きみのためにできること
14.
燃える双眸で睨みつけられても、研究員は動じる風もない。
その余裕の表情を見ながら、ルルは胸に渦巻くひとつの疑問にずっと囚われ続けていた。
先刻の研究員の言葉。
おそらくそれは今のルルにとって、何よりも重大な手がかりのはずだ。
「あの……っ、さっきのはどういうことなんですか? わたしの属性のこと……本当に、あなたが……?」
あるはずの属性が、まるで存在しないかのようになってしまった理由。
――『それをしたのは、この私なのですから』
あれはいったいどういう意味なのだろう。
この男とは会って話をしただけで、魔法に関わるようなことをされた記憶はない。
だが研究員は、縋るようなルルの瞳を冷たく一瞥した。
「どういうことも何も、そのままの意味ですが。まさかまだ気づいていないのですか?」
呆れ果てたと顔に書いて、研究員が息を吐く。
「気づく……って、なにを……」
似たような言葉を繰り返されるだけでは、結局なにもわからないままだ。
考えようと思っても思考が纏まらない。
するとラギが僅かに目を細めてこちらを見た。
「おい、何の話だ? 今回のことにこいつが関わってるってのか?」
「……っ」
ラギはきっと、ルルがただ相談のためにここへやってきたと思っているのだろう。
ルル自信もつい今しがたまでそのつもりだったのだから当然かもしれないが。
だが何からどう話せばいいのか分からない。
目の前の研究員がルルに何かをしたのは明白であり、それが属性に影響を及ぼしたというのは本人が言うとおり間違いのない事実なのだろう。
ラギは最初からこの男に気を許すなと言っていたのに。
それを聞かず警戒を怠ったのは、明らかにルルの落ち度だ。
けれど、ただ会って話をしただけでいったい何をされたというのだろうか。
(あれ……? ちょっと待って)
そこでようやくひとつの可能性が脳裏を掠めた。
会って話した――だけではない。
二度目にこの男と会ったとき、確か――。
「――おい、ルル」
再びラギに呼びかけられ、慌てて我に返る。
それはひどく静かな声だった。
「怒らねーから正直に言ってみな。……おまえ、オレの知らねーところでこいつと会っただろ」
「……っ!」
心を読まれたのかと一瞬本気で思った。
だがきっとそうではなく、ラギにはルルの行動など容易に想像できてしまうのだろう。
もはや隠し立てする意味も理由もなくなり、ルルは震える身体で小さく頷いた。
「うん……ごめん」
怒らないと宣言したとおりラギは怒鳴ったりせず、ただ長く息を吐き出しただけだった。
「んなこったろうと思ったぜ。おおかた、そのときに何か仕掛けられでもしたんじゃねーのか」
「……カードを、もらったの」
「カード?」
そうだ。
ようやく分かった。
「炎の絵が描かれた綺麗なカードだったわ。あのときはわからなかったけど、たぶん、あれが……」
受け取ったときの奇妙な感覚。
あの炎の絵が火の属性に何か影響を及ぼしたということなら、すべて納得がいく。
翌朝どこにも見あたらなかったのも、証拠を隠すために施されていた魔法の作用か何かだったのだろう。
「ええ、そういうことです。火の属性を覆い隠し、存在しないのと同じ状態を作り出す魔法ですよ。もともと別の研究に使っていたものだったんですがね」
「そんな……」
「やれやれ、本当に今まで気づかなかったんですか。呑気というか何というか」
大仰に肩をすくめ、研究員が嘲笑う。
「私があなたの立場だったら、真っ先に疑いますけどね」
「……」
言い返せる言葉が見つからない。
どれほど馬鹿にされようと、その通りだと思うから。
俯いたまま唇を噛みしめていなければ、涙がこぼれてしまいそうだ。
と、足元に落ちた影がふと視界を掠めた。
ラギが一歩足を踏み出してルルの前に立ちはだかったのだと気づいたのと同時に、低く押し殺した声が空気を震わせた。
「……理由は、なんだ」
びくん、とルルの鼓動が跳ねる。
普段のラギとは違う――けれど聞いたことのある声音。
弾かれたように顔を上げると、見慣れたマントの背中が目の前にあった。
(あのときと、同じ……)
あの最終試験のときと同じだ。
サラマンダーを追いつめて、絶対的な力でねじ伏せながら、ラギはこんな空気を纏っていた。
圧倒されそうなほどの、ドラゴンの威厳。
ぴり、と周囲の空気が張りつめる。
研究員のほうも雰囲気の変化に気づいたのだろうか、微かに眉を動かしたように見えた。
「何のためにこいつに近づいて、わざわざそんなことをした? 何が目的で、こんな馬鹿げた真似をしやがった?」
「おや……それをあなたが尋ねるのですか」
まだ余裕を崩そうとしない研究員が不敵に笑う。
「わかっているでしょう? 彼女が何十年に一人というほど特殊な存在だったこと。無属性がどれほど貴重な研究対象であったかということ」
「……」
「それなのに……ろくに調べることすらしないうちに、あろうことか属性を手に入れてしまった。普通の生徒とさして変わらない存在になってしまった。……なんともったいないことをしてくれたものだと思いましたよ」
さも、それが許されがたいことであるかのように。
そして、そう思うことが当然であるかのように。
悪びれるという感情など知りもしないのだろうかと思うほど、研究員の口調は揺るがない。
そういえば初めて会ったときにも似たようなことを言っていた気がする。
あのときは何とも思わなかったけれど、もしもあの時点で気づいていればこんなことにはならなかったのだろうか。
そんな埒もない思考が脳裏を掠める。
