きみのためにできること
13.
(あれ? なんだろう、なんだか……)
今までに会ったときと変わらない笑みに見えるのに、どことなく違和感を覚えるのは何故なのだろう。
人当たりの良い穏やかな笑顔にしか見えないのに――今まではそうとしか思っていなかったはずなのに、どうしてそんな風に感じるのかは自分でも分からない。
(ええと……)
ルルの戸惑いに気づいているのかいないのか、青年研究員は笑みを崩さないまま立っている。
とりあえず何から尋ねるべきか迷いながら、ルルはおずおずと口を開いた。
「あの……わたしが来ることが分かってたんですか?」
まるで本当に待ち構えていたかのようなタイミングで開いた扉。
お待ちしていましたという出迎えの言葉は単なる社交辞令に過ぎないのかもしれないけれど。
「ええ、そろそろいらっしゃる頃だと思っていましたから」
ルルの言葉に青年研究員はまっすぐ頷いた。
そういうことではなく、あの重厚な扉の奥からルルが来たのを即座に察知できたのは何故なのかと訊いたつもりだったのだけれど。
なんとなく問い直すのも気が引けて、ただ相手の顔を凝視してしまう。
すると研究員は、差し伸べた手で招く形を作った。
「立ち話もなんですから、どうぞこちらへ」
こちら、というのはもちろん黒の塔内部のことだろう。
ルルは目を見開いた。
「え、で、でも……入れるんですか?」
「大丈夫ですよ」
その疑問を見越していたのだろうか、彼の態度は揺るがない。
「あなたは私がお招きした方なのですから、一般生徒とは違います。何も心配することはありませんよ」
「そ……そうなんですか」
さも当たり前だと言わんばかりの口調が、ルルの不安を少しだけ和らげてくれる。
二人が中へ入ると、一瞬後に扉が勝手に閉まった。
まだ緊張は抜けないが、この人が一緒にいてくれれば心強い。
そう思いながら後をついていくルルの目に、黒の塔の内部はひどく新鮮に映った。
ざっと見た感じは廊下の脇にいくつも扉が並んでいるという普通の造りだが、漂う雰囲気がどこか張り詰めているような気がする。
(新しい研究がいくつもされてる場所だから、そう感じるのも当たり前なのかも)
難しい魔法のことはよく分からないけれど、とにかくここがミルス・クレアの敷地の中でも一線を画された場所なのは明らかだった。
二つの靴音だけが静寂の中に響く。
青年研究員はルルの前を黙って歩いていくだけで、何か話しかけてくる様子はなかった。
(わたしの方から訊きたいことがあるんだもの、訊いちゃってもいいかな?)
意を決して顔を上げる。
少し足を早めて研究員の横に並ぶような形を取り、ルルは口を開いた。
「あの……今日はお聞きしたいことがあって来たんです。実は今わたし――」
「――得たはずの属性が、存在しないかのようになってしまった……ですか?」
「えっ――」
言おうとしていたことをそのまま言われ、ルルは文字どおり言葉を失った。
そのままぴたりと足も止まる。
すると研究員もそれに合わせるように立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
「そのことについて相談にいらしたのでしょう? おそらくミルス・クレアの歴史の中でも前例のないことのはずですから」
淀みなく告げる声があまりに自信に満ちていて、ルルは素直に感嘆した。
「す、すごいですね! どうして分かるんですか? あ……もしかして、もうここまで噂が流れてきてるんですか?」
思えば、ルルが無属性だったという話も黒の塔にはいち早く伝わっていたという。
知らずはしゃいだ口調になったルルへ、しかし研究員は冷静な視線を向けただけだった。
「噂? いいえ、私が知っているのは確かな事実だけですよ」
言いながら、その口の端が僅かに持ち上がる。
それを見た途端、ルルの胸に奇妙な感覚が走った。
(あれ? また……)
先刻ここへやって来た時と同じ違和感。
どうしてもこの笑みが、今まで見てきたものと違う――ただの穏やかな笑顔には見えないのだ。
なぜ今日はそんな風に思うのだろう。
首を傾げようとするより先に、研究員の口から信じられない言葉が紡がれた。
「あなたが一時的に属性を失ったのと同じ状態になっていることは、誰よりも先に知っていましたよ。なぜなら、それをしたのは他でもない――この私ですから」
「え……?」
それは文字の連なりとして耳に入ってはきたものの、意味を掴むことが即座にできない。
このひとは――なにを言っているのだろう。
