果てなき漆黒の彼方に

6.



 悪い冗談。
 まず脳裏に浮かんだのは、逃避にも似たそんな語句だった。
 だがそれをそのまま口に出すほどの愚かさはさすがに持ち合わせていない。
 この状況でよもや彰紋が、こんな最悪の冗談をわざわざ持ち出すはずがないことくらい分かっている。

 ――何と言った?

 彰紋は今、何と言った?

 反芻することさえ思考が拒絶しようとする。
 灼熱の業火で焼き尽くされたかのように、脳裏が真っ白に染まる。
 その中で、はにかんだように控えめな微笑みが一瞬閃いて消えた。
(花梨……っ!)
 ようやく、どんな娘なのかが分かってきたところだ。
 龍神の神子であろうとなかろうと、彼女になら力を貸してもいいと――ようやく思えてきたところだった。
 確かにまだ花梨についての多くを知るわけではない。
 だが神子の名を騙って京を混乱に陥れるような、愚かしい娘でないことだけは間違いない。
 冤罪であるのはどう見ても明らかなのに。
 それを進言することすら、許されないとでも言うのだろうか。
「あいつが捕らえられたのは、つい昨日だぞ! まだ一日しか経っていない! そんな重大なことを……っ、たったそれだけの時間で判断してしまっていいものなのか!?」
 この一日をあれほど長くてたまらないと感じていたはずなのに、自分の発言に矛盾が生じていることさえ今の勝真にとってはどうでもよかった。
「きちんと詮議した上でのことなのか? いや、そもそも――」
 普通ではない。

 今、この京に於ける様々な――何もかもが。

「――今上帝は、そこまで無慈悲な方だったか……?」
 握り締めた拳が小刻みに震える。
 滅茶苦茶にどこかへ打ち付けたい衝動に駆られたが、痺れたように身体そのものが動かない。
「僕も、信じたくなどありません。花梨さんがそんな目に遭ってしまうことも、それを――兄上がお命じになったことも」 
 彰紋の泣きそうな声が、静まり返った部屋の中でやけに大きく響く。
「じょう――っ、だんじゃねえ……っ! そんなバカな話があるかよ!」
 突然上がった怒鳴り声は、はっきり分かるほどに震えていた。
「あいつ、京のためにあれだけ頑張ってくれてるんじゃねぇか! この世界の人間でもないのに! みんなから疑われても文句ひとつ言わずに……それなのに!」
 イサトの語気の荒さに驚く者は一人もいない。
 今の状況の中では、それすら瑣末なことなのだ。
 否、もしかしたら他の皆も同じことを叫びたいのかもしれない。
 ただそれを実行に移す者がいないだけで。
「それは、もう決定事項なのですか」
 冷静を装った風の幸鷹の声も、今は僅かながら上ずって聞こえる。
「勝真殿の仰るとおり、あまりにも事態の進みが早すぎる。まだ向きを変える余地はあるのではないですか」
 眼鏡の奥の瞳に射られた彰紋が、びくんと肩を揺らした。
「……分かりません」
 自分自身が責められているかのように、目を伏せる彰紋。
 一斉に向けられた全員の視線の矢に耐え切れなかったせいもあったのかもしれない。
「正直、僕にも何がどうなっているのか分からないんです」
「おまえが分からなくてどうするんだよ!」
 未だ瞳の奥の炎を消せないままのイサトが堪りかねた様子で叫ぶ。
「おまえの兄貴だろ、なんで分からねぇんだよ! オレたちじゃどうにもできねぇのに――あいつを助けられねぇってのに!」
「やめなさいイサト」
 今にも殴りかかっていきかねない勢いのイサトを、幸鷹が声だけで静かに制した。
「……っ」
 イサト自身もそれが言いがかりであることは分かっているのだろう。
 彼は苦々しげに口を閉ざし、そのまま顔を背けた。
「すみません。僕にできることがあるかどうかは分かりません。でも――」
 震える声で、それでもはっきりと彰紋は言葉を紡いでいく。
「でも、こんなことが許されていいはずがない。僕だってそれは同じ気持ちです。花梨さんが龍神の神子であろうと――なかろうと」
 彰紋の言葉の最後の部分で、その場にいた者たちはそれぞれ複雑な表情を浮かべた。
 帝側の勢力を支持する八葉は、未だ花梨を完全に神子だと認めたわけではない。
 否――認めると公言したわけではない、と言った方が正しいのだろうか。
 他の者はどうなのか知らないが、勝真自身には未だによく分からない。
 花梨が本当に龍神の神子なのかどうか。
 だが彰紋の言うとおり、それはこの場合関係ないはずだ。
 いくら京を統べる存在だからといって、こんな理不尽な理屈で一人の命を自由にしていいはずがない。
「だから、僕に出来うる限りのことをします。兄上に掛け合ってみて、それでも駄目なら……何か他の方法を考えます」
「……お役に立てるかどうか分かりませんが、我々も策を練ることはできますから。お一人で何もかも背負い込むことはありませんよ」
 幸鷹が柔らかく告げると、彰紋は微かに頭を下げた。
「だが時間がないのは事実だ。考えるにしても、可及的速やかに――といったところだね」
「まず何とかして疑惑を晴らすことは出来ないものでしょうか……」
 いつもどおり余裕の香る笑みを浮かべてはいるものの、やはりどこか精彩に欠ける翡翠。
 あからさまに顔を曇らせて呆然と呟く泉水。
 他の者も硬い面持ちで考えを巡らせたり、情報を集めるために一旦この場を辞したりとそれぞれの動きを始めた。

