きみのためにできること

4.


 目覚めた瞬間、漠然とした違和感があった。
(あれ? ……なんだろ)
 胸のあたりに何か伸しかかっているかのようで、それでいてどことなく虚無感に似たものがあるようにも思う。
 矛盾する感覚がルルの意識に波紋を投げかけたのは、ほんの一瞬。
 瞬きをひとつして身体を起こしたとき、それはもうどこか分からないところへ消えてしまっていた。
 何かを感じたことは紛れもない事実なのに、軽く頭を振って首を傾げてみても掴み損ねたものが戻ってくる気配はない。
(何だったんだろう……気のせいかなあ?)
 釈然としない思いが顔に出ていたのだろうか。
 やや表情を曇らせたアミィが声をかけてきた。
「ルル、どうかした? 具合でも悪いの?」
「え? ううん、そんなことないよ。大丈夫!」
 優しいルームメイトに余計な心配をかけないよう、殊更に明るくかぶりを振ってみせる。
 そのままルルはベッドから跳ね起きた。
 分からないことは気にしないようにしようと、気持ちを切り替えることにする。
 そもそも難しいことを考えるのは性に合わないのだ。
「今日の朝ごはん何かなあ? フレンチトーストとか食べたいかも!」
 いつもの調子でアミィに話しかけながら着替えを始める。
 既に身支度を終えているアミィはそんなルルを見ながら、いつものように穏やかな笑みを向けてくれた。
「そうね、美味しそうだと思うわ」
「うんうんっ! シナモンたっぷりだと最高よね!」
 そんな話をしていると本当に元気が湧いてくるから不思議だ。
 作り物ではなくなった笑顔で制服に袖を通す。
 と、そこで不意に動きが止まった。
「……あれ?」
 ポケットに手を入れて違和感に気づく。
 ――黒の塔の研究員から渡されたカードがない。
 昨日はポケットから出さずにそのまま寝てしまったように記憶しているけれど、知らないうちにどこかへ移しただろうか。
 机の周りやベッドの下を見てみても、それらしい物は見あたらない。
 もともと小さなカードだ。
 どこかに紛れてしまったら探すことは困難だろう。
「どうしたのルル、何かなくなったの?」
 アミィが再び心配そうに眉根を寄せる。
「え、う、ううん! なんでもないから気にしないで!」
 わざわざアミィに知らせるほどのことではないし、なくなってしまったところで困るものというわけでもない。
 まったく気にならないと言ったら嘘になるけれど、それほど大した問題ではないはずだ。
「ごめんね、時間かかっちゃって。早く朝ごはん食べに行こう?」
「え、ええ……」
 アミィはまだ釈然としない表情を浮かべていたが、それ以上追求してくることはなかった。
 やがて食堂に到着し朝食が目の前に並べられると、二人はいつも通りの会話をしながら食事を始めたのだった。


