果てなき漆黒の彼方に
8.
思わず呟くと、その名を持つ本人が僅かに目を細めた。
だが彼はそのまま一言も発しようとしない。
だから、本当に夢か幻を見ているに違いないと花梨は思った。
おそらくもうすぐ命を絶たれてしまうのであろう自分の、心の奥深くが願う幻想。
そうでなければ――説明がつかない。
なのに――理性ではそう思うのに、感情は違うものを訴えかけてくる。
逢いたかった。
ただ、逢いたかった。
たとえ今目の前にいる勝真が夢や幻でも構わないとさえ思うほど。
込み上げてくる熱い何かに胸を埋め尽くされてしまいそうだ。
触れようとしたら消えてしまうのだろうか。
それが怖くて、手を伸ばすこともできない。
「勝真さん……?」
確かめるように、もう一度呼ぶ。
そこで初めて、ようやく勝真が口を開いた。
「……すまない」
まるで痛みを堪えてでもいるかのような、悲痛な呟き。
花梨の胸にも鈍く痛みが走る。
これが夢や幻なら、せめて勝真には笑っていて欲しいのに。
どうしてこんな、自分自身を責め苛んでいるかのような表情で花梨を見ているのだろう。
触れることを恐れる気持ちとうらはらに、指がゆっくりと近づいていく。
花梨が着物の端を掴んでも、勝真は微動だにしなかった。
そのままそっと、もう片方の手を勝真の腕に向けて伸ばす。
触れた指先からは確かなぬくもりが伝わってきた。
信じられない気持ちと、もしかしてそうかもしれないと思っていた心と、その他に自分でもよく分からない感情が混ざり合って溶けていく。
――夢でもなければ、幻でもない。
勝真が――本物の勝真が、確かに今ここにいるのだ。
「どう、して……?」
どうしてここに来ることができたのか。
どうして謝るのか。
そのどちらの意味だったのかは、花梨自身にもよく分からなかった。
勝真は腕に触れられていることにも気づいていないかのように、やはり動かない。
ただ静かに花梨を見下ろしたまま、彼は小さく言葉だけを紡いでいく。
「おまえを……こんな目に遭わせるつもりじゃなかった。謝ってすむ問題じゃないことくらい分かっているが……それ以外の言葉が見つからない」
「そんな……っ」
そんなことはないのに。
勝真はあの時ちゃんと守ろうとしてくれた。
最初から疑いしか向けてこなかった武士たちに、そうではないことを説明しようとしてくれた。
それがどんなに嬉しくて、どんなに心強かったか――それこそ言葉では言い表せないほどなのに。
唇を引き結んでかぶりを振っても、勝真は悲痛な表情を崩そうとはしなかった。
「俺が招いたことだから、俺が片をつける。おまえのことは、必ずここから無事に逃がしてやる」
「え……」
「――だから許してくれ、なんて虫のいいことを言うつもりはないけどな。とにかくそういうことだ」
言いながら勝真の口元に、微かな笑みが刻まれる。
けれど、どうしてだろう。
ようやく笑いかけてもらえたのに、花梨の胸に安堵の念が浮かぶ気配はない。
助けてやると言われたのに、それを素直に喜ぶ気持ちは湧いてこない。
それどころか、言いようのない不安が急に溢れ出して体中を埋め尽くしていきそうになる。
理由はすぐに分かった。
勝真の目が笑っていないせいだ。
口の端だけを無理に歪めて笑みの形を作っているに過ぎないのだ。
目元は未だ、悲痛な色を帯びたまま。
勝真の真意がどこにあるのか――分からない。
「そんな、こと……できるんですか……?」
深く考えるよりも先に脳裏に閃いたのは、単純すぎる疑問。
あれほどあっさり捕らえられ、尚且つ厳重に監視されていた花梨を逃がすなど、言うほど簡単にできるとは思えない。
それにそもそも勝真がどうやってここに来ることができたのかも、まだ訊いていなかった。
じわりと、不安は少しずつ、だが確実に大きくなっていく。
ようやく逢えたことをただ嬉しいと思った先刻の気持ちが嘘のようだ。
花梨は用心深く言葉を紡いだ。
