きみのためにできること

2.



 ――黒の塔。

 ミルス・クレアの敷地内にありながら、一般の生徒の立ち入りは基本的に許されていない場所。
 実際、立ち入ったことのある生徒がラギの他にいるのだろうか。
 ある意味【一般生徒】ではない自分が基準になるとは思えないが、何度もそのテリトリーへ足を踏み入れた経験のあるラギでさえその全貌は知らない。 
  足を踏み入れたと言っても研究の為に用意された専用の部屋にしか入ることは許されていなかったのだから、当然といえば当然なのだが。
 知っていることと言えば、未知なる研究対象に対して尋常ならざる貪欲さを持つ者ばかりが集まっているのだということくらいだ。
 奇妙な変身体質の原因を探る為に定期的に足を運んでいたが、その度に自分へ向けられていた研究員たちの視線や態度を、ラギは決して忘れることはできないだろう。
 孤高の存在であるドラゴンを研究できるという好奇心。
 珍妙な実験動物でも扱うかのような興味本位の眼差し。
 否、眼差しだけなら可愛いものだ。
 それは無論ラギにとって心地の良いものではありえなかった。
 訪れなくてもすむようになったらどんなにいいかと、何度思ったか知れない。
 だから完全に治ったわけではないものの変身の原因がとりあえず判明した今、もうラギは黒の塔へ赴いてはいない。
 彼らに委ねるべき要素はもうないからだ。
 ルルに対してだけ変身してしまう――それは誰かに解明してもらう必要などまったくないことで。
 ラギ自身が乗り越えなければならないことなのだ。
 もちろん、自分自身の力で。
 黒の塔の研究員と会うことなどもうないと思っていたのに、なぜこの男はわざわざ塔から外へ出てきたのだろう。

 いや――理由など明白なのかもしれない。

 かつてこの男と交わした会話を思い出し、ラギはあからさまに眉根を寄せた。
 そんなラギの様子に構う風もなく、青年研究員はルルに笑いかける。
「あなたの噂を伺ってからというもの、ずっとお会いしたいと思っていたのですよ、ルルさん」
 穏やかな口調がただの慇懃無礼な物言いにしか聞こえなくて、ざわりと神経が逆撫でられる。
 だがルルはそうは思わなかったらしく、ただ不思議そうに首を傾げた。  
「噂、ですか? ええと、それって……」
「魔法使いに必要な属性を全く持たない稀有な存在であると、そうお聞きしていたので。どのような方なのかとずっと気になっていたんです」
「そ、そうなんですか」
 聞きようによっては侮辱としか思えない言葉にも、ルルは気分を害した風もない。
 突然のことに戸惑っているだけなのかもしれないが、少なくとも目の前の男に不快感を抱いている様子は見られなかった。
 端で見ているラギの方がよほど苛立ってたまらないというのに。
 しかもあろうことかルルは、自分からにこやかに言葉を続けていく。
「あの、でもわたしもう無属性じゃないんです。ちゃんと属性を手に入れましたから」
「ほう……そうなのですか」
 青年研究員は意外そうに眉を動かし、ちらりとラギを一瞥した。
 が、すぐにその視線をまたルルへ戻し、微かに頭を振って息を吐いた。
「なるほど――属性を手に入れてしまわれたのですね」
(……っ!)
 瞬間、ラギの頭にかっと血が上った。
 今のこの男の言い方だと、まるでルルが属性を手に入れたことが喜ばしくないことのようではないか。

