きみのためにできること

11.


 ほんの数時間前にも、同じ道を通って同じ場所へ向かった。
 ともすればその場に倒れ込んでしまいそうになるほどの、危うい心地で。
 あの時と今とで、大きく変化したことなどほとんどない。
 自分の身に起こった出来事は不可解なまま、解決の糸口も見出だせていないままだ。
 それでも今、ルルの胸の中は奇妙なほどに落ち着いていた。 
 何がそうさせているのかも、ちゃんと分かっている。
 根本的なことは何も解決していないけれど、ただひとつ最初の状況から変化したこと。
 そのたったひとつが、今のルルに大きな力を与えてくれている。

 ひとりではないのだと――支えてくれる誰かがいるのだと、そう実感できるというだけで。

 どんな苦難にも負けずに立ち向かえるような気がするのだ。
 古代種の先生たちのもとへ行くことがまったく怖くないと言ったら、嘘になるけれど。
(うん……大丈夫)
 ひとり頷き、大きく息を吸ってから、ルルは学長室の扉をノックした。
「――失礼します」
 開いた扉の向こうに見たイヴァンとヴァニアは、先刻よりも僅かに穏やかな表情をしているように見える。
 そう思うのはルル自身の心の持ち方のせいなのかもしれないけれど。
「あの……さっきはすみませんでした。勝手に飛び出していってしまって」
「よろしくてよ。そんなことを咎める為にわざわざ呼んだ訳ではないことくらい、分かっているわよね?」
「は、はい」
 遠回しに叱られているのかと思って一瞬身構えたが、どうやらそうではないらしい。
 ヴァニアの言葉を受け継ぐように、その隣のイヴァンが口を開いた。
「まったく、話は最後まで聞くものじゃ。そなたの属性が今どのような状態であるのかはっきり分からぬのは事実じゃが、糸口を見出だせぬとは言っておらん」
「え……」
「それを告げるために、もう一度ここへ来てもらいましたのよ。ラギに伝言を頼んでもよかったのだけれど、直接の方がいいかと思いましたの」
「あ、ええと……」
 当たり前のように出た名前に、ルルの肩がぴくりと反応する。
 この手に杖を携えていることできっともう分かっているのだろうけれど、律儀にルルは説明を口にした。
「ラギとはちゃんと会えました。杖も渡してもらって……あの、いろいろありがとうございます」
「……少しは落ち着いたようね?」
「は、はい」
 ヴァニアの聞きたいことが具体的に何なのかはよく分からなかったが、頷く以外の選択肢はルルにはなかった。
「さて、では本題に入るが……そなたの属性は別に、消えてなくなったわけではない」
「――え?」
 あまりにもあっさりと言われたので、思考がついていくのに数秒かかった。
 どういうことなのかと問い返しても良いのかどうか、迷う間にまた数秒。
 イヴァンの赤い双眸が、戸惑うルルを静かに見据える。
「そなたの得た火の属性は、得た時と変わらずそなたの中に存在しておるようじゃ。しかしそれ自体が何か別の力に覆い尽くされているかのように、“見えない”のじゃよ。この我輩ですら、じっくりと見なければその気配に気づかなかった」
「そ、それって……」
 正直なところ、細かい部分は難しくてよく分からない。
 ルルの心の琴線に触れたのは、今の言葉の最初の部分だった。
「なくなった、わけじゃない……んですか? わたしの属性……まだちゃんと、あるんですか……?」
「我輩の見たところでは、そうじゃな。何が原因なのかは分からぬが」
「ど、どうすれば元に戻るんですか!」
「分からぬ。原因が分かればあるいはそこから探ることもできるやもしれぬがな」
「そう、ですか……」
 淡々と事実だけを述べるイヴァンの言葉は聞きようによっては冷たくも感じるが、今のルルはそうは思わなかった。

 ――属性が消えたわけではない。

 その事実を聞かせてもらえただけで、心の中で凝っていたものがすべて溶けて消えたような気がした。
(よかった……よかった!)
 口元を両手で押さえていなければ、叫び出していたかもしれない。
(わたしの属性――ラギと同じ火の属性。まだちゃんと、わたしの中にある……!)
 今すぐにでもラギに伝えたい。
 けれどすぐ近くににラギがいたとしても、上手く言葉にはできないかもしれない。
 それくらい、嬉しくて胸がいっぱいで――身体の中心から熱いものが込み上げて止まない。
 思わずその場に泣き崩れてしまいそうになるのを、理性のすべてで以てどうにか堪えた。
(ちゃんとしなくちゃ。まだ全部が解決したわけじゃないんだもの)
 これからどうするかを考えなければならないのは、変わっていないのだから。
「ともあれ、属性が消えたのでなければ殊更に緊急事態というわけでもありませんのね」
「まあ、そうなるな。無属性の不安定な状態は長く放置するには危険が伴ったが、今のそなたはそれとは違う」
「えっと、じゃあ……わたしこれからどうしたらいいんですか?」
 一刻を争う事態でないことはありがたいが、いつまでもこの状態でいるわけにもいかない。
 魔法の発動が不安定なままでは勉強も実験も思うようにはできないだろう。
「我輩たちのほうでも引き続き検証してみるとしよう。そなたは無理のない範囲で今までどおりに勉学を続け、定期的にここを訪れるように」
 イヴァンの口調は常と変わらず淡々としていたが、今のルルの胸にはとても心強く響いた。
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
 深くお辞儀をして、学長室を後にする。
 扉を閉めたところで、ふぅ、とひとつ吐息がこぼれた。
(何か原因があるのなら、それが分かればいいのよね。でも、どうすればいいのかな……)
 先生たちが検証してくれるとは言っても、任せきりでいるわけにもいかないだろう。
 図書館でユリウスたちがしてくれていたように、片っ端から過去の事例でも調べてみるべきだろうか。
(でも前例のない話って言ってたから、やっぱり難しいのかな)
 ふと顔を上げた時、渡り廊下の窓の向こうへ視線が向いたのは無意識の行動だった。
 学校棟の屋根の向こうに見える、どこか異質にも感じられる背の高い塔。
 いつもすぐ目の前にありながら未知の空間である、黒の塔だ。
 普段ならば特に気にもしないのに、今この場で目が止まったのは何かの啓示だったのだろうか。
(そういえば……)
 黒の塔を見てルルが連想するのは、あの青年研究員だ。
 初めて会った時に微笑みながら言われたことを思い出す。
  
 ――『我々は、まだ広く公に知られていないような魔法の研究もしていますから。何かあなたのお力になれることもあるかもしれません』
 
 もともと何十年に一度と言われていた、無属性。
 他に類を見ない存在であるルルに前例のない異変が訪れたのは、偶然なのか必然なのか。
 ルル自身にそれは分からないけれど、もしかして黒の塔の研究員にならば何か解明できることがあるかもしれない。
(そっか、そうよね――うん!)
 ひとつ頷き、その場を後にする。
 これまでにないほどの高揚感を訴えかけてくる胸を押さえながら、ルルは廊下を駆けていった。