 *     *     *


 実技の授業はいつも緊張する。
 無論その理由は、毎回かなりの高確率で失敗を繰り返しているからに他ならない。
 だが今日は少し事情が違った。
 いつもと同じような緊張感を抱いて説明を聞いていたルルは、実験の内容を聞いた瞬間に思わず歓喜の声を上げそうになった。
「よろしいかしら? ここにあるふたつの鉱石は互いに異なる性質を持っていてよ。これらを熱で融合させ、どちらとも違う第三の物質を作り出してご覧なさい」
 壇上のヴァニアがそう言って、にっこりと妖艶な笑みを浮かべる。
 ちらりとその視線がこちらへ向いたようにも見えたが、ルルの意識はまったく違う方向へ飛んでいた。
(熱して、ってことは火の魔法よね。うん、だったらきっと上手くいくわ!)
 仮にも魔法使いを目指している身としては六属性すべてをそれなりに使いこなせる必要があるし、火の魔法のときだけこんなに浮かれていてはいけないこともちゃんと分かってはいる。
 けれど今まであまりにも失敗ばかりを続けてきたせいか、ほんのひとつだけでもきちんとした魔法が使えるというのはそれだけでひどく嬉しいことなのだ。
 そんな気持ちが顔に出てしまっていたのだろうか、隣にいたエストが何か言いたげにこちらへ視線を向けた。
「? どうかした、エスト?」
「……いえ、なんでもありません。本当に分かりやすい人ですね、あなたは」
「え? 何のことか分からないけど……ねえねえエスト、よかったら一緒にやらない?」
 実技授業は二人一組で行うものが多く、今日も例外ではない。
 誰と組むかは自由だが、あいにく今の教室内にルルの知り合いはほとんどいなかった。
 エストならよく見知った相手だし、ぜひ一緒にやりたいと思う。
 誘いを聞いたエストはあからさまに重々しく溜息をついた。
「お断りします……と言いたいところですが、どうせ聞いてはもらえないんでしょうね」
「え、ダメかな? エストとだったら楽しくできそうなんだけど」
「僕は授業に楽しさなんて求めていません。授業に限ったことではありませんが」
 素っ気ない物言いは普段通りだが、しかしエストはそれ以上の毒舌を続けることはしなかった。
「ですが、他に組みたい相手がいるわけでもありません。かといって格別あなたと組みたいというわけでもありませんが……とりあえず今日はよろしくお願いします」
 表現が遠回りすぎて理解するのに一瞬の間を要する。
「えっと……つまり一緒にやってくれるってことでいいのよね? よろしくねエスト!」
 それに対する返事はもらえなかったが、課題となる鉱石へ彼が目を向けたことが肯定の合図なのだろう。
 ルルもつられるように、ふたつの鉱石へ顔を近づけてみる。
 青みのある石と赤みのある石。
 今はごつごつと無骨なままだが、磨かれれば綺麗な宝石になるのだろうか。
 思わずそんな風に女子的なことを考えてしまう。
 しかしエストはごく淡々と課題に関することだけを述べた。
「性質の異なる鉱石へ変化させるということは、熱で融合させた後に土の魔法を施す必要がありますね」
「え、そうなの?」
「……物質変換の基礎くらい学んで下さい。そういうことなので、あなたには熱するところをお願いします」
 どうやらルルの疑問はごく初歩的なものであったらしい。
 エストは呆れを隠そうともしなかったが、次の瞬間ほんの少しだけ表情を和らげた。
「幸いにもあなたの得意分野らしいですからね。お任せしましたよ」
「――うんっ! がんばるわ!」
 優秀なエストに認めてもらえたことがひどく嬉しい。 
 たとえそれがごく部分的にであっても、ルルにとってはとても意味のあることだった。
 やる気と自信が身体の奥底から湧いてくるのを感じる。
 杖を握りしめ、目の前の鉱石へ視線を落とす。
(大丈夫……火はちっとも怖いものなんかじゃない)
 いつもそばで守ってくれる力。
 誰よりもルル自身が知っている優しさ。
 それらをすべて受け止めるような心地で目を閉じ、ルルは杖をかざした。
「レーナ・フラマ。炎よ、堅く閉ざされた大地のかけらをその熱で溶かして!」
 刹那、沸き上がる熱風。
 狙いどおりの効果を得られると疑いもしなかったルルは、まったく警戒も身構えもしていなかった。
 だからやけに切羽詰まった声でエストが叫んだのも、何故なのかすぐには理解できなかった。
「ルル、危ない!」
(え……?)
 エストの一声に一拍遅れて周囲からも悲鳴が上がる。
 ルルが目を開けるのと、エストが呪文を詠唱するのが同時だった。
「レーナ・アクア。水よ、荒ぶる炎をその冷気で鎮めたまえ!」
 猛り狂うような炎が視界に映ったのは一瞬のこと。
 エストの絶対的な魔力で、ルルの作り出したそれはあっけなく消し去られた。
 後に残ったのは険しく表情を引き締めたエストと、遠巻きに見守る生徒たち。
 そして杖を握りしめたまま呆然と立ち尽くすルルだった。
(な、なんで……?)
 疑問を抱いたのは、鎮火されたことに対してではもちろんない。
 あんな風に消してもらわなければいけないような危険な火を、自分自身が生み出したことに対してだ。
 昨日までと同じように唱えたはずだった。
 確かにこの身に宿っているはずの火の力を感じながら、きちんと律を編んだはずだった。
 それなのに――どうして。
「ご、ごめんねエスト――ありがとう」
「僕に謝る必要はありませんが……いったいどうしたんですか」
 エストの質問は漠然としていたが、何を問われているのかは確認するまでもない。
 だが明確な答えなどルルは持ち合わせていなかった。
 ――ルルの方が誰かに教えて欲しいくらいなのだから。
「あのっ、もう一回やっていいかな? 今度こそちゃんとやるから……!」
「……分かりました」
 エストは怒るでもなく、ルルの申し出に否を唱えることもしなかった。
 だが彼には分かっていたのかもしれない。
 もう一度同じように呪文を詠唱した結果、炎は先刻とまったく同じように暴走した。
 それを表情ひとつ変えず消してくれたエストは、そうなることを見越していたのかもしれない。
(どうして……何がダメなの……?)
 絶望的な思いが胸中を駆け巡る。
 頭を何かで思い切り殴られたかのようだ。
 できるようになったはずのことが急にできなくなる。
 そんなことがあるのだろうか。

 まるで――属性を持たなかった頃へ戻ってしまったかのように。

(……っ!)
 その考えはルルの背筋を一瞬で凍らせた。
 気づいてしまったからだ。

 ――属性がなかった頃の失敗に、今のはひどく似ている。

「ルル……大丈夫ですか?」
 さすがにただごとではないと悟ったのか、いつになく心配そうな色を滲ませた声でエストが問う。
 正直とても大丈夫とは言い難かったが、それを告げたところで彼を困らせるだけなのは分かっていた。
 だがルルが作り笑顔を向けようとするより先に、突如として高らかな足音が教室に響き渡った。
 弾かれたように振り向くルルの方へ、壇上から降りたヴァニアが無言のまま歩いてくる。
 生徒たちは何も言われていないのに自然と道を開け、程なくして彼女はルルの目の前まで辿り着いた。
「ヴァニア先生……」
 何を問おうとしたのか自分でも分からない。
 縋るようなルルの視線にもヴァニアは表情を変えず、いつも通りの淡々とした口調で用件だけを告げた。
「ルル、この授業が終わったら学長室へいらっしゃい。よろしくて?」
「っ……は、はい」
 心臓を鷲掴みにされるような心地とは、こういうことを言うのだろう。
 さざなみのように広がっていく生徒たちのざわめきさえ、今のルルの耳には入っていなかった。

(Saika Hio 2010.12.19)