果てなき漆黒の彼方に
1.
よろしくお願いしますと言って頭を下げた娘は、ひどく小さくて頼りない存在にしか見えなかった。
これが本当に、院を呪詛していた怨霊を退けるような力を持つ存在なのだろうか。
「いや、面倒ごとを頼んでいるのはこっちだしな」
「そんなことないですよ。わたしも帝を呪詛する怨霊を何とかしたいって思ってましたし、協力してもらえて嬉しいです」
何のためらいも見せず、曇りのない笑顔で言う目の前の娘。
どちらが頼みごとをしている立場なのか分からなくなりそうだ。
ましてやこちらは、彼女を龍神の神子だと認めるつもりは今のところ無いと明言しているのに。
八葉だと言われた者のうち、院を支持する四人からは既に神子であることを認められたと聞いている。
崇められ持ち上げられてお高く止まっているかと思いきや、京の町で出会ったときと変わらず屈託無く接してくるのは意外だった。
だから、少しだけ思った。
龍神の神子だとか八葉だとか、そういう話を信じるかどうかはまた別としても。
――この娘個人と関わっていくのは悪くないのかもしれない、と。
* * *
いつも見回りをするときは一人だ。
だから今、隣を歩く相手がいることにひどく不思議な感覚を覚える。
「勝真さんはいつもこのあたりの見回りをしてるんですか?」
なにやら嬉しそうに瞳を輝かせながら隣で花梨が問う。
こちらを見上げながら、しかも勝真の歩幅に合うよう少し早足で歩いているから足元がいささかおぼつかないが、本人は気にする様子はない。
「このあたりだけじゃない。いろいろなところを見て回るさ。京はこれでもけっこう広いからな」
さりげなく速度を緩めながら返すと、花梨は心底感心したように目を見開いた。
「すごいですね! じゃあ勝真さんは京のいろんな場所について詳しいんですね」
「……」
もし京に住む他の誰かから同じことを言われたら、皮肉か当てこすりだとしか思えず最悪の気分になっていただろう。
だが今は何故かそういう心地にはならなかった。
あまりにもまっすぐすぎる言葉を、敢えて穿った意味に捉えることができなかったせいだろうか。
「いいから、ちゃんと前を見て歩け。京の町に異変が起きていないか調べて、呪詛の手掛かりを掴むんだろ?」
返事の代わりにそう言いながら頭を軽く小突いてやると、花梨は驚いたように肩を竦めたが怒りはしなかった。
それどころか途端に表情を引き締めて辺りを見回している。
「あ、はい、そうですね。……うーん、でも特に変わったところはないような……」
「そうだな……何も感じたりすることはないのか? 具合が悪かったりはしないか?」
今まで呪詛を見つけたときには花梨が穢れを受けて具合を悪くしたと聞く。そうならないように気をつけていてやらなければいけないとはもちろん思うが、もし本当にそうなった場合に勝真ができることはあるのだろうか。
「はい、今のところは何も……町の人にお話を聞いたりした方がいいんでしょうか?」
確かに、道行くものたちの間に異変めいたものは感じない。
ここは庶民の暮らす場だから皆が明るい表情でいるというわけではないが、それでも日常の穏やかな空気が流れていると勝真にも分かる。そんな中で、異変が起きているかどうかなど尋ねては徒に不安を煽ることにしかならないだろう。
「少し待て。俺がそれとなく聞いてみるから」
世間話のふりをして話を向ければ、ある程度のことは聞けるはずだ。
花梨を制して背の後ろへやりながら、勝真は近くにいた老婆に声をかけてみた。
「すまない、少し話を聞かせてもらってもいいだろうか」
老婆は胡散臭そうに勝真を一瞥したが、立ち去ろうとはしなかった。
顔を見ただけで逃げられる場合もあることを思えば、破格の対応と言える。
「最近は、特に変わりはないか? 何か困っていることがあれば聞かせて欲しい」
勝真の問いにすぐには答えず、老婆はじろじろと不躾な視線を投げかけてくる。
やがて何かに気づいたようにその眉が少しだけ動いた。
「……ああ、たまに見回りをしてる京職の兄さんか。おかげさまで良くも悪くも変わりはないよ」
反応が悪かったのは、どうやら視力が弱いせいらしい。
だが勝真が誰であるのか理解しても特に態度を変えないでいてくれたのは、素直にありがたいと思った。
「そうか、ありがとう」
あからさまな敵意こそ持たれてはいないかもしれないが、和気藹々と世間話を出来るほどの間柄でもない。
このあたりに異変が起きていないことが分かればそれで良いのだ。
そう思い、短く礼を告げて立ち去ろうとすると、老婆が細い目をますます細めて顔を近づけてきた。
「あんた、人を連れてるなんて珍しいね。いつもは一人なのに」
遠慮のない視線は既に、勝真の後ろの花梨に注がれている。
