きみのためにできること
15.
有無を言わさず手を引いて歩き続けた先に、目的があったわけではない。
ただ、ほんの少しでもいいから、黒の塔から遠ざかりたかった。
ミルス・クレアにいる限り、本当の意味で遠ざかることなどできないと分かってはいたけれど――それでも。
――できることならば、もう二度と関わりたくない。
自分の体質の調査をされていたあの頃など比べものにならないほど、今のラギは心底からそう思っていた。
「ラギ……ちょ、ちょっと待って……!」
がっちりと腕を掴まれながらもラギの一歩後ろをついてくるのがやっとだったらしいルルが、悲鳴のような声を上げる。
それを受けて、ようやくラギは足を止めてその腕を放した。
けれど言葉を発することはおろか、ルルの方をまともに見ることさえできそうにない。
背を向けたままのラギをどう思っているのか、しばらく呼吸を整えていた様子だったルルがおずおずと呼びかけてきた。
「あの……ね、ラギ」
「……なんだよ」
ルルが何を言おうとしているのか、ラギには見当もつかない。
我を忘れて怒りに身を任せた先刻の所業を責められでもするのだろうか。
それはそれで、無理もないかもしれない。
あの研究員を殴り飛ばしたことを後悔するつもりなど毛頭ないが、ルルに見せるべきでなかったとは思う。
だがある程度の覚悟をしていたつもりだったラギの予想は、大きく裏切られた。
「――ありがとう、ラギ」
「………は?」
耳を疑って思わず振り向いたラギは、次いで目も疑うこととなる。
ルルは微笑っていたのだ。
溢れ出る嬉しさを押さえきれないように、まるで今にも泣きそうな様相で。
「来てくれて嬉しかった。ありがとうラギ」
「な……」
「でもびっくりしちゃった。来てくれるなんて思わなかったから――」
「オレだってまさかおまえが一人であんなとこに乗り込むなんて思わなかったぜ」
別に皮肉のつもりではなく本心からそう思っただけなのだが、ルルは途端に申し訳なさそうな顔になる。
「っ、それは……」
言いにくそうに口ごもる様がラギの胸を刺した。
と同時に、あまり認めたくない感情が頭をもたげてくる。
それはもやもやと胸に渦巻いて、ラギの意識を蝕んでいく。
「なんで――ひとことオレに相談とかしねーんだよ」
黒の塔に単身乗り込むなど正気の沙汰ではない。
そんな重大な決断を下す前に何も聞かされなかったという事実が、重く胸に圧し掛かる。
――たとえ、それが自分勝手な言い分に過ぎないのだと自覚していても。
「オレは……そんなに頼りねーのか?」
「ち、ちがうわ!」
思わず吐き出してしまった魂の本音は、驚くほど瞬時に否定された。
目を見開くラギの前で、ルルは真摯に言葉を紡ぐ。
「そういうことじゃなくて……だってラギと黒の塔は複雑な関係にあるから。ラギが黒の塔を好きじゃないって分かってるのに、ついてきてほしいとか、そんなこと……言えなかったから」
「………」
心の奥底に、重い溜息が落ちる。
あまりにもルルらしい発言だ。
だがそれはラギの胸のつかえを軽くするどころか、ますます重みを加える材料となった。
「……結局、原因はオレか」
いつも、そうだ。
いつも上手くいかない。
ルルのためにできることがあるのなら、したいと思うのに。
そんなささやかな願いさえ、上手く抱くことができない。
あの最終試験の時と同じだ。
ラギが決断を下さなくてもいい道を選ぶ為に、ルルは独りでサラマンダーに立ち向かった。
ラギさえきっぱり決断できていれば、ルルはあんなことをしなくてもすんだのだ。
結果として間に合ったから良かったとはいえ、問題はそういうことではない。
今回も同じだ。
ルルのためにラギができたことなど、無いに等しい。
だがラギが呟いた刹那、ルルはひどく悲しげな表情になった。
「違うってば! そうじゃないの。ラギが原因だとか、そういうことじゃないの」
「……」
「ただ、ラギにつらい思いをしてほしくないだけ。わたしのことでラギが嫌な思いをしたりとか……そんなのはイヤなの」
「んなの――別にどうってことねーよ」
「……え?」
思わず遮ると、ルルは目を瞬いた。
筋の通った言い分だが、ルルの論理には根本的な間違いがある。
ラギは改めて小さく息を吐いた。
「黒の塔に行くぐらいのこと、おまえがどうにかなっちまうことに比べたら――どうってことねーんだよ」
忌々しい面々と顔を合わせることくらい、些末すぎて気にもなりはしない。
黒の塔へ赴くことがルルにとって必要ならば。
行くなと言うことはラギにはできない。
その代わりにできるのは、ただ傍にいて守ることだけ。
そんなことはラギにとっては当たり前すぎて、選択肢すらそこには存在しないのだ。
「オレは魔法も使えねーし、体質もまだ中途半端なまんまだし、おまえのためにできることなんてなんにもねー。それでも、オレは――」
「そんなことないわ!」
打って変わった強い語調に、ラギは思わず口を噤んだ。
その隙を逃さないようにか、勢い込んでルルが言う。
