きみのためにできること

6.


 芝生に寝転がり、流れる雲を見るともなしに見上げる。
 湖のほとりは裏山と同じくらい絶好の昼寝スポットであるとラギは思っている。
 いつものように昼寝をしようとしていたはずなのだが、不思議と今日は眠気がやってこなかった。
(ま、どうせそんな長いこと寝てらんねーしな)
 もうすぐ午後の授業が終わる。
 そうしたらいつものようにルルがやってくるだろう。
 それから二人で一緒に昼寝をするという選択肢もありだと思うが、待っている間に眠っているのはさすがに少し気が引けた。
 そういえば――と、いつだったかルルが言っていたことを思い出す。
『ラギももっとちゃんと授業を受けたらいいのに! そうしたら今よりもっと一緒にいられる時間が増えるのにな……』
 ルルらしい考え方だとは思う。
 そして、言いたいことも分からなくはない。
 だがラギは首を縦に振ることはしなかった。
 別に授業で会わなくとも、ルルと過ごせる時間は十分すぎるほどあると思うからだ。
 むしろどちらかといえば、彼女と一緒に過ごさない時間もラギにとっては適度に必要なのである。
 ルルと一緒にいるのは楽しいし、心地良いと思う。
 けれどそれと同じくらいに緊張もするし、落ち着かない気持ちになることも多々あるのだ。
 矛盾しているかのようなそれらの感情はおそらく、すべて同じ要素に起因するものなのだろう。
 恋愛沙汰に疎い自分でも、それくらいは分かる。

 ルルが特別で、大切で、何より好きだと思うからこそ。
 四六時中そばにいてはとてもラギの神経が保ちそうにない。

(……んなことぜってー言えねーけどな)
 ルル本人はもちろん、他の誰に対しても。
 わざわざ言葉にするようなことではないはずだ。
「だー、ったく! んなグルグル考えてること自体オレのガラじゃねーっての!」
 思わず毒づき、そのままラギは身体を起こした。
 じっとしていると、らしくないことばかり考えてしまう。
 今日はどうもいつもと調子が違った。

 ――後から思えば、それは何かの予感だったのかもしれない。

 だがこのときのラギにそんな発想があるはずもなく、彼は立ち上がって校舎棟の方へと歩き出した。 
(べ、別にあいつを迎えに行こうとか、そんなんじゃねーからな!)
 誰に対する言い訳なのか自分でも分からないが、とにかくそんなことを思いながら歩いていく。
 まだ授業が終わってそれほど時間が経っていない為か、校舎に近くなってもあまり人の姿は多くない。
 だから余計に、見知った顔がすぐ認識できた。
「お、マシューじゃねーか」
 両腕に何冊も本を抱えて歩いてくる姿に、軽い調子で声をかける。
「あっ……ラギ」
 だがマシューはいつものように人の善い笑みを浮かべはせず、それどころか微妙に表情を強張らせたようにさえ見えた。
「その様子だと、ルルとはまだ会ってない……のかな?」
「あ? そりゃな」
 まさにこれから会いに行こうとしていたところだ――などとは、気恥ずかしくてとても言えたものではない。
「今まで授業だったんだろ? 会ってるわけねーじゃねーか」 
「そっか……そうだよね」 
「んだよ、あいつがどうかしたのか?」
「うん……どうやら彼女、さっきの授業で魔法を失敗したみたいで」
「んなのいつものことだろ」
 マシューの言葉をラギは一笑に伏した。
 重苦しい様子で何を言うかと思えば、そんなことか。
 それともマシューがここまで憂えるほど、稀に見るような失敗をしたのだろうか。
 半ば冗談めいた心地で描いた予測は、しかし皮肉なことにあながち的外れではなかったらしい。
 マシューは細い目の上の眉を物憂げに寄せながら言った。
「そうかもしれないけど、でも彼女、火の魔法は安定して使えるようになってきてたんだよね?」
「あ? ……あー、まあ、そうらしいな」
 ラギは歯切れ悪く返しながら微妙に視線を逸らした。
 それに関しては、できればあまりこちらに振らないで欲しいというのが本音である。
 ルルの手に入れた属性が火である以上、火の魔法が安定して使えるようになったのはある意味当然の結果であろう。
 しかしルルが告げてきた理由――魔法を使うときに彼女が何を思い、どうやっているのか――はどうにもラギには意味が分からない理屈で。
 そこを追求するのは避けて通りたいと、羞恥心という名の理性が頑なに拒むのである。
 けれどマシューが言いたいのはそういうことではなかったようだ。
 彼はますます表情を曇らせ、ラギが全く予想だにしていなかった言葉を口に載せたのだ。
「でもさっきの授業でルルが失敗したのは、どうやら火の魔法だったらしいんだ。それもかなり激しく暴走したみたいで――」
「な、に……?」
 一瞬、聞き間違いとしか思えなかった。
 あるいは、たちの悪い冗談でからかわれてでもいるのかと。
 だが目の前の男子はミルス・クレアきっての優等生であり、言い間違いはともかくとしてもそんなくだらない冗談とは最も無縁な存在で。
 それがよく分かっているからこそ、彼の言葉は驚くほどの衝撃を伴ってラギの耳に響いた。
「火の魔法を……失敗したのか? ――ルルが?」
 自分で反芻しながら、まだ信じられない。
 それはひとえに、嬉しそうに話していたルルの言葉が未だにラギの中で鮮明に残っている為だ。

