きみのためにできること

5.


 足下に何かふわふわしたものを敷き詰められているかのようだ。
 固い地面を踏み締めているはずなのに、そんな感覚は全くない。
 自分がきちんと歩けているのかどうかも、今のルルには正直よく分かっていなかった。
 ただ周りの景色が何となく後ろへ流れているようには見えるから、おそらく前へ進んではいるのだろう。
 それでも、どれくらいのペースで歩いているのかの実感はない。
 既に行き慣れてしまった感のある学長室が、今はひどく遠く思えてならなかった。
(わたし、いったいどうしちゃったんだろう……?)
 脳裏に渦巻くのはもちろん、先刻の失敗。
 きちんと使えるようになったと思っていた火の魔法を、まさかあんな風に失敗してしまうなんて。
 何が原因なのだろう。
 何がいけなかったのだろう。
 自分のことのはずなのに、分かることがひとつもない。
 それが余計にルルの不安を掻き立てる。
(ヴァニア先生には、何か分かったのかな……?)
 あの場で即座に学長室への呼び出しを命じるということは、何か気づいたことがあったのかもしれない。
(それなら、もしかしたら解決策とか教えてもらえたりするのかも……!)
 持ち前のポジティブ思考でそんな風に考えてみる。
 するとほんの少しだけ足取りが軽くなったような気がした。
 ――そうとでも思っていなければ、今この場で倒れ込んでしまいそうだ。
 心の奥底の正直な訴えには気づかないふりを無理矢理決め込む。
 やがてどうにか辿り着いた学長室の前で、ルルは大きく深呼吸をした。
 意を決するまでに、ゆっくりと瞬きをふたつ。
 緩く握った拳で扉を叩き、返答を確認してからルルはそれを静かに開けた。
「……失礼します」
 いつ訪れても緊張する場所だ。
 もちろん今も例外ではない。
 否、今だからこそ――と言うべきなのかもしれないけれど。
 騒ぐ胸を宥めながらくぐった扉の向こうには、古代種の双子の先生がいつものように並んで立っていた。
 だが二人の表情はいつもよりも硬い。
 当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。
「いらっしゃい、ルル」 
「話は愚妹から聞き及んでおる」
「……っ」
 二人の古代種は珍しく単刀直入だった。
 それがますますルルの鼓動を騒がせる。
 何か言わなければいけないと思うのに、何を言ったらいいのか見当もつかなかった。
 祖母の杖を握り締める両手に、知らず力が篭もっていく。
 そうして立ち尽くしたまま、あまりに悲愴な表情をしていたのだろうか。
 ヴァニアが少しだけ表情を和らげたように見えた。
「ルル、誤解しないでちょうだい。何もあたくしたちは、一度の失敗を取り立てて厳しく咎めるようなつもりはなくってよ」
「え……」
 それは驚くほど優しい声だった。
 思わずまじまじとヴァニアの顔を見つめてしまう。
 叱られることを恐れていたわけではない。
 心を暗く覆っているのはもっと根本的な、自分自身の問題だ。
 けれどこんな風に優しい反応を示してもらえると思っていなかったことも、確かに事実で。
 それだけでほんの少し、身体の震えが収まっていくような気がする。
 ルルの心中を察してくれているのかどうかは分からないが、ヴァニアの妖艶な唇からゆっくりと言葉が紡がれた。
「ただ、あなたの先ほどの、魔法の暴走の仕方……それが少し気になりましたの」
 優しいけれど、決して平穏ではない声音。
 一瞬だけ軽くなったように感じた胸の凝りが、再び重みを帯びていく。
「どういう――ことですか」
「あなたは火の属性を手に入れた。……そうでしょう? だからあんなふうに火の魔法が暴走するのは、本来ならばあり得ないことのはずでしてよ」
「っ……」
 あまりにもきっぱりと指摘され、ルルの鼓動が跳ねた。
 突きつけられている現実から目を背けることなど、できるはずもないのだろう。
 そう悟った瞬間、勢い込んで尋ねてしまっていた。
「わたし……っわたし、どうしてしまったんですか? 先生には分かるんですか?」
「いや、分からぬ」
 ゆっくりと、だがきっぱりと応えたのはイヴァンだった。
 可愛らしい見た目にそぐわぬ時代がかった口調で、彼は言う。
「我輩はこの目で見たわけではないので詳しいことは分からぬ」
 コホン、と咳払いひとつ。
「しかしながら、属性が安定するのに時間がかかるのは事実じゃからのう。そなたが今どのような状態であるのか、それを調べる為にここへ呼んだのじゃ」
「えっ……そうなんですか」
 少し意外だった。
 と同時に、感謝と安堵の念が胸に広がっていく。
 ルルのことを真剣に考えてくれていて、こんなに即座に対応してくれようとしているという事実が、今はただありがたいと思った。
 いつも厳しさの中に優しさを秘めてくれている二人。
 もともと無属性という異例の存在だった為かもしれないが、何かと気にかけてもらえているのは本当に心強いと思う。
「では……そこへ立つが良い」
 初めてミルス・クレアへ来た時、そして最終試験を終えた時と同じようにイヴァンが促す。
 ルルは返事と共に頷いて、言われた場所へ移動した。
 イヴァンが杖を掲げて呪文を詠唱するのが、どこか遠い世界の出来事のように聞こえる。
(大丈夫、よね……だって、わたしちゃんと属性を手に入れたんだもの)
 自分の中で何が起こっているのかは、全く分からない。
 けれどあの日、確かに認められたはずだ。
 この身の内には間違いなく、火の属性が宿っていると。
(だから……大丈夫だもの)
 脳裏に一瞬、明るく笑うハーフドラゴンの少年の姿が浮かんだ。
 それだけで胸に安心感が広がっていくのも、いつもと同じなのだから。
 と、イヴァンの呪文によって生み出された魔法陣から目映い光が迸る。
 柔らかく身体を包むその光がゆっくりと消える頃、ヴァニアとイヴァンが小さく息を呑む音が聞こえた。
「これは……どういうことですの?」
「分からぬ……こんな例は見たことがない」
 珍しいほど困惑を露わにした二人の言葉が、ルルの不安を煽る。
 無意識に閉じていた瞼を開くと、緊迫した二対の瞳がこちらを向いていた。      
「あ、あの……」
 沈黙が痛くて思わず声を発してしまったが、その先に続く言葉を考えていたわけではない。
 再び訪れた静寂をおもむろに破ったのはイヴァンだった。
「ルルよ、そなたはもともと異例の存在であった。だからこそ、その身に起こる出来事には常に前例など存在しないのかもしれぬ」
「ど、どういうことですか?」
 鼓動がひとつ、胸を叩いた。
 胸に広がっていく嫌な予感が気のせいであると、誰かに言ってほしくてたまらない。
 けれどその願いは叶わなかった。 
 イヴァンはしっかりとルルを見据え、淡々と言ったのだ。
「そなたの今の色は――無じゃ。かつてと同じように、あるべき色が見あたらぬ」
「え――?」
 瞬いた瞳を、ルルはそのまま見開いた。
 イヴァンの言葉は耳に届いているのに、それが意味のあるものとして認識できない。

