果てなき漆黒の彼方に

4.


 心配するな、だとか。
 必ず助けてやるから、だとか。
 そんな言葉を優しくかけてやれたら良かったのにと、今頃になって思う。

 たとえ気休めでも、何の意味もなくても。


 ――もしかしたら嘘になってしまうかもしれない言葉だったとしても。


 *     *     *


 青ざめた顔で短い悲鳴を上げた紫姫を、深苑が脇から抱きしめた。
 これだけの人数が一堂に会していながら、はっきりとした動きを見せたのはその二人だけだ。

 あとの者――八葉のうち勝真を除く七名――は、凍りついたように目を見開いただけだった。

「冗談――を言っているわけではなさそうだね。仮にそうだとしても、甚だ性質の悪い冗談だが」
 場の空気を和ませようなどと思ったわけでもないだろうが、いつもと変わらない軽い調子で翡翠が口火を切った。
 それが合図になったかのように、瞳に炎を灯らせたのはイサトだ。
「冗談? バカ言ってんじゃねぇよ! あいつがこんなバカげた冗談でオレたちをからかおうとでもしてるってのか!」
 翡翠の言葉を受けてはいるが、視線が向いているのは勝真だ。
 真っ直ぐな眼光から目を逸らすこともできず、勝真は低く声を絞り出した。
「残念ながら本当のことだ。俺の目の前であいつは、花梨は――捕らえられた」
「っ……!」
 イサトの瞳に灯る炎が一層濃く燃え上がった。
 事実であろうと冗談であろうと、イサトにとっては十分に激昂の理由になるのだ。
 それだけ花梨に信頼を寄せ、心を許しているのであろうことが分かる。
 感情を率直に表しているのがイサト一人なだけであって、それは院側の者すべての思いなのだろう。
 彼らは既に、花梨を龍神の神子だと認めているのだから。


 ――龍神の神子の名を騙った罪で花梨が捕縛された。


 言葉にすれば可笑しいほどに短く済んでしまう出来事が、今この場にいる者に与えている衝撃は並大抵ではない。
 こんな状況が起こりうること自体、誰も予想だにしていなかったはずだ。
「ですが、まさかそんな……っ、兄上が……?」
 悲痛な声が重い空気を割った。
 握り締めた手を震わせながら、彰紋が空(くう)を虚ろに見ている。
 もともと色素の薄い頬が常より更に白く見えて、痛々しいことこの上ない。
「彰紋様、どうぞお気を確かに持ってください」
 痛ましげに眉尻を下げた泉水に脇からおずおずと声をかけられ、そちらへ顔を向けた彰紋は微かに表情を緩めた。
 だがすぐにまたそれは沈痛な色へと取って代わる。
「兄上が――帝が、そのような無体なことをお命じになるなんて……とても、信じられません」
「ああ、俺もそれは思ったんだ。いくら呪詛の件で疑心暗鬼になっているからと言って、娘一人をわざわざこんな……」
 見解の一致を見たことで幾分安堵したのか、彰紋がゆっくりと顔を上げて勝真を見た。
 顔色の悪さは変わらないが、瞳に宿る光が少しだけ戻ってきたようにも見える。
「確かに……龍神の神子を騙る娘についての噂は、一部の者たちの話の端に上ってはいたようですが……」
「噂が内裏の中である程度広まっていたのなら、それを誰かが進言したということもありえます」
 彰紋の震える声とは対照的に、しっかりとした声音で幸鷹が言った。
 いついかなるときでも冷静さを崩さないように見えるのは、やはり伊達ではないのかもしれない。
「噂と言うのはとかく無責任なものです。ましてや恐怖にとりつかれていたのでは、必死になるのも無理はない」
「……だから必死になって、噂の根源である偽の神子を捕らえにかかったっていうのか」
「それもひとつの可能性であるというだけです」
 口調はきっぱりしているのに、明言を避けるような曖昧な物言い。
 勝真の胸に微かな苛立ちが沸いたが、それを今この場でぶつけても仕方ないことくらいは判断できた。

 だから貴族は嫌なのだ――と、自分も貴族であることを棚に上げて忌々しく思う。

 幸鷹に対してではない。
 曖昧な噂を鵜呑みにして無責任な進言をしたのかもしれない、殿上人たちに対してだ。

 もちろん確証はなく単なる憶測に過ぎないが、可笑しいほどすんなりと納得できてしまうのはひとえに彼らの人間性によるところが大きいのだろう。
 末法の世に於いても自分たちだけは安住の場所を持ち、面倒なことや嫌なことはすべて下の者に押し付ける。
 己を守るためなら手段を選ばず、他者を陥れたとしても身分さえあれば大抵の追求は免れることの出来る存在。