 勝真が黙考していた時間は、ほんの僅かだった。
 脳裏に浮かんだ方法が最善かどうかなど、考える余裕すらありはしなかった。

 ――自分にできることがたとえひとつでもあるのなら、それをするしかない。

 誰にも呼び止められることなく部屋を出て、先に門のほうへ向かっていた彰紋を追いかける間にすっかり気持ちは固まっていた。
 そうして、他の八葉に聞こえないくらいの場所まできたところで勝真は静かに口を開いた。

「彰紋――待ってくれ」


 *     *     *


 空気が変わったような気がした。
 上手く言葉では表現できないけれど、牢の中から伺える外の様子が今までよりも張り詰めたような感じだ。
 遠くから聞こえる複数の声がさざなみのように耳を震わせる。
(なんだろう……何かあったのかな?)
 覗き込むようにして見たとき、見張りについていた武士のもとへ慌しく別の武士がやってきた。
 人目を憚るようにして身を縮め、花梨には聞こえない大きさの声で会話を始める二人。
 しばらく遣り取りが続いていたかと思うと、見張りをしていた方の武士が唐突に声を上げた。
「なに、それはまことか!」
「ああ、間違いない。帝が直々に命を下されたそうだ」
 話を持ってきた方の武士は努めて声の調子を落としたまま、神妙に頷く。
 そのとき、ちらりと視線がこちらへ向いたのが見えた。
(え、なに……?)
 武士の視線はすぐに外れていったが、その一瞬の出来事が花梨の鼓動を不自然に跳ねさせた。

 ――花梨にとって嬉しい知らせではないらしいことは、なんとなく分かった。

 胸元の着物を思わず両の手が固く握り締める。
 だが花梨の様子など気にも留めず、彼は再び同僚に向き直ってもう一言二言会話をした後に去っていった。
 込み入った話ではなかったのだろうか。
 若干拍子抜けしたが、直感のように走った嫌な感覚は何故か消えてくれない。
 間違いなく花梨に関わることのはずだが、尋ねて答えてもらえるとも思えなかった。
 すると、見張りの武士がおもむろにかぶりをひとつ振り、花梨の方を見遣って小さく息を落とした。
「――にな。まだ――のに」
(え……?)
 先刻の比ではない鋭さで、心臓が跳ねた。
 花梨に聞かせるつもりではなく、ただの独り言だったのだろうけれど。
 皮肉なことにそれは意外なほどはっきりと花梨の耳に届いてしまった。

 寒くもないのに身体が震える。
 暑くもないのに喉が渇いて唇がこわばる。

 腰が抜けたようにへたり込んだ花梨を武士が驚いたように振り返ったが、声をかけられることは無かった。


 ――『可哀相にな。まだこんな幼い娘だってのに』


 確かにそう聞こえた。

 それは、つまり――。

(わたし……まさか……)
 おそらく間違いないと思われる、己の行く末。
 それに思い至ったのと同時に脳裏で閃いた姿は、両親でも元の世界の友人たちでもなかった。
(もう、会えない……の、かな)

 自分でも驚くほど鮮明に――それはたったひとりだけ。


(――勝真さん、に……)



 *     *     *


 声をかけられるとは思っていなかったのだろう。
 弾かれたように振り向いた彰紋は、勝真を見て僅かに目を見開いた。
「あ、勝真殿……どうかなさいましたか?」
 明らかに青ざめた顔で、それでもしっかりと目を上げて彰紋が応える。
 こんな状態でも見事なほど、声音は落ち着いて聞こえた。
 どうやって切り出そうか少しだけ考えたが、時間もなければ取り繕っている余裕もないことにすぐさま気づく。
 だから勝真は率直に用件だけを述べることに決め、ゆっくりと息を吸った。
「すまないが、ひとつ頼みたいことがある」
「はい、何でしょう? 僕にできることでしたら、何なりと仰ってください」
 はっきり頷く彰紋に、勝真は静かに言葉を続けた。

「牢に、何とかして入ることはできないか。どんな方法でも構わないから、入れさえすればいい」

「え……?」
 すぐには意味が分からなかったらしく、幾度か彰紋が目を瞬く。
「勝真殿……?」
「どうにかして、潜り込ませて欲しいんだ。――頼む」
 真っ直ぐに、射るような視線を注ぎながら勝真は訴えた。
 その必死さが伝わったのか、彰紋の瞳に困惑の色がありありと浮かぶ。
「勝真殿、いったい何をお考えなのですか。牢に入り込んでも、花梨さんを助け出すことは――」
「悪いが、それ以上を今ここで言うつもりはない」
 そっけなく遮ると、彰紋は叱られた子供のように押し黙った。
 さすがに良心が咎めはしたが、勝真の方も譲ることは出来なかった。
 頼みごとをする側の態度ではないことは分かっている。
 それでも、すべてを話したら聞き入れて貰えないことは明らかなのだから仕方がない。
 やがて観念したように彰紋がぽつりと呟いた。
「入る、だけでいいのですか。その先は――」
「入れればいい。――それだけで、構わない」
「……分かりました。どうにかしてみます」
「すまないな」
 婉曲に追求を遮ると、彰紋はもうそれ以上食い下がろうとすることはなかった。
 軽く頭を下げて去っていく後姿を見るともなしに見遣りながら、勝真の胸には何故か奇妙な清々しさが芽生えていた。
 
 

(2007.11.08 Saika Hio)