きみのためにできること
9.
泣いている女ほど面倒なものはない。
今までずっとそう思っていたし、これから先もおそらくその気持ちは変わらないだろう。
けれど今だけは違った。
ルルが悲しいなら思う存分泣けばいいと思ったし、すぐそばで慰めることができるのならそうしてやりたいと思った。
だが自分の慰めに意味などありはしないことも、ラギには分かっている。
どんなに優しい言葉をかけたところで、事態が解決するわけでは決してないのだから。
それほど今のルルの状態は深刻だった。
つい先刻聞いたばかりの古代種の言葉が脳裏に蘇る。
* * *
『何が……あったんスか』
ただならぬ状況であることだけは分かる。
問いをぶつけることに躊躇いさえ感じるほど。
だが沈黙したままでいることなどできるはずもない。
率直に尋ねると、双子の古代種の瞳が僅かに鋭くなったような気がした。
尤もこの二人の視線を柔らかいものだと感じたことなど、ラギには一度もないのだが。
『その疑問に対する明確な答えは、残念ながら我々も持ち合わせておらぬ』
『は……?』
はぐらかされているのかと思うような返答に、思わず眉根が寄る。
それでも目の前の教師たちは意に介した風もない。
『ええ、もう少し詳しく聞ければ違ったのかもしれませんけれど……』
『今の我々に見えておるのは、甚だ不可解な事象のみじゃ』
回りくどい物言いはまったく要領を得ず、ラギの苛立ちは着実に増していくばかりなのだが、さすがに怒鳴りつけるわけにもいかない。
それに気づいているのかいないのか、ヴァニアが長い睫毛をゆっくりと伏せた。
『あなたには、いち早く知る権利がありますわね、ラギ。なんと言ってもあの子のパートナーなのですから』
『……っ』
パートナー、という単語の響きにひどく重みを感じるのは、ラギの気のせいではないだろう。
つい今し方まで感じていた苛立ちは瞬時になりを潜め、代わりに奇妙な焦燥感が押し寄せてくる。
『そう――じゃな。あの者が属性を得る為にそなたが必要な存在であったことは、事実じゃからのう』
イヴァンにまでそう言われ、いよいよ身構える。
だが次の瞬間その耳に飛び込んできた言葉は、とてもにわかには理解しがたいものだった。
『ルル――あの者に宿ったはずの火の色が見えぬのだ。あるはずの属性が、何故か見あたらぬ』
『な――』
何を言われているのか分からないというのは、こういう時のことを言うのだろう。
どんな反応を示したらいいのか、まるで分からない。
それほどラギの予想の範疇を越えた宣告だった。
まとまりきらない思考の中で、不意にマシューの言葉が蘇る。
――『さっきの授業でルルが失敗したのは、どうやら火の魔法だったらしいんだ。それもかなりひどく暴走したみたいで……』
あれを聞いたときにも嫌な予感は確かにした。
けれど、まさか――そんなことが。
『属性が――なくなっちまった、……のか? まさか……っ』
口に出した途端、まるで我が事のように胸が軋んだ。
ルルにとってどんな意味を持つ事態であるのか、とてもではないが深く考えたくない。
だが一度宿った属性が再び消えることなど、有り得るのだろうか。
するとイヴァンはゆっくりと首を横に振った。
『いや、消え失せたというわけではないようじゃ。じゃが――“見えない”のじゃ』
『……?』
『なくなったのとは違うようじゃが……状態としては同じようなものかもしれぬな』
『……んだよ、それ……』
正直なところ、“ない”と“見えない”がどう違うのかラギにはさっぱり分からない。
だが、ひとつだけなんとなく分かることは。
『つーかそれって……そのままじゃ、あいつの魔法は――』
事実、ルルは失敗している。
問題なく使えるようになったはずの、火の魔法を。
それがどういうことであるのか、魔法のことを何も知らないラギにでもさすがに想像がつく。
もしもこのままだったら、ルルは。
魔法使いになりたいというルルの夢は。
――どうなってしまうのだろう。
『我々にも分からぬ。一時的なものなのか――それともこのままなのか。何しろ前例がないからのう』
