きみのためにできること
何よりもいちばんに守りたいもの。
そんな存在に出会うのは、一生のうちに一度きりでいい。
いつかそんな日が来るのだろうと思いながら描いていたイメージはあまりにも漠然としすぎていて、本当はあまり現実味はなかった。
だから、どうしても戸惑いが消せない。
こんなにも全力で守りたいと想う相手に出会ってしまった今、いったい自分はどうしたらいいのだろうと。
――こんな未熟な自分に、いったい何ができるのだろうと。
1.
「ラギ!」
弾むような声に名を呼ばれ、顔をそちらへ向ける。
ふわふわの髪とそこに結んだリボンを揺らしながら駆けてくる姿をどんな表情で迎えたらいいのか、実は未だによく分からない。
だがラギが胸中でそんなことを考えている間に相手は目の前まで辿り着いてしまい、陽だまりのような笑顔でラギを見上げるのだ。
だからその答えを導き出せないままに思考は途切れ、意識は眼前の相手に奪われてしまう。
いつもその繰り返しであり、今日もそのパターンは崩れなかった。
但し意識を奪われると言っても、いわゆる恋人同士のそれとはおそらく微妙に違うのだろうけれど。
「だー、ったくおまえはなんでそういつも全力疾走してきやがんだ! ちっとは落ち着け!」
勢いよく突進してくる彼女と過剰に接触しないよう軽く身を引きながら、いつものように容赦なく叱りつける。
が、相手は全く意に介していない様子で、にこにこと無邪気な笑みを向けながら言った。
「だって、落ち着いてなんかいられないわ! 授業が終わってようやくラギに会えたんだもの!」
「な……っ」
途端、ラギの全身に熱が点る。
いつも思うが、よく臆面もなくこういう台詞が吐けるものだ。
悪い気はしないが――というよりむしろ嬉しいに決まっているのだが、あいにくそんな本音を素直に伝えられるような器量はラギにはない。
不自然に目を逸らしながら、ラギは長い溜息を吐き出した。
「あのな、ルル――」
「あ、ごめんなさい。待たせちゃったかしら? 先生に質問してたら遅くなっちゃったから……」
「いや別にそんな待ってねー……じゃなくて!」
「?」
「――いや、やっぱいい」
今の胸の内をどんな言葉で表現したらいいかなど、皆目見当もつかない。
目の前の笑顔を見ていたら、あれこれうるさく言うのがひどく無意味な行為に思えてきた。
――それも、いつものことだ。
ルルに対して抱く感情をどんな風に伝えたらいいのか、ラギにはどうにも分からないのだ。
もっとも根本的な部分――すなわち「好きだ」という想い――だけは一応、伝えた。
ルルからも同じ想いを貰った。
だからこそ今、自分たちは恋人同士という間柄でいるわけなのだが――ではそこから先は、どうしたらいいのだろう。
ミルス・クレアは魔法学校なのだから当たり前なのだろうが、ルルは魔法使いになることを夢見ている。
無属性という、他に類を見ないらしい存在だった彼女はその夢を絶たれそうな危機に瀕していたが、半年間必死で勉強してどうにか属性を手に入れた。
ルルが身につけた属性は、火――ラギの持つそれと同じもの。
それが判明したときに古代種の双子の先生たちが何やら意味ありげな顔でラギを見ていたのは、なんだったのだろう。
意味ありげというか微笑ましげというか――とにかく何らかの含みを感じる表情だったのだが、それを問い質すような勇気はラギにはなかった。
ともあれ、ルルは試験に合格した。
パートナーとして協力したラギにとっても、あの試験はひどく大きな意味を持つものだったと言える。
ルルの試験にパートナーが必要なのだと知った時は、頼まれるまでもなく当たり前のように協力してやりたいと思った。
それくらい、既にラギの中でルルの存在は大きすぎるものになっていたのだ。
けれど魔法が使えない自分にそんな申し出をする資格はないと思っていたから、最初から諦めていたのに。
そんなラギに、ルルは言ったのだ。