 ――何を言われているのか、わからない。

「一時は確かに存在したはずの炎の色が見えぬ。こんな事例は今までに聞いたことがないが……」
「理由は分かりませんの?」
「それが分かれば勿体ぶらず告げておるわ」
「……っ!」
 二人にそんなつもりはないのだろうけれど、その遣り取りが鋭くルルの胸を刺した。
 信じたくなどない。
 けれど事実は歴然と残酷な現実を告げていた。
 自分自身がそう感じたではないか――火の魔法を失敗した先ほどの授業で。

 ――まるで属性を持たない頃に戻ってしまったかのようだ、と。

 震える手から感覚が失せ、足元で金属音が鋭く響く。
 握りしめていたはずの杖を落としてしまったのだと気づくことすら、今のルルには困難だった。
 脳裏に再びラギの笑顔が浮かぶ。
 けれどいつものように――先刻のように、安堵の念が湧いてくることはなかった。
 彼のことを思い浮かべるのがつらい。
 ただひたすらに――申し訳なくて。
 まさかこんな気持ちを抱く日が来るなんて、考えたこともなかった。
「確かに属性が定着しきっていなかったことは事実でしたけれど、身の内に一度宿ったものが消え失せるだなんて話は、あたくしも聞いたことがなくってよ」
「いや、待て。消え失せたというのとは少し違うようじゃ。これは――」
 ヴァニアの言を聞き咎めるようにイヴァンが眉をひそめる。
 けれどそれはもうルルの耳には入っていなかった。
 落とした杖の存在すら意識の中に戻せないまま、ルルは衝動的に踵を返して学長室を飛び出していた。

(Saika Hio 2011.01.15)