 否――この場合はまた違うだろう。
 陥れたとさえ、彼らは思っていないはずだ。

 忌むべき相手から上手く今上帝を守ることができた――そんな優越感すら抱いているかもしれない。

 花梨やこちらの言い分など、聞いてすらもらえない可能性のほうが高いのだ。
 ぞくりと背筋に震えが走る。

 理不尽な現実に対する怒りと――恐怖とで。

「――ですがひとつ、気になることがあります」
 低く呟かれた声は決して大きなものではなかったが、水を打ったような静寂の中では異様なほどはっきりと響いた。
 幸鷹が硬い面持ちのまま言葉を続ける。
「院のお傍にいた白拍子の姿を、内裏の近くでも見かけたという情報を耳にしました」
 白拍子と聞いて場の全員が瞳に緊張を宿らせた。

 院の寵愛を受けていたという白拍子――シリン。

 何度か花梨や八葉たちの前に現れては、不遜な物言いと共に攻撃を仕掛けてきた。
 あの白拍子が帝の近くにも姿を現したとなると、確かに今回の件との関連性を疑いたくもなる。
 そういえば千歳を院の元に連れていったのもあの女だったはずだ。

 花梨を偽の神子に仕立て上げて、それから――どうしようと言うのだろう。

「……それで?」
「はっきりしたことは何も言えませんが、あの白拍子はこれまでも妙な動きをしていました。調べてみる必要はありそうです」
「お言葉ですが……事の経緯を探るよりも神子殿を救い出す手立てを考えるほうが先決ではありませんか」
 自分から意見を述べることなどほとんど無い頼忠が、珍しく口を挟んできた。
 滅多に動かない表情に、今ははっきりと険しい色が浮かんでいる。
 幸鷹は横槍を入れられたことにも意見を否定されたことにも気分を害した様子は見せず、ただ淡々と頼忠に向き直った。
「君の言いたいことは分かります。神子殿の安否が気にかかるのは私も同じだ」
 眼鏡の奥の瞳が理知を湛えて光る。
「だが院を支持する我々が表立って内裏に赴くわけにはいかない以上、外堀から固めていくしかない。神子殿が冤罪であると証明できれば、すぐにもお助けできる」
「……出過ぎたことを申しました」
 理路整然と言い含められては返す言葉もないのだろう。
 常にないほどの苦渋を滲ませながらも、頼忠はそれ以上口を開くことはしなかった。
「白拍子について調べるのだな、分かった」
 おもむろに立ち上がり、そんな短い言葉さえ言い終わらないうちに出口へ向かおうとするのは泰継だ。
 皆が一斉にそちらを見遣ったが、気にする様子もなく彼は均一な歩調で部屋を出て行った。
 誰も呼び止めなかったのはそうする必要を感じなかったのか、それとも言葉をかける機を逸しただけだったのか――あるいは両方なのかもしれないが、どちらにせよ今この場に於いてはさほど大きな問題ではなかった。
 泰継ならば何を成すべきか間違えることはないと全員がおそらく分かっているのだ。

 今、皆の心を占めているのは――ただひとりのことだけ。

 ――花梨のことだけ。

「ですが、それ以外の可能性も……無いとは言い切れないですよね。僕も、違う方面から当たってみます」
 彰紋が微かに震えたままの声で重く告げる。
 違う方面というのが具体的に何を指すのか、問おうとする者はひとりもいなかった。
 内裏の内部事情について探ることができるのは、この中では彰紋だけだろう。
 それに頼るしか術がないことも分かっている。
「……すまない」
 今、他に言える言葉を勝真は持っていなかった。
 本当は彰紋だけでなく、この場の全員に言わなければならないはずの言葉。
 彰紋は驚いたように勝真を見てから黙したまま首を振り、他の者は何も言わなかった。

 ――誰ひとりとして、勝真を責めようとはしない。

 それが逆に痛くてたまらなかった。
 だがこの痛みこそが、勝真が受け止めなければならない枷なのだろうとも思う。

 皆が沈鬱な表情を隠そうともしないまま、散り散りに屋敷を後にする。
 いつもなら、帰るときには花のような笑顔が見送ってくれるのに――と考えそうになって、慌ててかぶりを振った。