いきなりの展開に花梨が身をすくめたのが気配で分かった。
「え? ええと、あの――わたし、は……」
名乗ろうとしたらしいのは分かったが、しかし声は不自然に途切れてそのまま消えた。
肩越しに見遣ると、やや俯いた表情が必死に言葉を探しているのが見て取れたが、勝真はそれを待たずに口を開いた。
「……ああ、ちょっとな。ついでがあって、今日は少し付き合ってもらっているんだ」
当たり障りのない返事を曖昧に返すと、老婆はさして興味もない様子で再び花梨を見た。
「そりゃご苦労なことだね」
労いとも皮肉ともつかない言葉を残して老婆が踵を返す。
黙ってそれを見送り、やがて姿が見えなくなると勝真はおもむろに歩き出した。
「行くぞ。特に異変が起きていないなら、今日はもうこのあたりを見回る必要もないだろう」
「あ、待って下さい勝真さん」
急に歩き出した勝真の後を慌てたように花梨が追ってくる。
その声は先刻の歯切れの悪さが嘘のように、いつもどおりの快活さに満ちていた。
* * *
「……結局、今日も特に手がかりは得られなかったな」
紫姫の屋敷へ花梨を送り届け、少し気が緩んだ拍子にそんな言葉が零れた。
「そうですね、でも京の町に異変が起きてないのはいいことじゃないですか?」
「まあ、そうとも言えるが」
花梨らしい意見だ。
まだ出逢ってから幾日も経っていないのに、この娘がどんな風に物事を捉えるのかなんとなく分かるのは何故だろう。
「あの、勝真さん――さっきはありがとうございました」
なにやらいきなり改まって頭を下げる花梨。
何のことを言われているのか一瞬分からずその顔を注視してしまったが、先刻の老婆との遣り取りのことだろうと合点がいった。
「別に。礼を言われるようなことは何もしていないぜ」
本心からそう思ったのだが、花梨はどうやら違う考えだったらしい。
「そんなことないですよ! 何て答えたらいいのか分からなかったから、すごく助かりました」
「まあ、何があったのですか?」
花梨の隣にいた紫姫が可愛らしく小首を傾げて問う。
「京の町の人にね、勝真さんが人を連れてるなんて珍しいって言われて。どういう関係だって言えばいいのかちょっと悩んじゃったんだ」
「まあ……」
頬に指先を当て、どこか傷ついたような顔になる紫姫。
その表情の変化の理由は勝真にも予測がついた。
――龍神の神子だと名乗れば良かったのに。
彼女はそう思っているのではないだろうか。
「――おまえあのとき、神子だってことを名乗ろうとは思わなかったのか?」
深く考えるより先にそんな問いが滑り出ていた。
わざと意地の悪いことを言っていると思われるかもしれない。
だが花梨は特に気分を害した風もなく、少し考える様子を見せてから口を開いた。
「ええと……なんとなくですけど、あの場ではそう言わない方がいいような気がして……」
勝真が目を瞠ったのとほぼ同時に紫姫も弾かれたように花梨を見ていた。
「神子様、何故そのような……!」
「賢明な判断だな。一応それなりに頭を使ってもいるってことか」
同時に正反対のことを言われた花梨が慌てて両者を見比べる。
最終的に彼女が視線を落ち着けたのは勝真の方だった。
顔色を伺うような上目遣いで、どこか悪戯っぽく見上げてくる。
「あのぅ……それって誉めてるんですか、貶してるんですか?」
「誉めてるに決まってるだろ。考えてもみろ、あんなところで龍神の神子だなんて言ったらどうなるか」
勝真が真面目に言っていることが分かったのか、途端に表情を引き締める花梨。
その瞳からは勝真の言葉の意味を真剣に考えている様子が見て取れた。
「今の京は――殊に庶民は強く救いを求めてる。龍神の神子だと名乗る者が目の前に現れたりしたら、信憑性はどうであれ縋りたくなるのが当たり前だろうからな」
不特定多数の見知らぬ相手から伸ばされる、渇望の手。
それを花梨が一人で受け止めきれるとは到底思えない。
勝真が敢えて口にしなかった部分まで想像したのか、花梨の表情が微かに硬さを帯びた。
「だがそれだけじゃない。まったく逆の心配もあるってことも覚えておいた方がいいぜ」
追い討ちをかけるつもりはないが、告げておくに越したことはない。
弾かれたように見る花梨へ、勝真は言葉を続けた。
「院御所にいる龍神の神子の他にも神子を名乗る娘がいることは、京のあちこちに知れている。だが大抵のヤツは院御所の――千歳を龍神の神子だと思っているから、後から現れた方は騙りではないかと思ってる。これについてはもう分かっているよな?」
「――はい」
神妙に頷く花梨。
余計な口を挟まないところはこの娘の賢さなのかもしれない。
「特に院に憑いていた怨霊を祓ったのがその娘だということで、帝側の奴らには警戒心を抱いている者も多いんだ」
「何故ですの? 呪詛を祓ったのは良いことではありませんか」
