果てなき漆黒の彼方に

3.


 思っていたよりずっと、状況は悪化していたのかもしれない。
 自分なりに危機感を抱き、花梨にもそれを伝えていたつもりだったけれど。
 それすら甘かったということが今、否応なく目の前に突きつけられている。
 周囲を取り囲む武士たちのどこか常軌を逸した様を見て、勝真は胸中で舌を打った。

 どうにか遣り過ごす術はあるだろうか。
 いや、あるかないかではない。
 探さなければならないのだ。

 彼らの標的は自分ではなく、花梨だ。
 花梨だけを上手く逃がすことができれば、あとはどうにでもできるだろう。
 幸い、武士たちの注目は勝真には向いていない。
 さりげなく花梨を背に庇いながら、息を殺して勝真は鋭く隙を伺った。
「あの……わたしのこと、ですよね……?」
 庇われたことに気付いたのか、瞬だけ勝真を見上げた花梨がすぐまた武士へと向き直って果敢に口を開いた。
 即座に届く距離ではないにしろ、明らかに逃げることはできない位置で鋭利な刃物が何本もこちらを向いているこの状況。
 声が震えていなかったことを褒めてやりたいほどだ。
 だが統率者らしき男は全く心を動かされるような様子もなく、不遜に眉を吊り上げた。
「おまえ以外に誰が居る? 今しがたの怪しげな光を知らぬとは言わせんぞ」
「え?」
 言われたことが予想外だったとはっきり顔に書いて花梨が目を瞬く。
 だが勝真の胸には、もう少し違った思いが渦巻いていた。

 光。
 勝真たち八葉には清らかなものであると一目で分かるそれを、目の前の男たちはどのようなものだと思っているのか。

「光? 今の、あれは――」
「怪しげな術を使う童のような小娘。まさにおまえのことだ。今の光こそが呪詛だな? 恐れ多くも帝のお膝元で大胆不敵よの!」
「ちょっ――ちょっと待て、こいつは……っ」
 男の見解は明らかに事実の真逆を指している。
 堪りかねて身を乗り出した勝真へ向けて、武士たちの構えた獲物が一歩近づいた。
 それはまるで誰かから合図でも貰ったかのように、恐ろしいほど呼吸の揃った動作だった。
 恐れを抱くことを恥じるくらいの矜持は勝真にもあるが、それでも気圧されて一瞬行動が止まる。
「確か……京職少進殿であったな? 帝を信奉する貴君とて、罪人を庇い立てするならば容赦せんぞ」
「なっ――」
 庇い立てするわけではない。
 事実を述べようとしているだけだ。
 今の物騒な牽制がこけおどしではないことも分かってはいるが、だからと言ってそのまま口を噤むことなどできるはずもない。
「待ってくれ。こいつは――あんたたちが思っているような奴じゃない」
 明確な固有名詞をどこまで使ったらいいのか判断しきれず、つい曖昧な物言いになるのが歯痒い。

 それは勝真自身が未だ花梨を龍神の神子だと信じ切れていないからなのか、それとも――もっと何か違う理由なのか。

 自分でもはっきりとは分からなかった。

 ――こんな局面さえすんなりと打破できない自分自身に、ただ苛立ちだけが募っていく。

「ほう、では何だと? 今の光が何であるのか、説明を聞かせていただこうか」
 勝真の歯切れの悪さだけが理由ではないのかもしれないが、説得力はほぼ皆無だったようだ。
 最初から向けている猜疑の念を覆すつもりなど毛頭ないと、揶揄するようなその目が言っている。
 疑念が晴れなければどうなるのかなど、考えるまでもないだろう。
 肩越しに一瞬だけ走らせた視線に少女の細い体躯が映る。
 幼さの残る顔が微かに青ざめて見えたのは、勝真の気のせいではないはずだ。
 ぎり、と奥歯を噛み締める嫌な音が耳朶に響く。

 花梨に忠告してやれるくらいには『分かっていた』つもりだったけれど。
 結局は勝真自身も、本当の意味では分かっていなかったのと同じだったのだ。

 この武士の数の多さを見たときに察するべきだった。
 勝真たちの様子を遠巻きに伺いながらも呪詛を解除する一連の動きを止めもせずにただ見ていたのは、決定的な瞬間を待っていた為だ。

 まさか呪詛の解除を正反対の行為に受け取られるなど、考えも及ばなかった。

 己の間抜けさが今更ながらに腹立たしくて堪らない。
「説明できぬというのであれば、余計な口出しは控えていただこう。我々はそちらの娘にしか用はない」
 まがりなりにも貴族である勝真は目の前の武士たちより上の位であるはずなのだが、この男に最早そういう意識は殆ど無いようだ。
 もともと慇懃無礼だった物言いは、既に丁寧さを取り繕うことすら考えられていない。
 そしてその言葉のとおり、男の視線は勝真を通り過ぎて後ろの花梨へとまっすぐ注がれた。
「娘、我々と共に来てもらおう。念のため言っておくが、よもや拒否できるなどと思ってはいまいな?」
「え……」
 鋭い眼光と語気に、逆らえるような雰囲気は微塵もない。
 花梨もそれを感じ取っているのだろう。
 小さく息を呑んだだけで、その唇から言葉は紡がれなかった。