 ――試験に合格したあのとき、心の底から喜んでいたルル。

 ラギも自分のことのように嬉しかった。
 半年もの間ずっと必死で努力して、ようやく得た結果だからだ。

 それなのに、まるで――それを真っ向から否定するかのように。

「では今はすっかり魔法も安定しているのでしょうか?」
「ええと、それがそうでもなくて……まだたくさん失敗しちゃってます」
 馬鹿正直に申告するルルを見て、青年研究員の瞳が興味深げに光ったような気がした。
「そうですか。完全に安定するにはもう少し時間がかかるのかもしれませんね」
 妙に訳知り顔なのはわざとなのだろうか。
 いらいらと逆立つ胸の内が、得体の知れない警告のようなものを訴えてくる。
「ルルさん、もしお困りのことがあったら黒の塔はいつでも協力しますよ」
「え?」 
「我々は、まだ広く公に知られていないような魔法の研究もしていますから。何かあなたのお力になれることもあるかもしれません」
「いい加減にしろよ、てめー!」
 堪忍袋の限界は存外早く訪れた。
「そうやって、こいつまで実験動物扱いしようってのか?」
 たまりかねて口を挟んだラギを、ルルが驚いたように、青年研究員が面白そうに、それぞれ見る。
「ら、ラギ? そんなのじゃないと思うわ。わたしのこと心配して言ってくれて――」
「いーからおまえはちょっと黙ってろ」
 ルルにかかると誰でも善人になってしまうのだろうか。
 あながち間違っていない気がして軽く目眩がする。
 それについてはやはり一度きちんと説教しておく必要があるような気がするが、今はとにかく目の前の事態を収拾する方が先だった。
「聞いての通り、こいつはもう無属性じゃねー。残念ながら、あんたらの研究対象とはなり得ねーよ」
「やれやれ。だから無属性のうちにお会いしたいと思っていたのに――」
「うるせー!」
 叩きつけるように怒鳴っても、青年研究員は微かに口の端を持ち上げただけだった。
「……仕方ない。今日のところは引き下がりますよ。――ルルさん」
「え、あ、はいっ!」
 この期に及んでまだルルに声をかけることを諦めない根性は、いっそ賞賛に値するのかもしれない。
「またお会いしましょう。次はゆっくりお話できることを願っています」
 言いながらにっこりと笑いかけ、一応ラギにも目礼してから彼は去っていった。
 その姿が完全に見えなくなったのとほぼ同時に、重い吐息がラギの口から零れる。
「ったく……冗談じゃねー」
 実際に会話していたのはさほど長い時間ではなかったはずなのに、嫌な疲労感が全身にまとわりついている。

 ――まさか今になってあんな輩がやってくるとは思わなかった。

「ラギ? あの……今の人は知り合いなの?」
「知り合いってほどでもねーけどな。……口きいたことなら、ある」 
「そうなのね。優しそうな人だったけど――」
「ぱっと見のイメージだけで判断してんじゃねーよ」
 このルルという少女は、こんな調子でいったい今までどうやって世の中を渡ってきたのだろう。
 つくづく危なっかしくて仕方ない。
 それとも、黒の塔の内情を知らない者の反応というのは皆こんなものなのだろうか。
「おまえは知らねーから、んな呑気なこと言ってられんだよ」
「え、何を?」
「あいつらが未知の研究対象となり得るものに対してどれだけ貪欲で容赦ねーか……知らねーだろ」
「それは……」 
 黒の塔と自分との関わりは、以前に話したことがある。
 そこでどんな扱いを受けていたかも含めて。
 だからだろう、何のことを言われているのかようやくルルも思い至ったらしい。
 何故か自分自身が傷つけられたような顔をして、ルルはラギを見た。
「ラギ、それって……」
「勘違いすんなよ。オレのことは別にいいんだ。そーいうことが言いたいわけじゃなくて……おまえも気をつけろって話だ」
「え、わたし?」
 言いながら不思議そうな顔で自身の顔を指差すルル。
 先刻の会話を経てもまったく実感は伴っていないらしい。
 無理もないといえば、そうなのかもしれない。
 内心で溜息をつきながら、ラギは言った。
「さっきあいつが言ったみたいに、おまえが無属性ってことは実は黒の塔のヤツらにもけっこう知れ渡ってたらしーんだ。滅多に例のないことだからぜひいろいろ知りてーだとかなんとか……如何にも研究のことしか考えてねーヤツの言いそうなことだよな」  
「そうなの……ぜんぜん知らなかった」
「まさかとは思うが、間違っても黒の塔のヤツらと関わり合いになろうなんて思うなよ?」
 さっきの様子を見ていると、甘い言葉にフラフラつられて行きかねない。
 やはりと言うべきか、ルルは僅かに首を傾げた。
「うん、でも……無属性だったわたしに興味があったんでしょう? 今はもう属性を身につけたから、研究の必要もないんじゃないかしら」
「だったら立ち去る前に『またお会いしましょう』なんて言うわけねーだろ」
「でもそれって普通に挨拶の一種じゃない?」
「……おまえはそういうヤツだよな」
 思わずがっくりと脱力してしまう。
 ルルの辞書に警戒心という単語を記載させるためには、いったいどうしたらいいのだろう。
 確かに理屈としては、ルルの言い分は筋が通っている。
 無属性だった頃ならばともかく、今のルルは失敗こそ多いものの普通に属性を持った他の生徒と変わりはないはずだ。
 だが、黒の塔の連中はとかく一筋縄では行かない。
 元無属性、というこじつけのような理屈で研究したがっていても、なんら不思議ではないのだ。
「あーもー、とにかく! 黒の塔のヤツらについていったりとかぜってーすんじゃねーぞ! 菓子とか貰ってもついていくなよ!」
 小さな子どもに言い聞かせるような物言いになってしまったが、ある意味ルルは小さな子どもなどより遙かに危なっかしいので、これはこれで間違った忠告でもないのかもしれない。
 少なくとも黒の塔に連れ込まれるようなことさえなければ大丈夫だろう。
 ラギの剣幕にさすがのルルも気圧されたのか、ようやく素直に頷いた。
「う、うん、大丈夫。ちゃんと気をつけるわ!」
 珍しく殊勝な顔だが、果たしてどこまで本当に分かっているのだろう。
 こんな風だからとても放ってなどおけないのだ。
 胸中で思わず本音がこぼれた、そのとき。   
「ありがとうラギ、心配してくれて」
 突然そんなことを言われ、ラギは目を見開いた。
 つい今し方の真剣な表情はどこへやら、ルルは微かに頬を上気させながらにこにこと笑っている。
「な……」 
「いつもわたしのためにすごく真剣になってくれて、ほんとにありがとうラギ。大好き!」
「! だ、だからそういう恥ずかしいことを言ってんじゃねーよ!」
 全身が沸騰したように熱い。
 このままではルルに触れなくても変身してしまいそうだ。
「だー、もう、さっさと帰るぞ! メシだメシ!」
「うん、おなかすいちゃったね」
 大股で歩きだしたラギを、足音と明るい笑い声が追いかけてくる。
 ルルにはいつもこんな風に笑っていて欲しいと、本当に心から思う。
 そのために何ができているかなんて、自分では分からないけれど。