 ――『ラギが持つ性質と火の力とは、きっと同じだから。わたしに力を貸して、ってお願いするような気持ちで律を編むの。そうしたら、すーっと気持ちが落ち着くのよ』

 ただ気恥ずかしいだけの言葉だと思っていた。
 けれどそれはルルの魔法が安定している場合に限ったことだったのだと、今更のように気付く。
 今は不思議なほど、あのときのルルの笑顔が痛くて堪らない。
「いや、けど……失敗くらいするだろ? 人間なんだし。特にあいつなんて今までが今までだったからな、いくら属性を手に入れたからっていきなり失敗がゼロになるとも限らねーんじゃねーの?」
 自分の口から出た言葉なのに、それが本音なのか否かはラギ自身にもよく分からなかった。
 ――ただ、ひどく胸が騒ぐ。
「う、うん、そうだね……そうかもしれないよね」 
 マシューもどこか曖昧に頷く。
 改めてラギは校舎棟の方へ目を向けた。
 ルルは今どこにいるのだろう。

 ――今、どんな思いでいるのだろう。

「あ、ルルは学長室に呼ばれたみたいだよ」
 走りだそうとしたラギに、慌てた様子で声がかかる。
 短く礼を告げて、ラギは校舎棟へと向かった。


 *     *     *


 学長室前の廊下は、いつも静かだ。
 底知れない恐ろしさを秘めた古代種の先生たちのお膝元でわざわざ騒ぎ立てるような命知らずは、ミルス・クレア広しと言えどもさすがにいないのだろう。
 そのせいか、普通の足音でさえこの廊下では殊更に響き渡るような気がする。
 慌ただしく校舎内へと駆け込んできたラギは、ようやくここで速度を緩めた。
 音を聞き咎められることを気にしたわけではない。
 自分の足音が自分の耳に、ひどく騒がしく聞こえてたまらなかったからだ。
 だが速度を落とした途端、今度は胸を叩く鼓動の音が気になるようになってしまった。
 それは全力疾走してきた為か、それとも違う理由なのか、自分でもよく分からない。
(くそっ……)
 何に対して忌々しさを感じているのかも判然としないまま、速度を緩めたまま学長室の扉へ向かう。
 すぐにでもルルの姿を確かめたいのに、それ以上足が急ごうとしないのは何故なのだろう。
 マシューの話のとおりルルが本当に火の魔法を失敗して、イヴァンとヴァニアに呼び出されているのなら。
 どれほど打ちひしがれているかは想像に難くない。
 ならばもちろん話を聞いてやりたいし、慰めてやりたいと心から思う。
 けれど――。
(なんて言えばいいんだ? 火の魔法は失敗しなくなったって、あんなに嬉しそうにしてたあいつに――)
 いつものような失敗なら、軽く笑い飛ばしてやれるだろう。
 けれど今回は、どうもそれとは事情が違うような気がする。
 確証はないが、何か嫌な胸騒ぎがするのだ。
 気のせいであればいいが、もしもそうではなかったら。
 いったいどうすればいいのだろう。

 ――抱き締めることすらできない自分に、何ができるというのだろう。

 これまで様々な場面で幾度となく自問した言葉が、今更のように脳裏に甦る。
(けど、んなこと……考えたってどうにかなるもんじゃねー)
 かぶりをひとつ振って思考を追い出す。 
 いくら考え抜いて体裁の良い言葉を捻り出したところで、ルルを目の前にしたらきっとそんなものは何の意味もなくなってしまうのだろうから。
 学長室の重厚な扉を見上げ、溜息をひとつ。
 ノックをするために腕を振りあげようとした、その時だった。
「――ルル!」
 乾いた音と共に勢いよく扉が開き、ヴァニアの声が鋭く飛んだ。
 ラギの鼓動が跳ねたのと、名を呼ばれた少女が部屋からまろび出てきたのがほぼ同時のこと。
 いつもならそのまま突撃してきそうなものなのに、何故か今のルルはラギの姿を見た途端、雷にでも打たれたように身をすくませた。
「……っ!」
 見開かれた瞳がラギへ向いたまま、怯えたように揺れる。
 意外にも涙が浮かんでいるようには見えないが、普段からは想像もつかないほど傷ついた色を湛えた琥珀色の瞳。
 いや、傷ついているだけではない。
 ラギの気のせいでなければ、今のルルは――。

 ――ラギと顔を合わせたくないと、思っていたのだろう。

「あ――おい!」
 それを実証するかのように、止める声も聞かずにルルはラギの脇をすり抜けて走り去っていった。
 即座に追いかけようと思えば、できなくはなかっただろうけれど。
 ラギの足はまるで枷でもはめられたかのように、その場から動いてはくれなかった。
 
  
(Saika Hio 2011.01.30)