きみのためにできること
7.
遠ざかる足音は、まるで違う世界の出来事のようだと思った。
立ち尽くしたまま動けずにいたのは、実際にはどれくらいの時間だったのだろう。
どうしたらいいのか、皆目見当もつかなかった。
――問題なく使えるようになったはずの火の魔法を失敗した。
それがどれほどのショックを彼女に与えたか、分かると言いきってしまうのはおこがましいのかもしれない。
だが平気なはずがないことくらいは分かるつもりだ。
ラギが危惧したとおり、ルルはこれ以上ないほど打ちのめされた様子で。
そこまでは予想の範疇だった。
けれどラギと目が合った、先刻の一瞬。
ルルの表情は瞬く間に凍り付いた。
無言の、されど雄弁な意思表示。
明らかな――拒絶。
その真意を図りきれなくて、どうしても動くことができなかった。
誰とも会いたくない、と思ったのか。
それとも――。
――ラギとだけ顔を合わせたくなかったのか。
「……」
根拠はないが、何となく後者のような気がする。
だがそれが何故なのかは、やはりラギには分からないから。
結局追いかけて事情を聞くしかないのかもしれない。
それがいいのか悪いのかさえも、分からないけれど。
(ったく……っ)
思わず舌を打った時、ふと背後で人の動く気配を感じた。
そういえばここは学長室の前で、おそらく中にはまだイヴァンとヴァニアがいるはずだということに、今更のように思い至る。
ラギが振り向くと、開いた扉のすぐ傍に思ったとおりの二人がいた。
「ラギか……さっそく話を聞きつけてきたか」
「まあ、さすがはパートナーですわね。あの子も幸せ者だこと」
まるで何事もなかったかのように、二人の口調は普段のそれと何ら変わりない。
だが嫣然と微笑むヴァニアの手元を見て、ラギは目を見開いた。
彼女の手には、ルルの杖が携えられていたのだ。
祖母から貰ったという、黄金色の細い杖。
いつも肌身放さず持っているはずのそれを、ルルが自分の意志で置いていったとは思えない。
「……っ」
やはりただごとではないのだ。
ただ魔法を失敗したというだけではない、何かが。
嫌な音で跳ね出した鼓動に気付かないふりをして、ラギは改めて古代種たちへと向き直った。
* * *
西の空へ傾きかけた陽が、湖面に煌めきを散りばめる。
それをぼんやりと眺めながら、ルルは微かに目を細めた。
湖のほとりへやってきたことに、特に理由はない。
ただ何となく足が向いてしまったのだ。
どうしてなのかは、自分でもよくわからないけれど。
よくラギと一緒にくる場所だからだろうか。
そうだとしたら、我ながら矛盾した行動だ。
彼がやってくる可能性のある場所にいるなど、今は最も避けるべきであるはずなのに。
――ラギにだけは、今は会いたくないのだから。
(ううん……会えない、って言うべきかも)
どんな顔をして会ったらいいのか分からない。
何を話したらいいのかなど、もっと分からない。
だから学長室の前にラギがいるのを見たときは、鼓動が止まるかと本気で思った。
(とっさに逃げちゃったけど……ラギ、どう思ったかな……)
もともと学長室を飛び出したことに深い意図などはなかった。
ただ、あれ以上あの場にいるのが耐えられなくて。
衝動的に体が動いてしまっていた。
その後どうしようかなど、何も考えてはいなかったのだけれど――あそこにラギがいたことは確実にルルの予想の範疇を超えていた。
――『そなたの今の色は――無じゃ。かつてと同じように、あるべき色が見あたらぬ』
イヴァンの声が、まだ耳の奥で響いている。
夢か幻聴であってくれたらどんなにいいだろう。
闇に染まった思考の底で、まだそんな悪あがきをしている心がある。
(だって、そんなの――信じられないよ)
ラギと二人で挑んで乗り越えた、最終試験。
火の属性を手に入れたのは、あの試練を経た結果だ。
ルルが一人で得たものではない。
ラギがいてくれたからこそ、成し遂げられたこと。
だから――苦しくてたまらないのだ。
(ラギ……ごめんね、ラギ……)
あの試験でラギがどれほどつらい思いをしたか。
どれほどルルのために力を尽くしてくれたか。
思い返すだけで胸が熱くなる。
すぐ傍で、誰よりも近くで、何度も励ましてくれた。
ルルが合格できるように、自らの運命を早々に選び取ろうとさえしてくれた。
そんな風にして、彼に力を貸してもらってようやく手に入れたはずの属性を――自分は。
――失ってしまったかもしれないのだ。
「……っ」
はっきりと心にその言葉を思い浮かべた途端、見えない手で心臓を鷲掴みにされたような気がした。
イヴァンに突きつけられた現実が、今頃になってようやく身体に染み渡っていく。
じわじわと意識を蝕んでいく絶望感。
呼吸さえも止まってしまいそうなほどに、胸が――苦しい。
「どう……しよう、……っ、どうして……っ!」
これからどうしたらいいのか。
なにがどうなっているのか。
何も分からなくて、心がちぎれそうに痛い。
喉の奥に熱い塊がこみ上げて、堰を切ったように涙が溢れ出す。
後から後から零れ落ちるそれを、拭うことすら上手くできない。
思わず両手で自分の身体を抱きしめた――そのとき。
背後で草を踏む音が微かに響いた。
と同時に、周囲の空気がふわりと揺れる。
誰か人が来たのだということは分かったものの、振り向くべきかどうか少しだけ迷う。
けれどその迷いは、本当にただの一瞬のことだった。
気付いてしまったのだ。
――訪れた気配が、誰のものであるのか。
(……!)
どうして分かってしまうのだろう。
彼が人とは違う孤高の存在であるからなのか、それとも――もっと別の理由なのか。
どちらもきっと間違ってはいないのだろう。
どちらにせよ、ルルにとってただひとりの人であることに変わりはないのだ。
足音は静かに近づいてくる。
その音がいつもよりもずっと慎重に――まるで全身で気遣ってくれているかのように聞こえるのは、自惚れなのかもしれないけれど。
それでも――彼がここへやってきてくれたことだけは紛れもない事実だ。
ゆっくりと、振り向く。
思っていたとおりの姿が、涙で濡れた両の瞳に映る。
誰よりも大切で、大好きな――けれど今だけはいちばん会いたくなかった人。
震える唇で、ルルはその人の名前を囁いた。
「ラギ……」
(Saika Hio 2011.2.13)