「恐れ多くも龍神の神子の名を騙り、帝に――京に仇なす不逞の輩。見つけ次第捉えよとの帝からの仰せだ」

 朗々とした男の言葉に瞠目したのは勝真だった。
「なんだと! これは帝の直々の命なのか? まさか帝ともあろう方が、娘一人にこんな――」
「ただの娘とは違う。放っておけばどんな脅威を撒き散らすか分かったものではないのだからな。至極賢明なご判断だ」
 じろりと勝真を睨めつけながら誇らしげに言い放つ男。
 自分の口に乗せた内容にいささかの疑問も抱いてはいないのが口調からはっきりと読み取れた。
「おとなしくしろ。黙って従えば、差し当たって手荒な真似はしない」
 暴れているわけでも騒いでいるわけでもない花梨へ向けていっそ滑稽とすら言える台詞を放ちながら、男は一歩近づいてきた。
 それが合図になったかのように、周囲の武士も一斉に一歩踏み出してくる。
 小娘一人捉えるにはあまりにも仰々しすぎるその様は、やはり花梨の力を恐れてのことなのだろうか。
 花梨が抵抗する様子を見せないことでやや戸惑いの表情を浮かべている者も見える。
「勝真さん――」
 不意に、肩の後ろで小さく声が響いた。
 普段のそれとは比べ物にならないほどか細く、震えているのもはっきりと分かった。
 途端、刺すような痛みが勝真の胸を襲う。
 視線を向けようとしたのと、続く言葉が紡がれたのが同時だった。
「ごめんなさい――勝真さん」
「なっ――」
 耳がおかしくなったのかと、一瞬本気で思った。
 何故この場で――この期に及んで、そんな言葉が出てくるのか。
「おまえ、何を言って……」
「勝真さんはちゃんと教えてくれてたのに――なのにわたし、分かってるつもりでぜんぜん分かってなかったんですよね」
 考えを読まれたのかと思うほど、勝真自身が先刻考えたこととそれはまったく同じ内容だった。

 ――逆に言われると、どうしてこうも違う意味合いに聞こえてしまうのだろう。

「だからこんなことになっちゃって……いつも迷惑ばっかりかけて、本当にごめんなさい」

 違う。
 そうではない。

 伝えたいことをどんな言葉で形にしたらいいのか、悩んだのはそれほど長い時間ではなかったはずだ。
 だがそれを実際に口に乗せるよりも、花梨が言葉を次いだほうが早かった。
「また、迷惑かけてしまうけど……でも勝真さんにしかお願いできないから、ごめんなさい――お願いします」
「……?」

「紫姫と、深苑くんと、八葉の――みんなに。こんなことを伝えてもらわなくちゃいけなくて――本当に、ごめんなさい」

「………っ!」
 頭を何かで激しく殴られたような感覚。

 何故。
 こんなときにまで――こんなふうに。

 計り知れないほど愚かなのか、それとも――逆なのか。

 返事に窮して黙り込んだままの勝真を怒っていると勘違いでもしたのか、ごめんなさい、と震える声がもう一度響く。
 謝る必要など、どこにもないのに。
 そうしなければならないのは花梨ではない。

 ――だから、謝るな。

 けれどやはりどうしても言葉になってくれそうにはなく、代わりに勝真は、ただはっきりと頷いた。

「ああ――分かった」

 今の自分にできることなどたったそれだけにすぎないのだと、分かりたくもないことが残酷なほど明確に胸へと落ちてくる。
 勝真の返事を確認した花梨は、意外なほどしっかりとした足取りで勝真の後ろから武士のほうへと歩み出ていった。

 ――勝真のほうを振り返ることなく。

 花梨が統率者の前で立ち止まると、相変わらず長槍を構えたままの武士たちの中から一人が縄を持って出てきた。
 統率者がそれを受け取り、花梨の両手を縛る。
 花梨にまったく抵抗の意思がないことを見て取ったらしく、いささか面食らった様子が伺えた。
 けれど止める者も諌める者も誰一人おらず、内裏の奥へと花梨をいざなって彼らは消えていった。

 勝真が足を踏み入れることの叶わない場所。

 ――この先、一生手が届くことはないかもしれない場所。

(っ……冗談じゃない……!)
 握り締めた拳が小刻みに震える。
 締め付けられるように痛む胸に浮かぶのは、つい今朝まですぐ隣にあったあどけない笑顔。
 それが、こんな不条理な形であっさりと奪われるようなことが起こり得るものなのか。
 夢か幻であったならどんなにいいだろうと――考えたのはほんの一瞬。
 逃避に何の意味もありはしないと、我に返るだけの理性はまだ残っていた。

 花梨に頼まれたことを、成さなければならないのだ。

 いや、たとえ頼まれなかったとしてもそれが自分の役目であることは分かっている。
 隠せるようなことではないし、できるだけ早く皆に伝えて今後のことを話し合わなければならないだろう。

 ひどく痛みを伴う行動だ。
 だが、耐えなければならない。


 ――そんな感情を抱く権利すら、今の勝真にありはしないのだから。


(2007.03.21 Saika Hio)