『……』
『そうですわね、なるべく早急にもう一度詳しく調べる必要はありますけれど――ラギ』
『は?』
唐突に名を呼ばれ、反射的に赤い魔女を見遣る。
ラギがミルス・クレアで苦手なものを挙げたら確実に三位以内に入るであろう、底知れない瞳とまっすぐにぶつかる。
『その前に、あなたには大切な役目がありましてよ』
『役目……?』
『ええ。――これを』
言いながら静かに差し出されたのは、黄金色の細い杖だった。
ルルが何より大事にしているそれをヴァニアが持っている理由は、もはや明白だ。
『あなたにしかできないことですわよ』
『……っ』
ヴァニアの言いたいことはさすがに聞くまでもなく分かった。
とりあえずは認めてもらえているらしい。
この二人に認められようとそうでなかろうと別に困りはしないし、思惑通りに動くのも正直なところ癪に障るのだが、あえて何も言わずにラギは杖を受け取った。
自分の手には細すぎるそれをしっかりと握り締める。
そうしてラギは、黙って学長室を後にした。
* * *
腕の中でルルが微かに身じろいだ。
いつの間にか嗚咽もほとんど聞こえない。
ひとしきり泣いて、少しでも落ち着いたのだろうか。
ラギの疑問に応えるように、か細い声が胸のあたりで響いた。
「あの、ごめんねラギ……もう大丈夫」
大丈夫とは言い難いはずだが、とりあえずは泣き止んだようだ。
こんなときくらいこのまま抱きしめてやっていても構わないと思うけれど、いつまでもそうしていても仕方ないのかもしれない。
そっと腕を解くと、顔を上げたルルが照れたように微笑った。
「ありがとう、ラギ」
普段からは想像もつかないほどの儚げな笑み。
とても直視できなくて、不自然に視線が逸れた。
「別に……オレはなんもしてねー」
それ以上なにを言ったらいいのか分からず、ルルを抱きしめていたのとは逆の手で持っていた杖を無造作に差し出す。
「あ……」
「もう落としてったりすんじゃねーぞ」
他にもっと言い様はあったのかもしれない。
だが優しい言葉などとはほぼ無縁のラギには、これが精一杯だった。
「うん――ありがとう」
微かに頬を染めてルルが頷く。
受け取った杖をそっと胸に抱きしめながら。
その様子を見て、少しだけほっとした。
何が解決したわけでもないけれど、ルルはやはりこの杖を持っているべきだと思う。
(けど……これからどうすりゃいいっつーんだよ)
一緒に考えてやると言った気持ちにもちろん嘘はない。
だがそれがいったい何の役に立つというのだろう。
ルルの属性を正常に戻すために、具体的に何をしたらいいのだろう。
――何が、できるのだろう――。
「ああ――ここデシタか、二人とも。ようやく見つけマシた」
聞き慣れた声がマイペースなテンポで響き、反射的に振り向く。
ルームメイトである異国の王子が穏やかな笑みと共に立っていた。
「ビラール……見つけたってなんだよ」
「そのままの意味デス。二人を探していたのですカラ」
「? どういうことだよ」
問うたラギではなくルルのほうを見ながら、ビラールはゆっくりと頷いた。
「ルル、事情は聞きまシタ。みんな、あなたの力になりタイ。もちろん、私モ」
「え……」
言葉の意味を測りかねているのか、ルルの瞳が微かに揺れる。
みんな、というのが具体的に誰のことを指すのかは、聞くまでもないような気がする。
「今みんなは図書室にいマス。いろいろな文献を調べレバ、何か分かるカモしれませんカラ」
「わたしの、ために……わざわざ?」
「ハイ、そうデス」
「……」
ルルが何を思っているのかは分からないが、あえて口を挟もうとも思わなかった。
普段なら――あるいはもっと事情が違っていたなら、単純に嫉妬心を抱いたりしたかもしれないけれど。
今がそんなくだらないことを言っている場合ではないことくらいは、さすがに分かる。
自分にできることなど何もないのだと自覚しているからこそ。
助け手は多いに越したことはないはずだ。
負け惜しみでも卑下でもなく、心底からラギはそう思った。
(Saika Hio 2011.03.19)