「ど、どうやって? そんなことしたら勝真さんだってどうなるか――」
「俺のことは気にしなくてもいい」
やっとの思いで告げた言葉を、勝真は簡単に遮った。
声音こそ静かだけれど、まるで斬り捨てるかのような冷たさで。
「おまえは自分が無事に逃げ切ることだけを考えていろ。何があってもおまえだけはここから出してやるから。俺のことは――おまえが気にする必要はないんだ」
花梨の反論をそれで封じたつもりだったのだろうか。
だが、まったく逆効果だということにおそらく勝真は気付いていない。
そんなことを言われて、とても黙ってなどいられるはずがなかった。
「勝真さん……何を考えてるんですか? なにを――するつもりなんですか?」
薄暗がりの中で、勝真の睫毛が頬に微かな影を落とす。
「わたし、たぶん、処刑……されちゃうんですよね」
花梨自身の口からそんな単語が出たことで、勝真の両の目が驚きに見開かれた。
だがむしろ今の花梨にとっては、自分の処遇など瑣末な他人事のようでしかない。
「そんなわたしを逃がしたりしたら勝真さんだってただじゃすまないんじゃないですか? それに、『おまえだけは』ってどういう意味ですか? 勝真さんはどうするんですか?」
言いたいことと言わなければならないことを矢継ぎ早にぶつける。
黙って聞いていた勝真は小さく息を吐き、それから言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「おまえは……京を救う存在なんだろ」
「え……」
言われたことの意味が分からない。
少なくとも、花梨の問いに対する直接的な答えではない。
「俺は今までそんなものを信じちゃいなかったし、おまえ一人に頼ること自体間違ってるとは思う。だが、とにかくおまえはこんなところで――しかも冤罪で、みすみす命を落としていい存在じゃないはずだ」
「か、勝真さんは……っ、どうするんですか……!」
答えになっていない。
そう叫びたいのを必死で堪えて同じ問いを繰り返す。
自分の心臓の音がどんどん早く大きくなっていくのが怖くてたまらない。
このままでいれば花梨は処刑される。
勝真は否定しなかったから、それはおそらく事実なのだ。
ならば、それを逃がそうとした勝真はどうなる?
京の政治の事情は知らないが、それでも容易に想像はつく。
それでも勝真は、花梨の望む答えを与えてくれようとはしなかった。
「俺はおまえとは違う」
それどころか、先刻のように口の端だけに浮かべた笑みで彼はただ言う。
「俺がどうなったところで、困る奴なんてひとりもいやしないさ」
「いますよ!」
大声を出してもいい状況なのかどうかなど、もはや気にしていられる余裕はなかった。
瞬間的に頭へ血が上り、涙さえ溢れそうになる。
泣くことだけはそれでも堪えた。
泣いてしまったら、きちんと話ができなくなる。
だから唇を引き結び、睨むように鋭く勝真を見上げた。
勝真は呆気に取られたように花梨を見下ろしている。
その瞳を見ていたら、今まで自分の中で漠然としていたものがようやく明確な想いとして形になるのが分かった。
逢いたくて、苦しくて。
それでも、最期を迎えるときにただ思い浮かべていられたらいいと思った。
いつの間にか心の中を埋め尽くしてしまっていた、ただひとりの人。
やっと――分かった。
「ここにいます。わたしです。勝真さんが捕まったり、こ……殺されちゃったりしたら、絶対にいやです!」
* * *
そう告げた花梨の瞳は微かに潤んでいた。
射るように鋭い視線で勝真を捕らえたまま、泣かないように気を張っているのだろうか。
だが、何故泣きそうになっているのか勝真には分からなかった。
ひとつだけ今の発言から導き出される可能性が無いわけではないが、それはあまりにも自惚れというものだろう。
花梨に慕われるようなことなど、何ひとつした覚えはない。
