神の隠す花

2.


「さて、そろそろいいだろう。帰るとするか」
 日が西の空にかなり傾いた頃、勝真は大きく伸びをしながら言った。
「あ、はい、そうですね。今日の成果はどうだったんでしょうか」
「さあな……さすがにこれ以上は勘弁してもらいたいけどな」
 結局こちらのほうまで獲物が逃げてくることはなく、二人で話しながらここにいただけで今回も終わった。
 前回は突如として山から現れた奇妙な貴族にあらぬ誤解をされるという予想外の出来事もあったが、今回は他に人と会いそうな気配もない。
 今から山を降りれば、日が完全に落ちる前には花梨を送り届けてやれるだろう。
 山道は狭いので並んで歩くことはできず、勝真は前に立って花梨を先導することにした。
「ちゃんと俺の後についてこいよ」
 肩越しに声をかけると、花梨は元気な返事と共に頷いた。
 それを確認して歩き出す。
 決して足場がいいとは言えない道なので、それほど早く歩いていたつもりはなかった。
 後ろからついてくる足音も耳で確認していたはずだったのに、ふと嫌な予感を心に受けて振り向くと何故かそこに花梨の姿はなかった。
「花梨……?」
 途端に勝真の胸が大きく脈打ち、そのまま激しく早鐘を打ち始めた。
 いるはずの存在がそこにいない。

 すぐ傍にいたはずの少女が――いない。

 道は一本だ。
 間違えそうな横道などがあった記憶もない。
 ならば花梨はいったいどこへ行ってしまったのか。
 鎮まりそうにない胸元を荒々しく掴み、勝真は踵を返した。
「花梨!」
 落ち葉を踏み荒らし、来た道を戻る。
 そんなときに限って考えたくもないことが脳裏をよぎった。

 ――『この山で神隠しみたいなことが起こってるって――』

 いつも明るい花梨があれほど不安がっていた噂話。
 勝真自身は信じてなどいなかったけれど。

 もし――もしも本当に、そんなことが起こり得るのだとしたら。

(馬鹿馬鹿しい……理由もなく人が消えたりするはずがない)
 花梨を安心させるために言った言葉は、しかし己の心を落ち着かせる役には立たなかった。
 ――この目で姿を見るまで、鼓動は収まりそうにない。
「花梨っ!」
 声の限りに名を呼んだ、そのとき。
「はい!?」
 弾かれたように応える声があった。
 聞き間違うはずもない――呼ばれた名を持つ少女の声。
 山に沿って曲がった道の先に、彼女はいた。
「花、梨……」
 当たり前だが神隠しでも超常現象でもなんでもなかった。
 花梨はしゃがみこんだ姿で驚いたようにこちらを見上げていた。
 花を摘んでいたのだろう、その手にいくらか握られている。
 青紫色の、釣鐘のような形の小さな花。
「なにを――しているんだ」
 声が震えるのを堪えるだけで精一杯だった。
 花梨を見た途端に胸に湧いたのは、ふたつの感情。
 ひとつは無論、どこかへ行ってしまった訳ではなかったことを安堵する気持ちだ。

 だが、もうひとつは――。

「あの、ごめんなさい。歩いてる途中で竜胆の花が咲いてるのに気付いたから……」
 携えている小さな花を勝真に見えるように差し出しながら、花梨は微笑った。
「勝真さん、竜胆の花が好きだって前に言ってたから、つい、その……」
 花梨の笑顔を見ているといつも、つられて笑みを浮かべたくなる。
 だが今はとてもそんな気持ちにはなれなかった。
 花梨の姿が消えたかと思った瞬間に胸を占めたのは、言い知れないほどの恐怖だった。
 それなのに当の花梨は勝真の気も知らず、いつもと変わらない笑顔をこちらへ向けてくる。
 先走って埒もないことに不安を抱いた自分があまりにも滑稽すぎて――情けなくて。
 花梨を見つけたとき安堵と共に湧いたもうひとつの感情は。

 自分でも制御できない――怒りだった。

「……おまえな、人に心配させてまでわざわざすることかよ?」
 ついぞ聞かせたこともないほどの低音が唸るように喉から零れ、刹那に花梨は身を震わせた。 
「ご――ごめんなさい」
 先刻も花梨は謝罪の言葉を口にしていた。
 だからこれほど威圧する必要などありはしない。
 理性は確かにそう告げるのに、感情はどうにもならなかった。
 怯えたように揺れる花梨の目を見ていたらこれ以上何を言い出すか分からない。
 咄嗟にそう判断した勝真は彼女から鋭く視線を逸らし、そのままの勢いで早足に歩き始めた。
「あっ、待って下さい勝真さん!」
 慌てて立ち上がるのが見えたが、呼びかけどおりに待ってやれるような心の余裕はなかった。
 どうせすぐに追いついてくるだろう。
 そう思いながら大股で山道を降りていく。
 どれくらいそうして歩き続けただろうか。
 少しずつ頭が冷えてきて、段々と速度を緩めた勝真はついに立ち止まった。
(何をやっているんだ俺は……)
 神隠しなどありえないと笑い飛ばしていたのは自分のほうだったはずなのに。
 いざ花梨の姿が見えなくなった途端、そんな戯言に心を惑わされて。
 挙句の果てに取った態度は――ただの八つ当たりだ。

