果てなき漆黒の彼方に

5.


 衣擦れの音が軽やかに空気を震わせる。
 静寂と暗闇に支配された中では、そんな微かな音さえもやけにはっきりと存在を主張して止まない。
 その衣を纏う身が持つ、大輪の花のような印象のせいだろうか。
 妖艶な肢体を殊更に強調する作りの着物を華麗に捌き、女は流れるような仕草で男の傍らに腰を下ろした。
「お上、例の娘の件はどうなりました?」
 男――帝の首に、媚びる仕草で腕を回しながら女は問う。
 己の頬を滑る細い指先に自分のそれを静かに重ねて帝は静かに口を開いた。
「それらしい娘を捕らえたと、昨日報告があった。私は直接会ってはいないが……風貌も噂どおりで、不思議な力を持っているのも間違いないらしい」
「まあ」
 形の良い眉を大仰に動かして、女が応える。
「それで、如何なさいますの? よもやそのままにしておくわけにもいきますまい?」
 わざと煽るような口調に気づいているのかいないのか、帝は神妙に頷きながら思案気に瞳を揺らした。
「ああ、悩むところだな。まだ年端も行かぬ娘だというし、あまり無体なことをするのも良くないだろう。噂の真偽を確認する必要はあると思うが……」
「お上は本当にお優しくていらっしゃいますこと」
 鈴を転がすような感嘆の台詞は、ともすれば皮肉にも聞こえかねない響きに満ちていた。
 だが言われた帝のほうは全くそれを意に介する風もない。 
 真剣に考えあぐねている様子で、口を閉ざして思案に耽り始めている。
 女はしばしそんな帝の様子を黙って見ていたが、やがておもむろに赤い唇を開いた。
「お上、考えても御覧なさいませ。龍神の神子を騙る娘が得体の知れない力を保持しているのですよ。放っておいたらどうなるかは、火を見るより明らかではありませんか」
 幼子に諭して聞かせるように、ひとことずつ噛み締めるような言葉が女の口から紡がれる。
「何か事が起こる前に危険の芽を摘んでおくに越したことはありませんわ。それが京を守る者の務めではありませんこと?」
 言いながら、女は見上げる仕草で目の前の男の瞳を覗き込む。
 吸い込まれるように視線を合わせた帝は、女の目を見つめたままで小さく頷いた。
「そうか……おまえはそう考えるのだな、シリン」
 呟きは相手に対する返答のようでありながら、自身に言い聞かせているようでもある。
 見る者が見たら、彼の目の焦点が微妙に合っていないことを見抜いていたかもしれない。
「うむ、確かにそれは……一理あるかもしれぬな……」
 小さく、だがはっきりと帝がそう零した次の瞬間。
 女――シリンは、紅に彩られた唇を婉然と笑み崩した。

 それは美しくもあり禍々しくもある、まるで彼女そのもののような笑みだった。


 *     *     *


 固い床の上でいつの間にか眠っていたらしい。
 痛む身体を宥めながら起こすのと同時に、軽い眩暈が花梨を襲った。
(いたたた……あれ、なんかあんまり身体に力が入らない……)
 それどころか頭痛までする。
 お世辞にも良いとは言いがたい環境で一晩過ごした為かとも思ったが、単なる体調不良とはどこか違うこの感覚には覚えがあった。
(これ、穢れを受けたときの……)
 京に来たばかりの頃、四神を呪詛する穢れを身に受けて幾度かこんな感じを味わった。
 神子としての自覚が足りないと深苑に叱られ、自分が人一倍穢れに弱いことを知ったのだ。
 深苑が作ってくれる清めの造花のおかげで、今では不都合なくあちこちを出歩けるようになったけれど、あれは花弁を一日一枚使わなければ効果がない。
 昨日使った花弁は昨日で効果がなくなってしまったのだろう。
 夜が明けた今、花梨の身体は京を取り巻く穢れに否応なく晒されているのだ。