 そんなことを思う資格すら、ありはしないのだから。

 と、部屋の隅を見遣ると、一人だけ出て行こうとせずに佇んだままの者がいた。
 頼忠だ。
 自分よりも上の位の者が全員出て行くまでは動くべきではない、とでも考えているのだろうか。
 先刻珍しく露にしていた感情は、もうすっかり見えなくなっている。
 その無表情を見ていたらいつぞやの遣り取りを思い出し、気付いたときには口が勝手に言葉を紡いでいた。
「何も……言わないのか?」
 何があっても必ず守れと――それだけは誓えと言われたあのとき、勝真は答えたはずだ。
 言われるまでもないことだと。
 だが現実はどうだ。
 みすみす目の前で――何もできずに。
 頼忠はちらりと目を向けただけで、やはり何も言わない。
 普段ならばここで頭に血が上るところだが、さすがに今日はそんな感覚は沸いてこなかった。
 何かに突き動かされたかのように、ただ言葉だけが零れていく。
「偉そうな口を叩いておきながら、俺はあいつを守れなかったんだぜ」
 己の唇の端が不自然な形に歪むのを、勝真ははっきりと感じていた。
 だが頼忠は、あからさまに挑発めいた物言いにも態度を変えることはなかった。
「……今はあのお方を救い出すことだけを考えるときだ」
 抑揚のない声でそれだけ言って頼忠は背を向けた。
 怒りも蔑みも、他のどんな負の感情も、その響きから感じ取ることはできなかった。
「……っ」
 握り締めた拳の中に、爪の先が鋭い痛みを載せる。
 振り向くことも立ち止まることもなく去っていく後ろ姿を見ながら、勝真は懸命に堪えた。

 ――自分のあまりの小ささを笑い飛ばしたくてたまらない、奔流のような衝動を。


 *     *     *


 手荒な真似、というのが殴打のような身体的苦痛を与えることを差すのなら、それをしないという言葉は確かに守られていた。
 もとより抵抗するつもりなどありはしなかったので、言われるまま黙って従っていたおかげだろうか。
 居並ぶ男たちに手を上げられることもなく、全身を拘束されることもなく、花梨の身柄はただ牢へと送られただけだった。
 手に枷は嵌められているが、手首を痛めるほどの締め付け方というわけでもない。
 ある意味中途半端とも言える状況の中、いろいろと考えを巡らせる余裕が許されているのは良いことなのかどうか判断のつきかねるところだ。
(どうして……こんなことになっちゃったのかな)
 冷たい壁を虚ろに見遣りながら、ぼんやりと思う。
 まだ状況についていけていない部分が大きくて、何を基準に物事を考えたらいいのか分からなかった。

 ――偽の龍神の神子。

 花梨を捕らえた武士の男は苦々しい声ではっきりとそう言った。
 思い出すたび身体中を駆け巡る震えを、止めることができない。
(わたしは、偽者……)
 自分の言葉で繰り返した途端、今度は胸に痛みが走った。
 花梨は花梨にできることを精一杯がんばってきたつもりだったけれど。

 千歳が本物で、花梨は――偽者。
 未だ、そう認識されているのが現実なのだ。

 ――『待ってくれ。こいつは――あんたたちが思っているような奴じゃない』

 ふと脳裏に一人の声が蘇る。
 あの緊迫の中で、さながら一筋の光のようにも感じられた言葉。
(勝真さん……)
 あれだけの武器を突き付けられた中でも、花梨を擁護しようとしてくれた。
 神子だと信じていないのは勝真も同じなはずなのに。
 あのとき彼が言いかけた口を閉ざしたのは、武力に屈したせいではなかったようだった。
 不自然に途切れた言葉が物語っていたのは――説明のできない事柄に対する苛立ちともどかしさ、のように見えた。
 無理もないだろう。
 呪詛の解除が疑われる原因になるなど考えも及ばなかったのだし、あの状況で花梨が龍神の神子であることを主張したところで、それこそ泥沼だ。

 だから、あの場で誤解を解く術は――なかったのだろうと思う。
 それはきっと、どうしようもないことだったのだ。

 奇妙なほど冷静にそんな判断をしている自分に気付いて、微かな驚きを感じる。
 落ち着いているわけでは決してないが、恐慌状態に陥っているわけでもない。

 ――これからどうしたらいいか、考えることくらいはできそうだ。

 考えたからといってどうなるものでもないのかもしれないが、事態が悪化しない以上はこの精神状態を保っていられそうな気がする。
(でも紫姫は心配してるだろうな。深苑くんも怒ってるだろうし、八葉のみんなにも迷惑かけちゃって……)
 皆の顔を順に思い浮かべていくうちに、段々と気持ちが下降していく。
 こんな事態に陥ってしまったことが、とにかく申し訳なくてたまらなかった。

 ――せめて、勝真が苦しんでいなければいいのだけれど。

 花梨と同じくらい――もしかしたらそれ以上に、辛さを抱えてこの夜を過ごしているのではないだろうか。


 ――彼は優しい人だから。


「かつざね、さん……」

 小さく呟いた途端、胸に走る小さな疼き。


 目を上げた先に広がるのは――ただどこまでも続く、漆黒。

 
(2007.04.20 Saika Hio)