果てなき漆黒の彼方に
7.
これが正しいのか間違っているのか、自分でもよく分からない。
自信がない、と言った方が正確だろうか。
だが悩む時間も判ずる基準も、今の勝真にはない。
ただ――誰かに相談したら、おそらく反対されるのだろうとは思った。
それはつまり、間違っているという証明なのかもしれない。
けれど誰にも相談などするつもりはないから、それさえも推測の域を出ることはない。
自分自身が目を瞑っていさえすればいい。
迷う必要など、どこにもありはしないのだ。
――たとえ世界中の人間から反対されたとしても、覆すつもりはないのだから。
* * *
枯葉を踏む乾いた音が足の下で微かに響く。
自分の屋敷の庭なのに、これほど奥まで足を踏み入れたのは久しぶりだ。
人払いなど特にしなくても誰かがわざわざ入り込むことはなさそうな場所だが、それでも念には念を入れた。
一人の人物以外は絶対に誰も近づけるなと、警備の者に厳命したのは半時ほど前。
その「一人の人物」に緊急の使いを出したのは、そこから更に半時ほど遡る。
普段ならばあっという間に過ぎ去って記憶にも残らないような短い時間が、今日は苛立ちを禁じ得ないほど長くてたまらない。
何しろ今は、とにかく時間が惜しいのだ。
こうやって待っていることすら、もどかしくて堪らない。
本当なら、今すぐにでも――傍に飛んでいきたいのに。
(花梨……っ!)
無意識に固めていた拳が、何かを考えるよりも先に傍らの木の幹へ打ち付けられた。
自分の上肢でありながら己の意思で制御することもできず、何度も何度も同じ行為を繰り返す。
手の甲の皮膚が破れ血が滲んでも、痛みなどまるで感じない。
そこだけ感覚がなくなってしまったかのように。
その不毛な行動に終止符を打ったのは、突如響いた低い声だった。
「待たせた」
ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの微かな声だったが、勝真は雷に打たれたかのように弾かれて振り向いた。
足音が聞こえた覚えはなかったが、それを判ずるだけの冷静さがあったわけでもないので深く考えるのはやめておく。
勝真の異様な様子を見ても眉一つ動かさず、泰継はそのまま近づいてきた。
「神子に関わる緊急の要件と聞いた。話せ、時間が惜しい」
まるで勝真の方が待たせたかのような物言いだが、状況が状況なので腹も立たなかった。
それどころか、いささか拍子抜けのような感すら覚える。
「あ……ああ」
ここは、話が早くて助かると思っておくべきなのだろう。
そう自分に言い聞かせ、勝真は表情を引き締めた。
「緊急で重大な用件だ。たぶん、あんたにしか頼めない。あんたに口止めなんて必要ないかもしれないが、バレたらすべてが終わりだ。だから……絶対に誰にも言わないでくれ」
「誰にも、とは。具体的に誰を指す」
「そのままの意味だ。俺とあんた以外、ただの一人にも知られたら困る。紫姫にも――他の八葉にも」
八葉という単語を使っても良いものかどうか、口に載せる前に一瞬だけ迷った。
勝真自身がそうであるように、泰継もまだ花梨を神子だと認めたわけではないはずだ。
だが泰継は余計な横槍を入れようとすることもなく、ただ義務的に頷いた。
「他言無用であることは理解した。私に何かを頼みたいのだということも分かった。本題を話せ」
あまりにあっさりしすぎていて本当に納得されたのかどうか疑いすら生まれそうになるが、そんな行為に何の意味もないことくらいはさすがに分かった。
話せと言われているのだから、とにかく話すのが最優先だ。
周囲に誰もいないことをもう一度確認して、勝真はゆっくりと口を開いた。
* * *
話自体はそれほど時間をかけずに終わった。
泰継は口を挟むこともなく聞いていたが、聞き終えた途端あからさまに眉をひそめた。
「……よもやこの状況で酔狂な戯言を聞かされたとは思いたくないが」
「あたりまえだ。俺は本気で言ってる。冗談でこんなこと言えるわけがないだろう」
予測できた反応ではあったので、定型通りの返答を投げておく。
泰継はますます眉根を寄せた。
「それは本当に可能なことなのか。私にはとてもそうは思えない」
「あいつ一人を助けるだけなら十分可能さ。あんたは、あいつが上手く逃げ出してきた後のことだけ保証してくれればいい」
嘘は言っていない。
――かといって、すべてを話したわけでもないが。
