果てなき漆黒の彼方に

2.


「お聞きになりましたかな、龍神の神子がもうひとり現れたという噂」
 殿上人たちが優雅に集う中、おもむろに一人が口火を切った。
「なんでも、院を苦しめていた呪詛を見事祓ってみせたのだとか」
「ほう、院御所の奥で祈りを捧げている神子ではなく?」
 皆その話題には興味があるのか、身を乗り出すようにして話に加わろうとしている者もいる。
 と、一人が訳知り顔の口元に杓を当て、得々と語り始めた。
「あちらの神子とは別人らしいですぞ。聞く所によると、神子というにはあまりにそぐわぬ童のような風貌だとか」
「それは斬新ですな」
 幾人かのくぐもった笑いが小波のように広がっていく。
 彼らにとっては直接の関係がないからこそ、無責任に話題にすることができるのだろう。
「ですがこのような話も聞きましたぞ。その娘こそが帝を呪詛している、と」
「ええ、私もそう聞きましたよ。龍神の神子のふりをして、その名を騙る不届きな娘だと」
「なんと恐ろしい……」
「しかし辻褄は合いますな。祓われたのは院の呪詛のみ。帝は未だ苦しんでおられるのだから」
 たった今この場の空気を和ませていた微かな笑いの波は、もう跡形も無く消えていた。

 後に残ったのは不気味なまでの静寂。

 それを破ったのは、最初にこの話を切り出した男だった。
「もしそれが本当なら、彼奴は今後も帝のお傍近くに顔を出すやもしれませんな」
「おお、そうですな。もしそうなったら我らはどうすれば?」
「何しろ呪詛を行うことのできるような娘ですぞ。一筋縄ではいきますまい」
 権力と財力しか頼みにする物のない上級貴族たちは、得体の知れない力から己が身を守る術など持たない。
 一人の身震いが次々に伝染したかのように、その場に居合わせた者は皆一様に身体を強張らせた。
「――警備を、強化するより他にないでしょう。殊に朱雀門の近辺を中心に」
 ぽつりと呟いた誰かの言葉が、おそらくその場にいた全員の心情だったのだろう。
 身を守る術を持たない者はその技術に長けた者に身を委ねるしかないのだ。
「そうですな。怪しげな力を使う童のような娘、でしたか。そのような輩に十分な警戒を払うよう、警護の者どもにくれぐれも言い含めておかねば」
 また違う誰かの言が合図になったかのように首を頷かせる男たち。
 ようやく彼らの間に安堵の空気が流れ始めた。

 ――誰もその提案に異を唱えるどころか、疑問を抱こうとする者すら一人もいなかった。


 *     *     *


 気にならないと言えば嘘になる。
 勝真の言葉は、認められていないことを改めて念押しされたのと同じなのだ。
 だがそれも仕方ないのかもしれない、とも思う。
 誰かの信頼を得て認めてもらうことがどれほど困難で貴重かは、分かるつもりだから。

 認められるために相応の行ないが必要なのは当然のことだ。
 ましてや龍神の神子は京を守り、救う存在だという。
 簡単に信じてもらえなくて当たり前なのだろう。

 だから必要以上に落ち込まないようにしよう。
 今までどおり、できることを精一杯やるしかない。
 床の中で目だけを開いたままぼんやりとそんなことを考えていた花梨は、自分の考えに鼓動が跳ねるのをはっきりと感じた。
(べ、別に、認められたいからがんばるとか、そんなんじゃないけど……)
 誰に見られているわけでも無く、ましてや聞かれているわけでもないのに、途端に居た堪れない心地に襲われて小さく身が震える。
 それではまるで見返りを期待した偽善だ。
 そんな歪んだ心持ちで信頼を得ようなど、そもそも間違っているのかもしれない。
(それに……協力してもらえてるのは本当だもんね)
 信じていなくても、認めていなくても。
 同じ目的のために力を貸してくれている。
 それをありがたいと思うのは本音だし、彼に告げた言葉も嘘ではない。
 ならばせめて彼らの心に少しでも応えられるように、精一杯やるだけだ。
(わたしにできることを――できる限りがんばろう。それしか、ないから……)
 今更のように決意を固め、ゆっくりと起き出す。
 最も基本的なことであるのと同時に最も難しいことでもあるのかもしれないが、それしかできないのは事実だった。
 

