論の余地はないと、誰もが無意識に悟った顔をしていた。
「すべての責は僕が負います。その上で敢えて問いましょう。まだこの方を疑う者はいますか?」
 名乗り出ようとするものは一人もいない。
 彰紋の威厳に気圧された為なのか、それとも違う理由なのかは花梨には分からない。
 やがて一人が膝を折り、それをきっかけに次々と武士たちが頭を垂れていく。
 何が起こっているのか今ひとつ理解しきれていない花梨に、彰紋が柔らかく微笑みかけた。
「大丈夫です。帝ご自身も今の出来事をすべて見ていたはずですから」
 花梨にだけ聞こえるくらいの小声で彰紋は言った。
「ここに怨霊が現れたことは、すぐに帝にお伝えしました。こちらからは見えない場所で、帝はすべてを見ていたはずです」
 すべてというのは、花梨が怨霊を封印した瞬間も、なのだろう。
 慌てて建物の方へ首を巡らせてみたが、どこが帝の居室なのかはまったく分からない。
 だが、代わりに違うものを花梨は見た。
(え、あれって……)
 木立の脇で動いた人影。
 鮮やかな紅い着物を纏った髪の長いその姿は、身を翻して暗闇の奥へと消えていった。
(今の、シリン……?)
 できることなら追いかけて確かめたかったけれど、如何せん身体が言うことを聞いてくれそうになかった。
 誰も追及しようとしないことを見ても、気付いた者はいなかったのだろう。
 放っておいていいのかどうかは分からなかったが、どうしようもないのも事実だ。
「花梨さん、こちらのことはなんとかしておきますから、早く帰って紫姫を安心させてあげて下さい」
「ああ、そうだな。歩けるか?」
「え……?」
 彰紋と勝真から唐突にそう言われ、一瞬なんのことか分からず目を瞬く。
「かえ、る……?」
 自分の声で呟いても、言葉の持つ意味と上手く繋がらない。
 馬鹿、と囁く声と共に頭を軽く小突かれた。
「もう拘束されてる理由はなくなったんだ。堂々と紫姫のところへ帰れるんだぜ」  
「あ……」
 言われて改めて周りを見回してみたが、再び花梨を捕らえようとする者は一人もいない。
 先刻の彰紋の言葉が、ようやくそこで状況と符合した。

 ――『この方は紛れも無く龍神の神子であると』

(そう……なの? いいの? わたしで、本当に……?)
 卑屈になるつもりはないが、今までずっと否定されるのが当たり前だったから俄かには実感が湧かない。
 思わず勝真の方を振り仰ぐと、驚くほど穏やかな瞳と視線が合った。
「……ほら、帰るぞ」
 動いた唇からは何か他の言葉が紡がれるのかとも思ったが、勝真はそれだけしか言わなかった。
 花梨の方も何かもっと尋ねたいことがいろいろあるような気がしたけれど、どれも上手く形になりそうにはない。
 だから、言われたことにだけ応えることにした。

「――はい!」

 自然に心底から湧いてきた、満面の笑みと共に。

(2008.05.05 Saika Hio)