あえて隠した部分にこそ泰継が本当に知りたい情報があるのであろうことは分かったが、これ以上を明かすつもりは勝真にはなかった。
「おまえはどうするのだ、勝真」
短い問いが具体的に指しているのかは、詳しく聞かなくても分かった。
そして、それに対して返せる答えはひとつしか思い浮かばなかった。
「……自分のことは自分で何とかするさ。あんたに心配してもらう必要はない」
「………分かった」
しばしの沈黙の後、返ってきたのはそんなひとことだけだった。
泰継がこういう性格で良かったと思ったのは初めてかもしれない。
「用件はそれですべてか。では私は失礼する」
すっかり元の無表情に戻り、必要なことだけを口にして踵を返す泰継。
そのまま歩き出そうとしていた足が、何故かすぐに止まった。
勝真の視線が訝しげにそちらを向くよりも先に、耳に微かな呟きが触れた。
「八葉は――ない。真に――ことはできない」
「……っ!」
単なる独り言のつもりだったのだろうか。
息を呑んだ音が聞こえなかったはずもないだろうに、泰継はそのまま歩き去っていった。
だがそれはやけにはっきりと勝真に届き、胸の底に重く落ちた。
――『八葉は八人でなければ用を成さない。真に神子の為となることはできない』
確かに、そう聞こえた。
言いたいことは理解できる。
勝真たちが本当に八葉であるならばという前提で、だが。
(いや、もう本当は……分かっているのかもしれないけどな)
勝真も、泰継も、彰紋も翡翠も。
花梨という異世界の少女が、今この京にいる意味を。
――自分たちの、役割を。
「……」
泰継には分かっているのだろう。
勝真がこれからしようとしていることが、どんな結果を引き起こすか。
その上で彼なりに止めようとしてくれたのか、それとも単なる皮肉だったのかは分からないが。
(それでも……こうするしかないんだ)
自分にもっと才知があったら、違う方法を選べたのかもしれない。
だがそんな仮定に思いを馳せることに、今は何の意味もありはしない。
ふとそこで初めて、それを知ったときの花梨がどんな反応を示すかが気になった。
おかしな話だが、彼女こそが当事者であるはずなのに今までまったく意識していなかったのだと初めて気付く。
刹那、胸に走った痛み。
それを何と名付けたらいいのか、いくら考えても分かりそうにはなかった。
ただ、今になってようやく、木の幹に打ち付けた手の甲が鈍い痛みを訴え始め、勝真は微かに片目を眇めた。
* * *
雲が月を隠しているのは、本当にただの偶然だろうか。
もしかしたら天が味方をして、都合よく闇を作り出してくれているのかもしれない。
柄にもなくそんなご都合主義な考えが浮かび、勝真は内心で苦笑を零した。
暗闇だろうが明るかろうが、状況はまったく変わらないはずだ。
勝真の無理な願いを彰紋が聞き届け、花梨のいる場所までどうにか入れるようにしてくれたのは、彼女の処遇が決まってから更に一日が経過した後だった。
それを待った時間はそれこそ永遠にも似た長さだったが、冷静に考えれば一日でどうにかしてもらえたことの方が奇跡に違いない。
勝真では逆立ちしても為し得なかったことだ。
改めてまざまざと見せ付けられた、己の力の無さ。
もっと力があれば――そもそも花梨をこんな目に遭わせずに済んだことだろう。
そんな後悔に何の意味もありはしないと分かっているのに、幾度も浮かぶ同じ思い。
目だけで左右を見て、武士の人数の多さに思わず眉根が寄る。
明らかな警戒の眼差しを向けてくる者が殆どだが、彰紋と並んで歩く勝真に何かを仕掛けてこようとする者はさすがに一人もいなかった。
だが、それだけだ。
動かないだけで、そこにいる事実に変わりは無い。
この多勢に無勢の状況の中、万に一つも隙をつける可能性があると思うほどおめでたい思考はしていないつもりだ。
今は彰紋が傍らにいるから極限まで張り詰めた緊張の中でもどうにか均衡が保たれているが、それは決して確約ではない。
少しでもおかしな動きをすれば、途端に彼らは豹変するだろう。
それだけは何としても避けなければならない。
――花梨に会うまでは。
花梨の名を思い浮かべた途端に、これ以上は無いほど胸が疼いて勝真は思わず息を呑んだ。
そうだ。
もうすぐ――花梨に逢える。
たった二日しか経っていないのに。
それまで毎日のように顔を合わせていたのがまるで遠い昔のことのように、酷く懐かしい心地にさえなる。
こんなにも――逢いたくてたまらない。
目を閉じて、花梨の顔を脳裏に思い描いてみる。