信じてやれず、守ってさえやれず、こんな牢獄へ繋がれるのを止めることもできなかった。
それでも、何かひとつだけでも花梨のためにできることがあるのなら、おそらくはそれが自分の役割なのだ。
そう思ったから、こうすることを選んだ。
だが花梨のことだから、きっと知ったら黙っていないだろうとは思った。
だからわざと曖昧な言葉しか告げなかったのに。
(やっぱりこいつは……ただ者じゃないよな)
幼そうで、頼りなさそうで、危なっかしくて――そんな印象しかなかったけれど。
捕らえられても取り乱しもせず、こうして再会しても勝真を責める言葉ひとつ吐かず。
状況を冷静に見て、先を見据える目を持っている。
――花梨を逃がしたあと勝真がどうなるかを、的確に理解してしまっている。
確かに、ここから花梨を逃がすなど言語道断だ。
見つかればただではすまないことくらい、子どもでも分かるだろう。
だからこそ、勝真がやらなければならないのだ。
花梨をこんな目に遭わせた、勝真自身が。
*
『あんたの術で見張りの目を眩ませることはできるか?』
そう問うた勝真に、泰継は眉ひとつ動かさずに答えた。
『幻術を使うことは可能だ。だが一時的なものでしかない。一人や二人ならば強い効果のある術もかけられるが、大勢が相手ではそうもいかない』
『花梨一人を見張りたちの目から隠してくれればいい。それと、もうひとつ』
『まだあるのか』
『安倍家は、京の中でも中立を保っていたはずだな。言い換えれば、院も帝も直接的な手出しをすることはできない』
『……間違ってはいない』
『じゃあ、あいつを保護してやって欲しい。院からも帝からも隔離できる安全な場所で』
勝真が頼む筋合いのことではないと分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
『こうなった以上、もう紫姫の館にいるわけにはいかないだろう。ほとぼりが冷めるまででもいいから、そうしてやってくれ』
『……承知した』
頷いた泰継は無表情のままだったから、納得したのかそれとも釈然としないままなのかは分からなかった。
ただ、彼は言った。
『おまえはどうするのだ、勝真』
と。
それに対して明確な答えを勝真は返さなかった。
返せなかった、という方が正しいのかもしれないが。
言えば反対されるであろうことが明白だった為もあるし、必要以上に手の内を明かしたくなかったというのもある。
とにかく失敗は許されない。
それだけは確かだったから。
だから、より確実な方法を選んだ。
最初から泰継の幻術を使って牢に侵入することも考えたが、見張りや兵士が何人いるか分からない状態では、術を回避してしまう者がいるかもしれない。
それに、こっそり侵入したのでは牢の鍵を開けることも無理だ。
だから侵入時には彰紋の力を借りた。
どんな交渉を持ちかけてくれたのかは分からないが、勝真が驚くほどあっさりと牢へ入ることができた。
そうして、ようやく――花梨に逢うことができた。
結局ここまで来るのに、勝真自身の力では何もできていない。
この後も然りだ。
花梨を安全に逃がす為には泰継に頼る他ない。
勝真一人のできることなど、爪の先ほどもありはしないのだ。
だが――それでもひとつだけ、できることがあると気付いた。
事がここまで大きくなってしまった以上、花梨を逃がして安倍家にかくまってもらったとしても、それで済むとは思えない。
こっそり逃がしたとしても、あっという間にばれてしまうだろう。
そして、そうなったときに疑われるのは――それができる可能性のあった者だ。
内裏に詳しい彰紋かもしれないし、陰陽術を操る泰継かもしれないし、あるいは他の八葉かもしれない。
疑いをかけられた者は、おそらくただではすまないだろう。
ならばそうなる前に、名乗り出てしまえばいい。
兵たちの前に姿を見せて、花梨を逃がせばいい。