 紫姫の屋敷にいれば、毎日当たり前のように新しい花弁を使っていられたけれど。
 この状況でまさかそんなことが叶うはずもない。

 ゆっくりと身体を起こし、どうにか座る体勢を作る。
 この不調を遣り過ごすことが出来るのかどうか分からないが、それでも花梨は懸命に呼吸を整えた。
(ん……でも、前のときほどつらくないかも?)
 不思議と、まだ堪えられる程度の不調であることに気付いて小さく息を吐く。
 しばらくそのまま待ってみたが、それ以上状態が悪化することもなさそうだった。
(どうしてかな……毎日清めの造花を使ってたおかげかな?)
 大きな怨霊と戦う日に備えて、今まで決まった数の花弁を使い続けてきた。
 新しい花になってからもうずいぶんと日が経つから、その分の力が花梨の身に上手く蓄積されているということなのだろうか。
「よくわかんないけど、そう思っていていいかな。……ありがとう深苑くん、紫姫」
 改めて、自分を支えてくれていた力のありがたさを実感する。
 と同時に、こんな事態になったことで心配と迷惑をかけていることが、再び意識を苛んでいくのをはっきりと感じた。

 一晩が経って、状況は変化したのだろうか。
 それとも――何も変わらないままなのだろうか。

 良い方向へ変わったのならともかく、そうでないなら現状維持のほうがまだましだと言えるのかもしれない。
 情報から完全に遮断されていることもあって、徒に不安だけが募っていく。


 ――これからいったい、自分はどうなってしまうのだろう。


 そう思った瞬間、嫌な具合に鼓動が跳ねた。

 これからどうするべきか考えよう、などと昨日は思ったけれど。
 考えたところで道が拓けるわけではないのだと、今更ながらに気付いてしまった。  

 解放されるのを待つか、助けが来るのを待つか。

 どちらにせよただ待つこと以外、今の花梨にできることなどありはしないのだ。

(でも、助け――なんて、どうやって……?)
 誤解を解く以外に方法は無いのではないだろうか。

 そして、それが可能なのかどうかは――花梨には分からない。

(もし、誤解が解けないままだったら……?)
 その先を考えることを花梨は意図的に拒否した。
 悪い予想ほど現実になりかねない。
 慌ててかぶりを振り、無理にでも違うことを考えようとしたとき。
 不意に異変を感じて花梨は思わず身を縮めた。
「これ、って……」
 どこなのか、はっきりとは分からないけれど。
 空気に乗って微かに伝わってくる。

 呪詛――いや、違う。

(怨霊……っ!)

 幾度も対峙してきた気配だ。
 肌を刺すような独特の感覚で分かる。
 すぐ近くではないが、遠くでもない。

 おそらくは――内裏のどこかに。

(でも、今のわたしには何もできない……)
 独りで戦うことも、怨霊を鎮めることも、何ひとつ。

 ――千歳ならきっと、できるはずのことが。

(やっぱり、わたしは……)
 その先を考えに乗せるのは、やめておくことにした。
 たとえ言葉にしなくても、誰に聞かれるわけではなくても、今の心には痛すぎる。

 ――痛みを感じていられる間はまだ頑張れるのかもしれないと、自分に言い聞かせることくらいはできたけれど。


 *     *     *


 
 一日をこれほど長く感じたことが、今まであっただろうか。
 花梨が一方的に捕らえられた昨日から、ようやく丸一日しか経過してはいないのに。
 もう幾日も、こんな重い心地で過ごし続けてきたような気さえする。
 花梨がいないと分かりきっている紫姫の館へ足を踏み入れることが、こんなにも痛みを伴うものだとは。

