きみのためにできること

12.


(おっせーな……まだややこしい話にでもなってんのか?)
 先ほどから何度目になるか分からない溜息が小さく落ちる。
 既に閉ざされた図書館の扉の前で廊下の果てを何度見遣ってみても、ルルが現れる気配は感じられなかった。
 図書館の利用時間は終わり、寮の門限も近い。
 他の皆はおそらくそのまま寮へ帰っていったのだろうが、ラギは一人この場に残ってルルを待っているのだった。
 ルルを待つこと自体はもちろん構わないのだが、それにしても時間がかかりすぎている気がする。
(つーかあいつ、ちゃんとここに戻ってくんのかよ)
 今更のように、そんな根本的な疑問が脳裏をよぎる。  
 確かに待っていてくれとは言われたが、どこで、とは言われなかった。
 あの話の流れでいけば普通は図書館以外にあり得ないと思うのだが、なにしろ相手はルルである。
 突拍子もない理屈で予想外のことをしでかしても何ら不思議はない。
 本人が聞いたら頬を膨らませて怒り出しそうなことを至極冷静に考え始めたラギは、気づけばごく自然に踵を返していた。
(しょうがねーな……とりあえず学長室まで行ってみるか)
 じっと待っていることにもそろそろ限界が訪れようとしている。
 ルルが向かったのが学長室であることは確かなのだから、ひとまずそこへ向かってみることにした。
 途中でうまく出会うことができればしめたものである。
 だがさほど進まないうちに、ラギの歩みは止まった。
「ラギ! まだここにいたのか」
 なにやら切羽詰まった様子で名を呼ばれ、反射的に振り向く。
 こちらへ駆け寄ってくるのはノエルだ。
「ひょっとしてここでずっとルルを待っていたのか?」
「っ……べ、別にてめーには関係ねーだろ!」
 持ち前の短気さで、瞬時に頭へ血が上る。
 あたかも揶揄されたかのように感じてしまうのは、ラギ自身がそう思っているからだろう。 
 おそらくノエルの方にそんな意図は無いに違いない。
 それを裏付けるかのように、彼の表情は珍しいほど真剣だった。
「関係なくはないだろう。待っていてもおそらくルルはここへは来ないぞ」
「あ? ……なんだよ、それ」
 妙に確信めいた発言が、ラギの心の琴線に触れた。
 今しがた一瞬だけ高くなった血液の温度が、今度は緩やかに下がっていく。
 何か重要なことなのだと、頭の中で告げる声がある。
 ノエルは表情を引き締めたまま言い淀んだ。
「さっきルルを見たんだ。だが、それが……」
「んだよ、はっきりしねーな。人を散々待たせといてどこにいやがったんだよあいつは」
 苛立ち混じりに先を促したのは、得体の知れない不安を打ち消したかったからかもしれない。
 いったい何を聞かされるのかと内心で身構える。
 だがノエルが告げたのは、ラギが予測したどの居場所でもなかった。
「どういうわけか、黒の塔のほうへ向かっていくのが見えたんだ。かなり遠目だったから声も届かなかったんだが、あれは間違いなくルルだった」
「な……に……?」
 何を言われているのかよく分からない。
 この流れで黒の塔という単語を聞かされるというのが、ひどく珍妙なことのようにしか思えなかった。
 ノエルはこんな質の悪い冗談を言うようなタイプだったろうか。 
「なに言ってんだおまえ、んなわけ――」
「僕だって信じられないさ。彼女が黒の塔へ行くなんて普通じゃ考えられないからな。いや、彼女に限らず他の生徒でも同じことだが」
「……」
 ノエルがラギの事情を知っているのかどうかは分からないが、余計なことは言わないでおくことにする。
 無言で促すラギに、ノエルは更に言葉を続けた。
「ルルが何を思ってそんな行動に出たのかは分からない。だが黒の塔は得体の知れない場所だから、なんだか嫌な胸騒ぎがしてな。君に知らせようと思って探していたんだ」
「そ……そーかよ」
 誰も彼もが当然のように、ルルのことをラギに知らせてくれる。
 恥ずかしいだとか余計なお世話だとか、普段のラギならば怒鳴りつけていたかもしれないけれど。
 素直にありがたいと思うべきなのだろうと、驚くほどすんなり今は思えた。
「しかしどうせ一般生徒は門前払いだから、何かが起こるわけもないがな。中に入ることも出来ずにそのまま戻ってくるしかないだろう。だからおそらく僕の取り越し苦労なのだろうとは思うんだが」
「……ああ、そう――だよな」
 確かにノエルの言うとおりだ。

