きみのためにできること
8.
唇を引き結んだ顔からは、その心情は読みとれない。
怒っているようにも見えるし、そうではないような気もする。
だが今のルルにラギをじっと見つめていられるような余裕などあるはずもなく。
ただ溢れ続ける涙をどうにかして止めなければと、それだけが頭の中を一瞬で占めた。
泣いている様など、ラギを困らせるだけだ。
そう思うのに――分かっているのに。
必死になればなるほど余計に胸が締め付けられていく。
涙と共に洩れた嗚咽が、小さく空気を震わせる。
「……っ、う、……」
止めようと思う心と裏腹に、涙は更に零れ続ける。
両手の甲でどんなに瞼を拭っても、とても追いつかないほどに。
きっと呆れられる。
泣くなと怒られてしまうかもしれない。
ラギは女の子のそういう姿が苦手だから。
だがそんな厳しい反応を覚悟していたルルの耳を打ったのは、まったく予想外の言葉だった。
「おまえな……無理矢理泣き止もうとかしてんじゃねーよ」
溜息混じりの声からは、苛立ちや不快感は感じ取れない。
呆れてはいるのかもしれないが、ルルが思っていたのとは明らかに様子が違った。
「そんな泣くぐらいつらいなら、泣きゃいーだろ!」
「……え」
「泣きてーなら泣きゃいいだろーが。なんで我慢すんだよ……こんなときまで」
バカ、と付け足された呟きが、驚くほど温かくルルの胸を包んだ。
まさかラギがそんなことを言ってくれるとは思わなくて、改めてまじまじと目の前の姿を見つめてしまう。
その目に映ったものが、再度ルルを驚かせた。
ラギの手が無造作に携えていたもの。
それはルルの杖だった。
おそらく先刻のショックで学長室に落としてきてしまっていたのだろうということに、ようやく初めて思い至る。
と同時に、分かってしまった。
ラギがこの杖を持っているということは、学長室に入ったということ。
ならば間違いなくラギは、イヴァンとヴァニアから事の次第について聞き及んでいるはずだ。
だから今、彼は言ったのだろう。
――こんなときまで我慢するな、と。
すべて事情を知った上で、それでもなお――どうしてそんなことを言ってくれるのだろう。
そう思った途端、壊れそうな勢いで鼓動が跳ねた。
「……っ、ごめ……ごめんね、ラギ……っ」
ラギと会ったら何を言えばいいのか、つい先刻まではまるで見当もつかなかったけれど。
たった今、閃光のように去来したのはただそのひとことだった。
なぜ、そんな簡単なことすら分からなかったのだろう。
これ以外に必要な言葉など、きっと今は――ありはしないのに。
属性を失ったかもしれない絶望感。
魔法使いになる夢さえ、もしかしたら潰えてしまったのかもしれない恐怖。
そんな個人的な感情よりも、ひたすらに胸を占めるのは。
――ラギへの申し訳なさ、ただそれだけ。
「ごめ、なさ……っ、ごめんなさい――!」
「……意味わかんねー。なんでオレに謝んだよ」
「だ、だって……っ」
意地悪を言っているのか、それとも本当に分かっていないのか。
そこまで推し量るような余裕は、残念ながら今のルルにはない。
「ラギにいっぱい助けてもらって、いっぱいつらい思いもさせて……ようやく、見つけたのにっ――」
「……」
「そ、それを、また……な、なくしちゃうなんて……っ!」
「んなの、おまえのせいじゃねーだろ」
怒ったような声音に精一杯の優しさを感じる。
それが余計につらくて、ルルは思いきりかぶりを振った。
「でも……っ、でもあんなにがんばったのに! なのに、それが全部――ムダになっちゃった……!」
「! バカか! ムダなんかなわけねーだろ!」
空気を叩きつけるような怒声に、思わずルルは身を竦めた。
滅多に見せることのない、本気の怒り。
その鋭い眼差しでまっすぐにルルを射たまま、ラギは大股でこちらへ近づいてきた。
そうして、言葉も涙も止まったまま呆然と座り込んでいるルルの目の前で荒々しく膝をつく。
間近で見るラギの瞳はやはり怒りの色を露わにしている。
けれど不思議と、怖いとは思わなかった。
「おまえが半年かけて必死に勉強して、あの根性わりー最終試験に合格したのは紛れもねー事実だろ」
「で、でも……っ」
「でもじゃねーよ。ずっとそばで見てたオレが言うんだ。おまえがしてきたことは、ムダでもなんでもねー」
「……っ」
瞳に宿る怒気は変わらないまま。
だがその声は先刻までと同じ、胸に染み渡るような優しさに満ちている。
怒っているのがルルに対してではないことは、さすがになんとなく分かった。
怖いと思わないだなんて、当たり前だ。
ラギはこんなにも――優しくて温かいのだから。
「おまえの属性がどうにかなっちまったのがどういうことなのかは、オレには分かんねーけど。それだけは保証してやる。おまえがおまえのしてきたことをムダだとか言うな。ぜってー言うな」
「っ――ラギ……っ!」
一旦は止まったはずの涙が、再び堰を切ったように溢れ出す。
それがどんな感情によるものなのか、滅茶苦茶に乱れた今の思考ではうまく掴みきれなくて。
だから止める術さえも、見つけられそうにない。
「う……っく、……っ」
俯いて必死に瞼を拭うルルにはその時のラギの動きは見えなかったが、気配が少しだけ動いたような気はした。
次いで、小さな溜息。
「あー……ったく」
何かを吹っ切るような呟きが耳に触れた、次の瞬間。
(――!?)
いきなり頭を引き寄せられて、そのまま強く抱き止められた。
温かくて力強いその感触がラギの手であることはすぐに分かった。
額がラギの胸元にぶつかって、そのまま動けない。
心臓が、自分のものではないかのように激しく暴れ出す。
(え……ええっ!?)
抱きしめてくれたらいいのにと、いつも思っているのは本音だけれど。
あまりにもいきなりの展開に思考がついていかない。
「ら、ラギ……っ」
抱き寄せられているのは頭だけとはいえ、それでも変身してしまうかもしれない。
――それなのに、どうして。
尋ねたいのに言葉がうまく出てこない。
「今だけ思いっきり泣いとけ。そうすりゃちっとは落ち着くだろ?」
「う、うん……」
頭のすぐ上で響く優しい声に、戸惑いながらも頷く。
「なら、これからどうするかはそのあと考えりゃいい」
「ラギ……」
「オレは魔法のことは分かんねーし、魔法使って手助けとかはしてやれねーけど……一緒に考えるくらいはしてやるから」
それしかできない、という意味に聞こえて、慌ててかぶりを振ろうとした。
けれど抱き締められた力が強くて、思うようにいかない。
ちゃんと伝えたいのに。
いつだってラギは、魔法の力よりもっと大きなものをくれているのだということを。
「ラギ……ごめんね……」
「だーから、謝るなっつってんだろ」
「うん……」
適切な言葉が他にみつからない。
「――ありがとう」
いちばんシンプルでストレートな言葉が、囁きのように空気に溶けた。
けっきょくラギに伝えなければならないことは、いつもこのひとことに集約されてしまう。
何度告げても足りないくらいに、いつもそう思っている。
魔法が使えるかどうかなど、何の関係もないのだ。
いつでもラギは魔法のように、ルルの心を包んでくれるのだから。
不器用な言葉も仕草も、そのすべてが温かくて優しい。
こんなに悲しい状況なのに、胸の奥に確かな明かりが灯るほど。
――もしかしたらなんとかなるのかもしれないと、思えてしまうほど。
(Saika Hio 2011.02.19)