堪りかねたように紫姫が声を上げたが花梨に目で制されて押し黙り、すぐさま己を恥じるように唇を引き結んだ。
「申し訳ありません。ですが――」
「祓ったのが院に憑いていた呪詛、というのが問題なんだよ」
「え……」
「知ってのとおり、帝も呪詛されている。だがそれが発覚するのと前後して院の呪詛は祓われた。両方を繋げて考えるヤツがいても不思議はないだろ」
「それって……」
「ああ。『院の呪詛を祓った奴が帝を呪詛している』――そんな短絡的な発想が、帝を支持する奴らの一部に広まっているんだ」
花梨は嘆きも叫びもせず、ただ小さく息を呑んだだけだった。
「京の人間に龍神の神子だと認識されているのは、あくまで千歳なんだ。だからおまえが不用意に神子を名乗ったりしたら、冗談抜きにしてどうなるか分からないぜ」
「そんな……まこと龍神の神子であらせられるのは、こちらの神子様ただお一人ですのに……」
京を取り巻く絶望もかくやとばかりに、眉をひそめる紫姫。
だが彼女はすぐにはっとした様子で顔を上げた。
「あ――申し訳ありません。勝真殿の妹御を悪く申し上げるつもりでは……」
「いや、構わないさ」
軽くかぶりを振って勝真は紫姫を見た。
口先だけの気休めではなく、本心からそう思う。
「俺だって千歳が神子だなんて信じちゃいないからな。むしろ院に取り入るための嘘じゃないかとさえ思ってる」
そこでようやく花梨が慌てたように口を開いた。
「勝真さん、それは言いすぎじゃ――」
「だが事実だ。あいつを龍神の神子だと言い切る根拠は何もない。――おまえを神子だと認めるだけの理由を見つけられないのと同じで」
「……」
言い過ぎたかもしれない、と心の片隅で小さく思った。
花梨を未だ龍神の神子だと認めていないことを改めて宣言したようなものだ。
案の定、紫姫はひどく悲しそうな目で物問いたげにこちらを見ている。
だが当の花梨の反応は勝真の予想を遙かに超えていた。
「それでも勝真さんは協力してくれてるんですよね。ありがとうございます」
一瞬、理解できない異国の言語を聞かされたのかと思った。
だが確かにそれは勝真にも通じる普通の言葉であり、聞き違いでもない証拠に花梨は唇に笑みさえ浮かべている。
驚くのを通り越して呆れの念を抱いた自分の間隔は、どう考えても間違っていないはずだ。
「おいおい、俺はまだおまえを認めてないって言ってるんだぜ。そんなに簡単に礼なんて言っちまっていいのか?」
わざと煽るようにそんな言葉をぶつけてみても花梨は動じなかった。
「でも協力してくれてるのは本当のことじゃないですか。戦いのときも守ってくれるし、いつも助けてもらってます」
「……」
いよいよ言葉を失った勝真は、つい目の前の娘をまじまじと見つめてしまった。
驚きも呆れも通り越した先にあるこの不可解な感情は、果たしてなんと呼んだらいいのだろうか。
「――とにかく気をつけるに越したことはないからな。それでなくてもおまえは危なっかしいんだ。不用意な行動は慎めよ」
強引に話を打ち切って立ち上がると、花梨は幼い子供のように頷いた。
「あ、はい。気をつけます」
本当に分かっているのかどうか怪しいものだが、それ以上言葉を重ねることはせず勝真は屋敷を後にした。
* * *
(まいったな……)
調子が狂って仕方がない。
あれをすべて本気で言っているのなら相当な天然だ。
(本気――なんだろうけどな)
計算ずくの発言や行動ができるようには到底見えない。
今までの人生で手痛い目にあったことはないのだろうかと、余計なことまで気になってしまう。
「……協力してもらってるのはこっちの方だと思ってたんだがな」
神子であることを認めていないと言いながら、その力だけ都合よく借りようとしているのはこちらだ。
はっきり言ってしまえば――利用しているのと同じ。
それを彼女は分かっているのだろうか。
能天気な顔からは、何も理解していないような印象すら受けるけれど。
(いや……あいつは抜けてるかもしれないが馬鹿じゃない。自分の置かれている状況は把握できているんだろう)
今の京は院派と帝派に分裂していて。
八葉と呼ばれる者たちさえもそれは例外ではなくて。
末法思想が蔓延する世の中で救いを求める声は無秩序に響くのに、突如現れた花梨を龍神の神子だと認めているのはおそらくほんの一握りしかいない。
そんな状況に放り込まれて――それでも帝の呪詛を祓うために尽力している、奇妙な娘。
守られていることを当たり前と受け止めず、素直に礼を言える娘。
「――守ることくらい、いくらでもしてやるさ。他にできることなんてないからな」
本人に告げるつもりのない小さな決意は、夕暮れの風に流されて静かに消えた。
(2007.02.02 Saika Hio)