記憶の中で眩しいくらいに彼女は笑っていた。
幾度も見た、屈託の無い笑顔。
当たり前の光景だと思っていたその姿をもう一度見たいと思うことは、ひどく大それた願いなのだろう。
だから、笑って欲しいなどとは言わない。
ただ、もう一度だけ逢うことができるなら――それだけでいいから。
「勝真殿……」
隣を歩く彰紋が小声で話しかけてきた。
警備の武士たちに不審がられないように気を遣ってか、視線は前へ落としたまま。
「こんなことを、はっきりと言いたくはありませんが、ですが……」
ちらりと横目だけで見遣ると、見たことも無いほど悲痛な面持ちから重い言葉が零れ出た。
「もし、花梨さんを救い出そうとなさっているなら、それはおそらく――不可能、だと……」
「――ああ、分かってるさ」
いっそ清々しいほどの心地で、自然にそんな応えが出ていた。
勝真が何を考えているか、彰紋は知らない。
だが、知らないままでいてくれればいいと思う。
こんな風に利用してしまったことで彼に火の粉が降りかからなければいいと、それだけが気がかりではあったが。
「……。こちらです」
もう必要以上のことは言わず、彰紋は勝真を促した。
こんな内裏の最奥部まで入り込む日が来るなどと夢にも思ったことはなかった。
おそらくはこれが――最初で最後なのだろうけれど。
* * *
既に何日も経過したような気もするし、ほんの一時間ほどしか経っていないような気もする。
自分が今どんな時間の流れの中に身を置いているのか、さっぱり分からなかった。
時間の概念の計りづらい場所であることに加えて、花梨自身が明らかに冷静さを欠いているせいだろう。
それでも、叫んだり暴れ出したりしない程度にはまだ理性も残っているのだろうか。
そんな行為に何の意味もありはしないことを、無意識に悟っていたせいかもしれないが。
このまま、ただ待つしかないのだろうか。
理不尽としか思えない、己の人生の幕引きを。
元の世界だったらきっとこんなことはありえない。
この世界に来たから。
望むと望まざるとに関わらず、龍神の神子を名乗ることになったから。
そして、それを――認められないから。
何ひとつ、花梨の意志は働いていない。
巻き込まれたという表現がこれほどふさわしい状況も他に知らない。
けれど――それでも。
この運命を呪う気には、何故かどうしてもなれなかった。
怖い。
悲しい。
死にたくない。
けれど、この世界に来なければよかったとは思わないし、思いたくもなかった。
それはきっと、この世界にしかいない人たちがいるから。
この世界に来なければ出逢えなかった人たちが――人が、いるから。
もう二度と逢えなくても、出逢えたことに感謝したい。
瞼を閉じると鮮明に浮かび上がる姿。
怒った顔、からかう口調、微笑う瞳、頭を撫でてくれたあたたかい手のひら。
そして――名前を呼んでくれた優しい声。
最後の時まで思い浮かべていられたら、それだけでいいとさえ思える。
そんな風に思ったとき。
「……?」
足音が聞こえた。
次いで、小声で幾人かが遣り取りする声。
揉めているようにも聞こえたが、声を荒げる者はいない。
花梨のいる場所から牢の格子を挟んで少し離れた位置にいるようで、内容までは分からない。
二言三言の遣り取りが更に続き、それが止んだのとほぼ同時に複数の足音が遠ざかっていった。
なんだったのだろう。
いよいよ命運が決まったのかと思い一瞬背筋が凍ったが、そういうわけでもないようだ。
息を詰めて様子を伺っていると、どうやら全員が立ち去ったわけではないらしいことが分かった。
(あ、でも当たり前か。警備の人が一人は残――っ、え……?)
自分の鼓動の音がやけに大きく耳に響く。
何故なら、これまでずっと硬く閉ざされたままだった牢の扉が外側から目の前でゆっくりと開いていくからだ。
やはりどこかへ連れ出されて――結末を迎えることになるのだろうか。
再び悪い予感に襲われて、知らず身体が竦む。
けれど、中へ入ってきた人物は警備の武士ではなかった。
その証拠に、荒々しく花梨を引き立てていこうとする気配はない。
ゆっくりと近づいてくる人影。
そうして、目の前まで来たその姿をようやく視認できるようになった時、これは夢だと本気で思った。
いるはずのない人。
ここに来ることなどできるはずのない人。
つい先刻まで思い描いていた正にその相手が、悲痛な面持ちで花梨をじっと見下ろしていた。
「か、勝真……さ、ん……?」
(2008.02.10 Saika Hio)