 *     *     *


「神子殿、お顔の色が優れないようですが大丈夫ですか」
 常と変わらない無表情で問われ、それが気遣いであると気付くのに数秒を要した。
 頼忠はそれでも動じず静かに花梨の返答を待っている。
「あっ、はい、大丈夫です! 元気ですよ」
 慌てて浮かべた作り笑いにはかなり無理が表れていただろうと思う。
 だが頼忠はそれを指摘することもなく、ただ小さく頭を下げた。
「そうですか。ならば良いのですが……」
 良いと言いつつ、その顔はとてもそうは見えない。
 心配をさせてしまっただろうかと思うと申し訳なさが胸に走る。
 案の定、頼忠は硬い面持ちのまま言葉を続けた。
「神子殿は慣れぬこの世界で十分すぎるほどのお力を尽くしておられます。お疲れになることもありましょう。くれぐれも、ご無理はなさらぬよう」
 抑揚のない声音とは裏腹に、満ちているのは限りない優しさ。
「あなたは我々にとってかけがえのないお方。誰よりも大切な方だと思っています」
「よ、頼忠さん……」
「我々――院を支持する八葉は皆同じ思いであることを、お心に留め置いて頂ければと思います。必ずあなたをお守りいたしますゆえ」
「え、ええと……あの、ありがとうございます。すごく嬉しいです」
 いささか気恥ずかしい心地の方が勝るような気もするが、それでも本心から花梨は深々と頭を下げた。
 無口な頼忠が気遣う言葉を口にしてくれただけでも嬉しいのに、その上ここまではっきりと存在を肯定してもらえるなんて。ちょうど心の弱い部分が表面化していたときだっただけに、驚くほど深く心に染みる。

 ――信じてくれる人もいる。

 気遣って、心配してくれる人も。
 誰からも認められていないわけではないのだ。

 その事実がこんなにも、胸を温かいもので満たしてくれる。

「いちいち暑苦しい奴だな。ことさら口に出して言うことでもないだろう」
 穏やかな空気を分断するかのような声が冷たく響いたのは、次の瞬間だった。
 思わず振り向くと、ちょうど部屋に勝真が入ってくるところだった。
 ここ最近はずいぶん柔らかい表情をしてくれるようになったと思っていたけれど、今の彼の面持ちはひどく硬い。
 いや、硬いというよりは――嫌悪を露にしている、と言った方が正しいのかもしれない。
 但しそれは花梨にではなく、花梨の隣にいる頼忠へとまっすぐ向けられていたのだが。
「俺たちだって一緒に行動するときはちゃんとこいつを守るさ。嫌味ったらしく念を押されるまでもない」
「……」
「か、勝真さん、あの――」
 険悪な空気を少しでも消そうとわざと明るく声を上げてみたが、勝真は頼忠を見たままあからさまに眉根を寄せた。
「なんだ? 何か言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ」
 挑発めいた物言いにも頼忠は黙したまま口を開く様子はない。
 それがますます勝真を苛立たせているのは花梨の目にも明らかだったが、頼忠自身が気付いているのかどうかは分からなかった。
「相変わらず何を考えてるのか分からない不気味な奴だな。どうせ、おまえらのミコドノを信じてもいないくせに当てにするなとでも言いたいんだろうが」
 するとそこで初めて頼忠の眉がぴくりと動いた。
「……それを判ずるのは私ではない」
「なに?」
「この方がそれを承知しておられるのなら、私に口を挟む権利はない」
 静かでありながら筋の通った反論を受けて、逆に勝真が気圧されたように口を噤む。
 花梨も驚いて隣を振り仰いだが、頼忠の視線は鋭く勝真へ注がれたままだ。
「帝の呪詛の件に我々が関われない以上、神子殿が行動を共にするのがそちら側であるのは当然だ。それについて異を唱えるつもりはない」
「――ふん」
「だが――何があっても必ずお守りする、そのことだけは誓ってもらわねば困る」
 今度は勝真もそれを暑苦しいと切り捨てることはしなかったが、取り付く島もないような冷たい口調は変わらなかった。
「言われるまでもない。一緒に行動していないときのことまで仕切るのはやめてくれ。不愉快だ」
「……すまない」
 素直に謝罪されたことでそれ以上の言及をする気が失せたのか、勝真はようやく花梨のほうを向いた。
「どうするんだ、今日は。そいつと出かけるんなら俺は帰らせてもらうが」
 いつもよりも声の響きが低く感じるのは、たった今の遣り取りの名残だろうか。
 気後れする心はあったが、それを抑えて花梨はまっすぐに勝真の目を見返した。
「いえ、あの、呪詛のことをまだいろいろ調べないといけないし……一緒に出かけてください、勝真さん」
 それから頼忠に向き直り改めて頭を下げる。
「頼忠さん、せっかく来てくれたのにごめんなさい。まだ帝の呪詛については、ほとんど何も分かってなくて……」
「私のことをお気になさる必要はありません。どうぞお気をつけて」
 勝真と会話していたときとは比べ物にならないほど穏やかな声で言う頼忠。
 傍らで勝真は面白くもなさそうにそれを見ている。
「じゃあ、支度をしてきます。少し待っててもらえますか?」
「ああ」
 言い置いて隣の部屋へ向かう。
 二人がそれぞれ複雑な表情でこちらを見ていたことには気付いたが、あえて追求するのはやめておいた。