「ラギはいつも傍にいてくれるし、いつだってわたしのこと助けてくれるじゃない! 魔法が使えなくたって、魔法よりもっとすごいこと、いっぱいしてもらってるわ!」
「っ……」
「最終試験のときもそうだったけど、今回だってわたし……ラギがいなかったらとっくに挫けてたかもしれない」
「……」
「だって、言ってくれたじゃない。属性がなくなっちゃったかもしれないって思った時、それまでやってきたことは無駄なんかじゃないって……言ってくれたじゃない。あの言葉にわたしがどれだけ救われたか分かる?」
「……それは……」
分かるか分からないかと言われれば、正直なところ分からないのが本音だ。
ラギは事実を告げただけで、そんなに劇的なことを言ったつもりはない。
そんな言葉で立ち直れたというのなら、それはルル自身の強さ故だと思う。
だがルルの思いはラギとは違うようだった。
「ラギにもラギの言葉にも、それだけの力があるんだってわたしは思うわ。魔法が使えるとか使えないとか、そんなこと関係ないの」
「ルル……」
あの試験のパートナーを決めた時と同じことを、同じ調子で言うルル。
それは彼女が本心からそう思っていることを証明する、何よりの手がかりなのだろう。
不意に、胸から全身へじわりと熱いものが染み渡っていく。
ルルの言葉はどうしていつもこんな風に、ラギの心を包み込んでしまうのだろう。
「だから、なんにもできないだなんて言わないでほしいの。他の誰にもできないこと、ラギはいっぱいしてくれてるんだもの!」
「そ……そーかよ」
もはやどんな言葉を返したらいいのか分からない。
今までの発言のすべてが無自覚なのだろうから、余計にたちが悪いというものだ。
――その言葉にどれほどラギが救われているかなど、きっと本人は知る由もないのだろうけれど。
「それに……ね、あの――わたしのほうが……」
そこでいきなりルルの声が小さくなった。
拳を握り締めて力説していた勢いが急になくなり、ラギは面食らう。
「あ? なんだ?」
「わたしの方がずっといっぱいラギに迷惑かけちゃってるし、いつも困らせたりしてると思うの!」
「……は?」
見上げる瞳は滑稽なほど真剣で、先刻とは別の意味で反応に迷う。
「だ、だから、その、きっとラギに呆れられちゃったりとか……」
「バーカ、おまえこそちっとも分かってねーのな」
「え?」
苦笑と共に遮ると、ルルが大きな瞳を幾度も瞬いた。
何を言われているのか分からないと、顔いっぱいに書いてある。
「確かにおまえはいつも突拍子もなくて予測不可能でわけ分かんねーし、目が離せねーったらありゃしねーけどよ」
「うっ……ひ、否定はしないけどそこまで言わなくても……」
「けど――いいんじゃねーか、おまえはそれで」
「……え」
続く言葉はとても目を見て言えそうにはなく、知らず視線が逸れていく。
「オレが一緒にいたいって思えるのは、そーいうおまえなんだからよ。おまえは……そのままでいればいいと思うぜ」
さらりと零れた言葉は、自分の発言とは思えないほど恥ずかしい。
それでも、紛れもない本音だから。
――ルルにはそれをちゃんと知っていてほしいと思う。
「べ、別に迷惑かけていいって言ってるわけじゃねーからな! おまえはすぐ調子に乗るから、勘違いすんじゃねーぞ!」
照れを隠すように被せた言葉は矛盾しているような気がしなくもない。
だがそれをまともに聞くより先に、ルルは既に行動に出ていた。
「ラギっ……!」
「なっ、おいこら――って、うわああああ!」
文字通りの突撃を回避しきれず、不慮の事故と呼ぶには人為的すぎる事態がお約束のように発生する。
強烈な空腹はもはや馴染みの感覚だが、避けて通れるものならそうしたいと常日頃から思っている――のに。
「ご、ごめんなさいラギ!」
「おまえなあ……言ってるそばからこれか!」
「ごめんなさいぃー!」
「はぁ……ったく」
ふわふわと浮かぶ小さなドラゴンへ土下座せんばかりの様相で謝り続ける少女に、本気で怒る気にはならなかった。
「……もういいからメシ食いに行くぞ。そういやすっかり夕メシの時間じゃねーか」
「え、あ……うん」
いつものように怒鳴りつけられなかったことが衝撃だったのか、ルルは目を瞬いてぎこちなく頷く。
「あー、ったく今日はいつも以上にハラ減って仕方ねー! さっさと行くぜルル!」
「え? お腹が空いてるのにどうしてそんなに早く飛べ――って、待ってラギ! ラギってば!」
一心不乱に食堂を目指して飛ぶラギを、ルルが後ろから追いかけてくる。
振り向かずに飛び続けているのが空腹のせいだけではないと分かっているのかどうかは、甚だ疑問だけれど。
ちらりと横目で見遣ると、ラギを追いかけながらもルルはどこか嬉しそうに見える。
食事を終えて元の姿に戻ったらそんな笑顔をもう少し間近でゆっくり見ていたい――などと柄にもないことを、夕陽に照らされて飛びながらラギは思ったのだった。
【完】
(Saika Hio 2011.07.15)