「え……え、どういう……それって――」
「なんだ、やっぱり気づいていなかったんですか。てっきり分かっていて来たのかと思ったのに」
声のトーンが変わったのがはっきりと分かる。
穏やかな色はすっかり消え失せ、代わりに現れたのは酷薄とも言える冷たい響き。
「分かって……? なんのことですか? わたしはただ、図書館の文献でも分からないことも黒の塔なら教えてもらえるかと思って……」
「それで、馬鹿正直に相談に来たと」
「っ……だ、だって、言ってくれたじゃないですか。何かあったら力になれるかも、って」
「ああ……そんなことも言ったかもしれませんが」
まるで他人事のように、研究員の言葉は冷たい。
「話に聞いていたとおり、恐ろしく純粋な方ですね。いえ、単純――と言ったほうがいいのかな」
くす、と零れた笑いは揶揄以外の何ものでもなかった。
何かを取り繕うことをやめた開き直りのような空気が、目の前の男の全身から漂う。
「……どう、して……?」
頭を何かで思い切り殴られたような感覚。
もう、この笑みを穏やかで人の善いそれだなどと思う気持ちは、欠片もルルの中に残ってはいなかった。
「あなたは……なんなんですか……?」
どういう意味にも解釈できるような疑問が小さく零れる。
思っていたような優しい人物ではなかったことだけはもはや疑いようもないが、それだけだ。
この男が何を思い、自分に何をしたのか、ルルにはまだ分からない。
そんなルルを蔑むように、相手は肩をすくめた。
「私はしがない研究員ですよ。属性に関わる研究を、この塔で長く続けています」
「……」
「このミルス・クレアの歴史の中でも例を見ないケースであるあなたは、私の探求心をこれ以上はないほど掻き立ててくれましてね」
「っ……それは――」
ルルが思わず息を呑んだ、その時だった。
何かを激しく壁に打ちつけるような音が幾度も、けたたましく背後から響いた。
次いで、何人かの慌てたような足音と怒声。
静寂に包まれていたはずの黒の塔が、にわかに騒然となる。
「やめたまえ! なっ――おい!」
「こ、こら、待て!」
「どけ、邪魔だ!」
ルルの鼓動が大きく跳ねた。
入り乱れる声の中にひとつだけ、よく知ったものがあった為だ。
(え、まさか――)
早鐘を打ち始めた胸を押さえながら背後を振り返る。
駆けてくる足音と共に、聞き違えようのない声が鋭く響いてきた。
「ルル! いるんだろ! 返事しろ!」
呼び声に応えようと息を吸い込んだのと、廊下の角からその姿が飛び出してきたのがほぼ同時のことだった。
「ラギ!」
信じられないが、確かにそれはラギだった。
誰が見ても明らかな怒りのオーラを全身から立ち上らせた彼は、ルルと研究員の前で足を止め、鋭くこちらを睨み据えた。
「ったく――手間かけさせやがって」
「……っ」
呆れたような呟きが、驚くほどの温かさでルルの胸を包んだ。
怒りの中に見える優しさと気遣いは、きっと気のせいではないから。
けれど――どうして。
(どうしてラギがここに……黒の塔にいるの……?)
ラギと黒の塔の関係を知っているからこそ、黙って来たのに。
それに、入り口の扉はルルたちが中に入ったときに閉ざされたはずだ。
「ラギ……ど、どうやって入ってきたの?」
素朴な疑問を投げかけると、ラギはいかにも面倒そうに息を吐いた。
「扉を蹴り壊してやろうと思ったが、上手くいかなかった。そのうち泡食った中のヤツらが鍵を開けたから、押し退けて入ってきただけだ」
「……」
あまりにもラギらしい返答に、開いた口が塞がらなくなる。
強行突破というにも限度があると思うのだが。
「これはこれは……まさか君が自分からここへやってくるとはね」
うんざりした様子を隠そうともせずに研究員がラギを見る。
「オレだって二度と来るつもりなんてなかったさ。……てめーが余計なちょっかい出してきたりしなけりゃな」
「心外ですね。ここへ来たのは彼女自身の意志ですよ?」
「そう仕向けたのはてめーだろーが!」
空気すべてを震わせるような怒気。
ルルは思わず肩を竦ませたが、研究員は動じる風もない。
あの最終試験のときも、こんな怒りを露わにしていたラギ。
あれは、サラマンダーの業火でルルが傷つけられそうになっていたからだった。
では、今の彼の怒りの理由は――なんなのだろう。
(ラギ……?)
じっと見つめてみても、研究員へ鋭い視線を向けたままのラギはこちらに気づかない。
ルルはただ固唾を呑んで、二人の顔を交互に見比べた。
(2011.06.26 Saika Hio)