 *     *     *


 それから数日かけて、呪詛についての手がかりはあらかた突き止めることができた。
 大元となる怨霊が仕掛けられている場所も判明したが、穢れに弱い花梨が清めの造花を使って力を溜めるまで戦いに赴くことはできない。
 だからその間はこれまでどおり京のあちこちを回って土地の力を高めたり、まだ残っている小さな呪詛を見つけて浄化したりという行動を繰り返していた。
「しかしおまえも結構やるもんだな。本当に呪詛の手がかりを突き止めちまうとは……まあ、院の呪詛を払ったのもおまえなんだから、当然と言えば当然か」
 すっかり気さくな表情で接してくれるようになった勝真が、愉快そうに笑う。
 こんな笑い方もできる人だったのだと驚くのと同時に、やはり気持ちの大部分を占めていくのは嬉しさだ。
 自然に花梨の頬にも明るい笑みが刻まれていく。
「そんなことないです。勝真さんや他のみんなが協力してくれたからですよ。わたし一人じゃとても……」
「……おまえ、そういうところは天然なんだな」
「え? 何がですか?」
「いや、いい。こっちの話だ」
 何のことを言われたのか分からないままだが、それ以上答えてくれるつもりはないらしい。 
 はぐらかされたことは気になったが勝真の表情は明るいままだったので、悪い意味ではないのだろうとだけ勝手に解釈しておく。
「でも、まだ細かい呪詛がたぶんあちこちに残ってると思うんです。そういうのもちゃんと浄化できれば、土地を清めることにもなりますよね」
「そうだな、確かにそのとおりだが……あまり無理をしすぎるなよ」
「大丈夫ですよ。呪詛は触れるだけで浄化できますから」
 そんな話をしながら辿り着いた先は朱雀門だ。
 以前にも何度か訪れたことのある場所だが、一歩足を踏み入れた途端に微妙な違和感に襲われた。
 風に混じって微かに流れてくる呪詛の気配。
 それも違和感と呼ぶべきなのかもしれないが、花梨が感じたのはそこではなく。

 警護の武士がやたらと大勢いるような気がするのだ。

 内裏へと直結する場所なので以前来たときにももちろん何人かの武士はいたが、明らかにそのときより人数が多い。
「……なんだかやけに警備の数が多いな……何かあったのか?」
 同じ違和感を感じたらしい勝真が眉をひそめて率直に呟く。
「そうですね、やっぱり呪詛のこととかで警戒してるのかも」
「ああ、そうかもしれないな」
 確かに花梨たちが門をくぐった途端、武士たちの間にさっと緊張の走る様子が伺えた。
 外部から訪れる者に対して、これまでより一層の警戒を義務付けられているのかもしれない。
「これだけじろじろ見られている中で動くのも気が引けるが……どうだ、呪詛の気配は感じるか?」
「はい、小さいですけど確かにあります――こっちです」
 入り口から見て左手のほうの木立を指差し、同時に足を向ける。
 一本の木の根元から感じるのは、紛れもない呪詛の気配だ。
 他の場所で発見したものに比べるとひどく小さくて些細な波動しか発してはいないが、どのような大きさであろうと呪詛は呪詛だ。

 とにかく触れれば浄化できる。

 ただその一心でしゃがみこんだ花梨は、警備の武士たちが一様に緊張した面持ちでこちらを見ていることに気付かなかった。

 勝真と二人で根元の土を慎重に掘り返していく。
 やがて姿を現した呪詛は、これまでにも見たことのあるものとさほど変わらない見た目をしていた。
 勝真が掘り出してくれたそれに指を伸ばし、触れる。
 一連の行為には迷いも恐れもなく、ただその一瞬で終わると何の疑いも抱いてはいなかった。
 事実、呪詛は花梨が触れた刹那に目映い光と共に霧散した。
 幾度も目にしてきた光景だ。

 だが光が消え、ほっと安堵の息を吐き出した――そのときだった。

「いたぞ!」
「間違いない、この娘だ!」 
「逃がすな、捕らえろ!」
 それまで張り詰めた緊張感を纏いながらも沈黙を守り続けていた武士たちが、一様に色めき立ってこちらへ向かってくるのが見えた。手にした長槍を思い思いに構えて憤怒と緊迫の形相で迫り来る彼らを、花梨も勝真もただ驚いて見遣ることしかできない。
 状況についていけない二人を武士たちが取り囲むのに要した時間など、ほんの瞬き数回ほどのものでしかなかった。
 やがて武士たちの中でも年嵩の――おそらく統率者的な立場の――男がゆっくりと口を開いた。

 ――勝真のほうには目もくれず、ただまっすぐに花梨だけを睨み据えながら。

「ようやく現れたな、偽の龍神の神子」


(2007.02.11 Saika Hio)