逃げる花梨は泰継が幻術で助けてくれる。
その間に勝真が一人で兵たちを引きつけておけばいい。
花梨を逃がしたのは勝真だと、そう思わせる最も効果的なやり方で。
無論、ただで済むなどとは思っていない。
だがそれでいいと思った。
――こんな自分でも何かひとつ花梨の役に立つことができるのなら、それだけで。
*
笑顔で応じてくれるとはもちろん思っていなかった。
だが具体的に花梨がどんな反応を示すのかは、考えていなかった。
いや――わざと考えないようにしていただけなのかもしれない。
花梨がこの方法を知ったら全力で反対されると、心のどこかで勝真には分かっていたはずなのだから。
睨むような視線が、不意に力なく逸らされた。
瞳と瞳の間に走っていた緊迫感が僅かに緩む。
だが次いで花梨が言った言葉は、勝真にとってひどく衝撃的なものだった。
「わたしのことなんて……助けなくてもいいです」
「な、に……?」
勝真の知らない、異世界から来た娘。
不意にその世界の言語を聴かされたのかと一瞬本気で思った。
「わたしを助けたってどうしようもないじゃないですか。だって――」
「花梨っ……」
何を言おうとしているのか悟った瞬間、勝真の鼓動がひときわ大きく跳ねた。
言わせたくなかった。
勝真や他の人間が散々口にしてきたはずなのに、花梨自身が形にするのを聞いたことは今までにない。
――花梨がこの世界にいる意味を、真っ向から否定する言葉。
それがどんなに鋭利な刃でこの無垢な少女の心を抉っていたか、今さらのように気付かされる。
「だって龍神の神子は他にちゃんといるんだもの。わたしは、にせも――」
「やめろ!」
どうやって黙らせようか、冷静に考える余地などなかった。
無意識に伸びた腕が花梨の頭を強引に引き寄せ、次の刹那には乱暴なほどの力で胸の中に抱き込んでいた。
虚を突かれた花梨が息を呑んでそのまま言葉を失う。
こんな簡単なことでさえ不器用で強引な方法しか取れない自分を、内心で嘲笑う声が聞こえた気がした。
「それ以上言ったら――許さない」
自分でも驚くほど威圧的な声が洩れた。
腕の中で花梨が再び息を呑む。
「俺が言えた義理じゃないのは分かってる。俺だって今まで散々そう言ってきたんだからな。だが――おまえがそれを言うな」
勝手なことを言っていると、自分でも思う。
けれど、もう――止まらない。
「龍神の神子が本来どんな存在なのかなんて、俺は知らない。だが少なくとも俺は、信用できない奴に力を貸すような真似はしない」
「え……」
「おまえになら力を貸してもいいと思える。おまえなら、俺のすべてをかけて守ってやりたいと思う。そう思えるのは……おまえしかいない」
「……っ」
「俺一人の考えなんて、京全体から見れば無いも同然だってことは分かってるさ。だから、誰に理解されなくても構やしないが、それでも――俺は信じる」
花梨の肩が小さく震えだす。
その耳元で、勝真ははっきりと告げた。
「おまえが――龍神の神子だってことを」
ようやく言えた。
信じたい気持ちと疑う心との狭間でずっと揺れていた、どっちつかずの思い。
認めることを恐れる気持ちがどこかであったのかもしれない。
院側だとか帝側だとか、既に龍神の神子は京にいるとか、信じない理由ならいくらでも並べられる。
だがそんな理屈など超越した何かを、この花梨という娘は確かに持っているのだ。
それが彼女を信じる理由。
少なくとも、勝真にとっては。
「か、かつざねさ――」
震える声で花梨が何かを言おうとした、その時だった。
「……っ勝真さん、いま……」
「ああ、声が――」
牢へと通じる道の先から、ただならぬ雰囲気の声が響いた。
有体に言えば――叫び声だ。
勝真の胸に一瞬で緊張感が走る。
花梨もそれは同じだったのだろう。
聞き間違いでなければ、声は確かに言った。
――怨霊だ、と。
(2008.04.28 Saika Hio)