 ――『いつもありがとう、ラギ』

 当たり前のようにそう言ってくれる少女は間違いなく、かけがえのない存在であるはずだから。
 理不尽な力になど絶対に渡したりはしない。
 かつて同じことを思った時のことが、ラギの胸に去来する。


 *     *     *


 ――『属性を持たない少女がいるそうですね』

 あれはルルが転入してきて三ヶ月ほど経過した頃だったろうか。
 一向に成果の見えない定期検査を終え、うんざりしながら黒の塔を後にしようとしていたラギにそう声をかけてきた者がいた。
 人懐っこそうな顔をした青年研究員はラギの調査チームの人員ではないらしいが時々姿を見せることがあったので、顔くらいはラギにも見覚えがあった。
『ああ? 何の話だ』
『そのままのお話ですよ。なんでも、無属性の少女が転入してきたそうじゃないですか』
『……それがどうかしたのかよ』
『属性を持たないだなどと、何十年に一度現れるかどうかという希少な存在です。ぜひいろいろとお話を伺ってみたくて』
 顔には笑みが浮かんでいるが、どうにもそれが貼り付いた胡散臭いもののようにしか見えない。
 無属性と言えば間違いなくルルのことだろうが、素直に応えてやる気にはならなかった。
『知らねーよ、んなこと。オレには関係ねー』 
 わざと素っ気なく言ってやると、相手はますます目を細めた。
 まるでそういう反応をあらかじめ予測していたかのように。
 そして彼の口から続けられた言葉は、逆にラギの予想を遙かに越えていた。
『そうですか? しかしあなたと親しくしていると伺ったもので。あなたに訊くのが手っ取り早いかと思ったのですが……見当違いだったでしょうか』
『なっ……!』 
 刹那、ぞくりと背筋に走った寒さは今でも忘れられない。
 いろいろなことを見透かされているような空恐ろしさと、純粋な興味には到底見えない目の前の瞳。
 魔法が使えないラギにはよく分からないが、無属性が珍しい存在だというのは事実らしい。
 研究のことしか考えていないようなこの塔の連中がルルのことを聞き出して何がしたいのか――確認する勇気はなかった。
 お話を伺うと今この男は言ったが、それはおそらく言葉どおりだけの意味ではないのだろう。
 それ以上会話を続けるのが危険だということだけはなんとなく分かったから、ラギは可能な限りの鋭い視線で相手を睨みつけた。
『知らねーっつってんだろ! くだらねーこと訊いてくんじゃねーよ!』
 ルルに関する情報を与えてはいけない。
 そう自然に思うくらいには、既にこのとき自分は彼女に惹かれていたのだろう。
 意外にも相手はそれ以上食い下がってくることはしなかった。
『そうですか……それは失礼しました』
 静かに立ち去る男の背を見送ることなく、ラギも足早に黒の塔を後にしたのだった。 


 *     *     *


 それ以来、黒の塔を訪れる度にあの男と会う可能性があることを恐れた。
 だが幸いにもあれから顔を合わせることはなく、彼の他にルルのことを訊いてくる者もほとんどいなかった。 
 黒の塔からわざわざ校舎棟の方まで出向いてくる輩がいるなどとは考えもしなかったし、そうこうしているうちにルルは無事に属性を手に入れたから、あの出来事さえすっかり忘れていた。

 それが何故――今になって。

(こいつは属性を手に入れたんだ……もうあいつらの欲しがるような珍しい存在じゃない) 
 だからきっとこの焦燥感は取り越し苦労に違いない。
 そう自分に言い聞かせながらも、胸のざわめきはなかなか消えてくれそうになかった。

(Saika Hio 2010.10.25)