 ――『勝真さん、竜胆の花が好きだって言ってたから』

 はにかんだように笑いながら花梨はそう言った。
 何かの折りにふと話しただけのそんな言葉を覚えていて、勝真が気付きもしなかった道端の花に目を留めて。
 そうして、着物が汚れるのも構わずしゃがみこんで花を摘んだのだ。

 ――勝真のために。

 何故それを、あんなひどい態度で踏みにじることができたのだろう。
 慙愧の念でどうにかなりそうな頭をひとつ振って、来た道を振り返る。
 花梨が追ってくる気配はまだない。
 確かに早足で降りては来たが、さほど大した距離ではないはずだ。
 花梨の足でも、走ればそろそろ追いつきそうなものなのだが――。

 ――まさか今度こそ本当に、何かあったのだろうか。
 
(花梨……!)
 血の気が引いていく思いを嫌というほど味わいながら勝真は走った。
 ほんの僅かの距離だったはずが、永遠に続く果てなき道のように見える。
「花梨!」
「! かつざねさ――」
 悲鳴のような声が応えたのとほぼ同時に、視界に飛び込んできた少女の姿。
 彼女は先刻と同じように――だが明らかに違う様子で、地面に座り込んでいた。
「どうした――」
 思わず息を呑んだのは、見上げる瞳がすぐにそれと分かるほど潤んでいたせいだ。
 戦慄く唇が静かに開き、震える声が勝真の名を呼ぶ。
 どう見てもただならぬ様子なのは即座に分かった。
 勝真を見てその名を呼びはしても、花梨は地面にへたり込んだまま立ち上がろうとしないのだ。
「足を……どうかしたのか」
 視線を合わせるようにしゃがみこみ努めて穏やかに尋ねると、花梨の瞳からとうとう涙がひとしずく零れ落ちた。
「木の、根っこにつまづいちゃっ――、それ、で、転んで――」
 涙混じりの声は、胸に少なからぬ動揺を与えてくる。
 それを押し隠して勝真は花梨の足元へ視線を移した。
「……捻ったのか」
 無言で頷く花梨。
 その動きに合わせて涙の粒が音もなく零れて地面へと消えていく。
「そんなに痛いのか」
 怨霊の攻撃を受けたときでも穢れに当たったときでも、この少女が涙を見せたところなど見たことがない。
 それがこうも無防備に泣くほど、ひどい怪我をしたのだろうか。
 だが花梨は、今度はかぶりを横へ振った。
 戸惑う間もなく、俯いた姿勢のままの口から小さな声が漏れ聞こえてくる。 

「か、勝真さんに……置いていかれちゃうって――そう、思ったら……っ、怖かっ……」

 そこではっきりと勝真の胸に痛みが走った。
 花梨に怪我をさせたのも不安を抱かせたのも涙を流させたのも、すべて自分の責任なのだと改めて後悔と慙愧の念が心を覆う。

 ――手を伸ばしたのは無意識だった。

 弾かれたように顔を上げた花梨の大きな瞳と視線がぶつかる。
 指先で触れた頬は驚くほど冷たい。
 未だ零れ続ける涙を親指の先で軽く拭ってやると、小さな肩がくすぐったそうに竦められた。
「馬鹿……本気で置いていったりするわけないだろう」
「そ……ですけど――でも……っ」
「――すまない」
 どんな言い訳よりも、今、告げなければならないのはこのひとことだけだ。
 たとえ許しを得られなくても、他に言える言葉は今の勝真には無い。
「悪かった。ただ俺がくだらないことに心を捕らわれただけだ。おまえは何も悪くない」
「え……」
「あんなに怒る必要なんてないことくらい、自分でも分かってた。本当に――悪かった」
 頬に触れていた指を耳の横へ滑らせ、そのまま頭の後ろへ回して引き寄せる。
 息を呑む音が小さく聞こえたが、構わずに己の胸元へその頭を抱き込んだ。
 柔らかな髪から、ふわりと甘い香りが零れて鼻先をくすぐる。

「頼むから、もう――泣かないでくれ」

 ――その涙を止めるためにできることがあるのなら、なんでもするから。

 言葉にはできなかった思いを花梨が感じ取ったのかどうかは、分からない。
 だが花梨は勝真の腕の中で、確かに頷いてくれた。