 ――ルルが他の生徒と変わらない、一般生徒であるならば。

(……)
 脳裏に浮かぶのは、思い出したくもない人物の姿。
 だがラギの思考はそこで一旦遮られた。
「とにかく、確かに伝えたからな!」
「お、おう……悪かったな、わざわざ」
 風のように去っていくノエルへ言葉を返したのは、既に無意識の行動だった。
 脳裏にいくつもの疑問符が浮かび、無秩序に飛び交う。
 何がどうなっているのか正直よく分からないが、とにかく言いたいことはひとつだ。
「なに考えてんだあのバカ……っ!」
 できればノエルの見間違いであって欲しい。
 だが、心のどこかがそれを冷静に否定した。
 現にこれだけ待ってもルルは来なかったのだ。
 ルルが黒の塔へ向かったというのなら、おそらくそれは事実のはずだ。
 理由など考えるまでもない。

 ――『我々は、まだ広く公に知られていないような魔法の研究もしていますから。何かあなたのお力になれることもあるかもしれません』

 忌々しい台詞を鮮明に思い出すことができてしまった自分に心底うんざりする。
 前例のない、属性のトラブル。
 図書館でも有効な文献は見当たらなかった。
 もしもルルがあの男のことを思い出し、何か話を聞こうと考えでもしたのなら。
(あり得る……すっげーあり得る)
 警戒心の欠片も抱いていなかったルルの様子が脳裏に蘇る。
(つーか、あれからまた接触してきたなんてことも……ないとは言いきれねーよな)
 ふと浮かんだそんな可能性が、奇妙なほどの信憑性を帯びてラギの胸に伸しかかってきた。
 なにしろ執拗な印象の男だった。
 ラギのいない隙を見計らってルルに近づいた可能性も、皆無とは限らない。
 ルルから何も聞いていないことが引っかかるが、もしそうだとしても理由はなんとなく分かるような気がした。
 彼女は、ラギと黒の塔との関係性を知っているのだ。
 件の研究員と会ったとしても、わざわざラギに言いはしないだろう。
 というより、隠そうとするはずだ。
 ルルはそういう少女だと思う。
「ったく……ふざけやがって」
 勝手な想像だが、もはや事実としか思えなくなってきた。
 胸にこみ上げてきたのが怒りなのか呆れなのかは、自分でもよく分からない。
 衝動のまま壁に拳を一発見舞ったラギは、鋭い双眸で廊下の先を睨み据えた。
「ただじゃおかねーぞ、バカルルっ!」
 走り出すのを躊躇う理由など、どこにもなかった。  


 *     *     *

 
(えーと……ど、どこまで入っていってもいいのかしら?) 
 意外にも、黒の塔へと続く門は難なく通ることができた。
 その先にそびえ立つ塔も、間近で見るとごく普通の建物に見えなくもない。
 ただし入り口の扉は明らかに堅く閉ざされており、そのまま入っていくことができるのかどうかは分からなかった。
(ここまで来ちゃったけど、どうやったらあの人に会わせてもらえるのかな? そういえば何も考えてなかったけど……)
 相談に来いと言われたものの、よく考えてみると具体的なことは何も聞いていない。
 あの扉をノックすれば中から誰か出てきてくれたりするのだろうか。
(なんとなく、そんな普通の方法じゃダメな気がするわ。うーん、どうしよう)
 そろそろ日も落ちかかっている。
 あまり悩んでいる時間もないのだが、かといって何が最善の方法かも分からない。
 進むことも戻ることもできないまま、ルルはわずかに俯いた。
(ラギもそろそろ心配し始めてるかな。黙って来ちゃったから……)
 待ってて欲しいと告げたのはルルなのだから、本当ならば学長室からすぐラギの元へ向かうべきだったのだ。
 けれど、黒の塔へ赴くことをラギには言えなかった。
 ラギと黒の塔との関係性は分かっているつもりだし、ルルが行くと知れば反対されるのは目に見えている。
 余計な心配をかけたくなくて、でも何かを知ることができるのならその可能性も捨てたくなくて。
 結果的に選んだのがこの方法――ラギに内緒で黒の塔を訪れることだった。
 もしもここで何か有益な情報を得ることができれば、ラギにも喜んでもらえる。
 仮に何も分からなくても、黒の塔へ行ったことをラギが知らないままなら状況が変化しないだけで、特に問題はないはずだ。
 そんな風に簡単に考えてここまで来たものの、存外あっさりと行き詰まってしまった。

 ――あなたはもう少し慎重に考えて行動するよう心がけましょう。

 以前に通っていた学校で成績表に書かれていた文言が、妙な説得力と共に脳裏へ蘇る。
 しかし考えると言ってもこれ以上なにをどうやって――と思考がぐるぐる回り始めた、その時だった。
 カチリ、と乾いた金属音が微かに耳を打った。
 今まさに目を向けていた、黒の塔の方から。
 思わず息を呑むルルの眼前で、重厚な扉がゆっくりと開く。
 その向こうから現れたのは、ルルが期待していたとおりの人物だった。
 まるでルルがここにいるのが見えていたかのような絶妙なタイミングで。
「ようこそルルさん。そろそろいらっしゃる頃かと思い、お待ちしておりましたよ」
 会うのはこれで三回目だが、どの時とも変わらない笑みを今も顔に載せたまま。
 黒の塔の研究員は、ルルの方へそっと手を差し伸べた。 


(Saika Hio 2011.06.18)