「ですが、属性の定着には時間がかかるらしいと聞きましてね。まだチャンスはあると思ったわけです」
「チャンス――だと……?」
「ええ、そうです。定着していない属性なら、ないのと同じ状況を一時的にでも作り出せるかもしれない。そう思って試してみたら、思った以上に上手く属性が【消えて】くれたんですね」
「……っ」
「感謝しますよルルさん、ようやく無属性の研究ができるんですから。あなたが来なければこちらから再び出向くつもりだったんですが、手間も省いて下さってありがとうございます」
「……」
あからさますぎる皮肉に自分が傷ついているのかどうかすら、もうルルにはよく分からなかった。
――あまりにも、非常識すぎて。
こんな風に、人を人とも思わないような――研究の為なら何をしても構わないと考えるような人間が、本当に存在するなんて。
――『あいつらが未知の研究対象となり得るものに対してどれだけ貪欲で容赦ねーか……知らねーだろ』
ラギの言っていたとおりだ。
この男はルル本人のことなど見てはいない。
意味があるのはただ、研究の対象となり得る無属性という材料だけ。
狙った獲物のために優しく偽りの言葉を述べるくらい、なんでもないことなのだろう。
(わたし、本当に……なんて馬鹿だったんだろう)
目の前の男を非難したいのかそうではないのか、自分でもよく分からない。
それでも何か言おうと口を開きかけたルルの目の前で、ラギが一歩前へ足を踏み出した。
「……つまり、てめえの研究のためだけにルルを利用しようとしたってわけか。しかもようやく手に入れた属性に……汚ねー細工してまで」
「私にとっては邪魔でしかありませんから。当然のことでしょう?」
「っ――ふざけるな!」
張り詰めていた空気が、一瞬にして弾けた。
溜めに溜めていたものをすべて叩きつけるかのような、爆発のような怒号。
猛り狂う炎が見えたような気がしたのは錯覚だったのだろうか。
ラギの右手が空を切った次の瞬間、鈍い音と共に研究員の身体がもんどりうって後方へ倒れた。
「研究のためだと? 属性が邪魔だったから仕方ねーだと? ふざけんじゃねー、人をなんだと思ってやがんだ!」
「く……っ」
殴り飛ばされた研究員が口元を拭いながら呻く。
「オレが実験動物みてーな扱い受けてたのは、まだ分からなくもねー。一応オレの体質のこと調べるって理由があったからな。けど――今回のは違うだろ。……ぜんぜん違うだろ!」
「ラギ……っ」
「ルルは困ってたわけでもなんでもねーのに、ただてめーの勝手な研究欲の餌食にされただけだ。それの何が仕方ねーだと?」
よほどの力で殴られたのか、研究員はまだうずくまったまま呻き声を上げている。
彼が立ち上がったら再び殴りかかりかねない勢いで、ラギは更に詰め寄った。
「こいつがどれだけ属性を欲しがってて、そのためにどれだけ努力して――どんな思いで手に入れたのか、分かって言ってんのか!」
「……っ」
「なのに……それを横からあっさり奪うような真似しやがって、オレはぜってー許さねー!」
「ラギっ!」
怒鳴るのと同時に手を伸ばしたラギがまた目の前の男を殴るのかと思ったルルは、とっさにその名を呼んでいた。
ラギがこんなに怒っているのは、ルルのためだ。
先刻は分からなかった理由が、今ははっきりと分かる。
むしろどうして分からなかったのかとさえ思う。
ラギはいつだって、誰よりもルルのことを真剣に考えてくれているのに。
けれどこんな風に怒気を露わにすることを、ラギ自身がなんとも思っていないはずはないだろう。
つらくないはずがない。
ルルだって、ラギのこんな姿を見たくはない。
そう思うことがルルの自己満足にすぎないのだとしても。
――ルルのためにつらい思いをしてほしくなどない。
けれどラギは再び拳を振り上げることはせず、伸ばした手で研究員の胸倉を掴み上げた。
「――どうすれば、こいつの属性は元に戻るんだ」
低く唸るような声は、絶対的な威圧感を帯びている。
研究員は特に表情を変えることなく、小さく息を吐き出した。
「……一時的に無属性の状態を作り出しているだけです。数日経てば元に戻りますよ」
「ほ、ほんとですか?」
あまりにもあっさりと言われて、思わず耳を疑う。
先刻までの言い種を聞いていたらとてもにわかには信じがたいが、つい勢い込んで尋ね返してしまった。
研究員はちらりとルルへ目を向け、すぐにまたそれを反らす。
「今更こんなことで嘘はつきませんよ。……信じろというほうが無理な話かもしれませんが」
「それは……」
そんなことはない、とは言い切れなくて、そのまま口ごもる。
するとラギが、男の胸倉を掴んでいた手に力を込めた。
「この期に及んでそれがもし嘘だったら、どうなるか分かってんだろーな」
「……」
研究員は応えなかったが、今までの不遜な態度を思えばむしろ従順な反応だと言えるのかもしれない。
返答を期待していたわけではなかったのか、ラギはそのまま研究員の身体を突き飛ばすように解放した。
「二度とこいつに近づくな! 次はこんなもんじゃすまねーぞ!」
背後の壁に倒れ込んだ研究員が咳込むのには目もくれず、ラギがルルの腕を掴む。
「行くぞ」
「えっ――あ」
もはやここに留まる理由などひとつもないと全身で言いながら、ルルを引っ張り大股で歩いていくラギ。
小走りになりながら、ルルは必死でついていく。
渦中の青年研究員も、廊下のあちこちにいた他の研究員たちも、二人を止めることはおろか声をかけることすらしなかった。
(Saika Hio 2011.07.10)