 いない理由と、その原因とが、もっと違うものだったら。
 あるいはここまで胸を締め付けられることも無かったのだろうけれど。

 だがそれを誰かに吐き出す権利さえ有していない自分は、ただこの痛みを抱えていることしかできはしないのだ。


 そう、本当に――何ひとつ、今の自分に出来ることはない。

 改めてその事実を目の前に突きつけられて、勝真は軽い眩暈すら感じた。


 昼間は各々で解決策を見出すために動き、報告を兼ねて対策を話し合うために夕方ここで集まろうという話を聞いたのは、昨日の夜遅くだ。
 幸鷹の整然とした文でそれを知らされ、対応の素早さと的確さに思わず舌を巻いた。
 己の無力さはもう嫌と言うほど実感しているから今さら落ち込みはしないが、自嘲の念はやはり湧いてくる。

 成すべき力と術を持つ者は確かに存在して、それは少なくとも勝真ではない。

 現に今、何か有力な情報を入手することも具体的な解決策を見出すこともできずに。
 ただ他の八葉の成果を期待して待つだけの時間が無為に過ぎて行く。

 もしもあのとき、一緒に行動していたのが勝真でなかったら。


 ――事態はもっと違っていたのだろうか。


「おや、早いね勝真。やはり姫君のことを憂える気持ちは誰よりも強いと見える」
 いつもと変わらない口調なのはわざとなのか無意識なのか。
 部屋へ入ってきた翡翠は相変わらず本心の読めない薄笑みを浮かべていた。
「……皮肉なら他所でやってくれないか」
 相手をする気にならず、と言うよりまともに相手をしたら怒鳴りつけるだけでは到底足りないような気がして、そっけなく顔を背ける。
 翡翠は軽く肩をすくめただけで、それ以上の軽口を叩こうとはしなかった。
 奇妙な沈黙の中にやがて他の八葉も少しずつやってきたが、積極的に口火を切るものはいない。
 あの幸鷹でさえ、眼鏡の奥の目を物問いたげに揺らしながらも口を開く気配は一向に見せない。
 有益な情報がないのか、それとも全員が揃うまで待つつもりなのかは分からないが、表情が一様に暗いことから察するに前者の可能性が高いだろう。
「来ていないのはあと彰紋だけか」
「そうですね、やはりお忙しい方ですから……」
 いつ何を言っても不機嫌そうにしか聞こえない泰継が短く言うと、慌てたように泉水が答えた。
 意外にもイサトがそれを引き取る。
「あいつ、この中でいちばん内裏に詳しいじゃん。なんか情報を手に入れてくれてりゃいいんだけどな」
 独り言めいた呟きは決して大きくはなかったが、この場のすべてを覆い尽くすかのように染み渡った。
 だがその後に言葉を続ける者はなく、結局また元の沈黙が室内を支配していく。
 さすがに息苦しさを感じ始めた頃、ようやく部屋の外から足音が聞こえてきた。
 やや急いたような足音が徐々に近づき、やがて現れたのは彰紋だった。
 様子がどこか違うことに気付いたのは勝真だけだったのだろうか。
 もともと色素の薄い顔が殊更に青白く見え、瞳は視点を定めきれず怯えたように揺れている。
 全員の視線を一身に浴びながら小さく黙礼した彰紋は部屋へ一歩足を踏み入れたが、入口の付近から動こうとはしない。
 微かに戦慄いた唇から、消え入りそうな声が零れた。

「花梨さんの、処遇が――決まったそうです」

 そのひとことだけで、一瞬にして場に緊張が走る。
 彰紋の様子と言葉の運び方で、おおよその予測はついたような気がした。
 まだ決定的なことは何も言われていないのに、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走る。
 続く言葉を遮ろうとする意識が頭の片隅で芽生えたが、実際に口は開いてくれず、渇いた喉から紡がれる声はない。
 他の八葉も固唾を呑んで見守るだけで、動きを見せようとする者は一人もいなかった。 
「龍神の神子を騙った罪への見せしめと、不可思議な力を使われる恐れを排除するという、複数の理由から――」
 したためられた書面を読み上げるかのような、感情の篭らない口調。
 伏せた睫毛の下でゆっくりと一度だけ目を瞬き、彰紋は震える声を絞り出した。


「三日後に――処刑、されるとの……ことです」
 

(2007.06.11 Saika Hio)