――『魔法が使えるとか使えないとかそういうことじゃなくて、ラギにパートナーになって欲しいの!』
あの言葉がどれほど嬉しかったか、ルルはきっと知らない。
誰より守りたいと想う存在が、自分を必要としてくれた。
それがどれだけの勢いでラギの心に灯を点したのか、ルルは知らないだろう。
けれど、知らなくてもいいと思う。
それはラギの中にだけ、揺るぎないものとして残っていればいいのだろうと思うから。
ルルを守りたい。
ルルのためにできることがあるのなら、それをしたいと思う。
だが――魔法使いになりたいルルのために、魔法の使えないラギができることなどあるのだろうか。
恋人同士になった今でもまだ、ルルに触れるのは難しい。
それはラギの覚悟のなさが原因であり、ルルには何ら責任のないことだ。
中途半端なまま、どちらを選ぶことも躊躇している弱さ。
それでも――それを分かっていても、ルルはラギを慕ってくれる。
全身で、彼女の存在すべてで、好きだと告げてくれている。
それに応える術を、この手は持っているのだろうか。
自分では分からない。
かといって、誰かに指南してもらうような類のことでもない。
自分で導き出すしかないのだ――それがどんなに困難であっても。
「つーかおまえ、ちっとはまともに魔法使えるようになったのか?」
思考の渦を振り払い、わざと何気ない調子で問うてみる。
ルルは曇りのない笑顔で、勢いよく首を頷かせた。
「うん! ……ええと、少しは、だけど」
勢いがよかったのは最初の一声だけだった。
だんだんと語尾が小さくなっていき、えへへ、という曖昧な笑みに変わる。
ラギは思わず素で噴き出していた。
「そういやおまえ、この前も教室を水浸しにしてたもんな」
「あ、あれは……っ! で、でも失敗の回数はずいぶん減ったのよ!」
「おまえの場合は元が多すぎただけだろ」
「そ、そうとも言うかもしれないけどー!」
何を言われても毅然と反論しきれない姿が、微笑ましくてたまらない。
と思っていたら、いきなりルルの表情がぱっと華やいだ。
「でも、でもねっ! 火の魔法は失敗しなくなったの! ホントよ!」
「へー、そりゃすげーじゃねーか」
あまりに嬉しそうな様子に無粋なからかいを差し挟む気にはならず、素直に感嘆してやる。
と、ますます嬉しそうにルルは笑った。
「ふふっ、あのね、それってラギのおかげよ」
「なんでそうなるんだ? オレは別になんもしてねーぞ」
「いつもね、火の魔法を使うときはラギのことを思い浮かべるの」
「……はぁ? なんだそりゃ」
「ラギが持つ性質と火の力とは、きっと同じだから。わたしに力を貸して、ってお願いするような気持ちで律を編むの。そうしたら、すーっと気持ちが落ち着くのよ」
「……」
なんだかものすごく恥ずかしいことを言われたように思うのは、きっと気のせいではないだろう。
相槌を打つことすらままならなくなってきた。
「だからラギのおかげなの。いつもありがとう、ラギ」
「! だからなんもしてねーって言ってるだろ!」
そろそろ限界である。
これ以上ルルのこんな様子を目の前にしていたら、抱き締めてしまいたくなる――。
「――っ」
うっかり伸ばしてしまいそうになる腕を理性の力で押さえ込んだ、そのとき。
独特の気配を背後に感じ、ラギは弾かれたように振り向いた。
視線の先にいたのは、ラギより少し年上に見える青年。
このミルス・クレアにいるからには学校関係者ではあるのだろうが、身に纏っているのはラギたちと同じ学生の制服ではない。
青年は異様なほど人懐っこい笑みを浮かべてこちらへ近づいてきた。
「こんにちは、ラギさん」
「おまえは――」
「ラギ? お友達?」
「バカ、んなわけあるか」
知り合いか、ではなく友達かと尋ねるあたりがルルのルルたる所以なのだろう。
その警戒心のなさをいい加減どうにかしろと、改めて言い聞かせる必要があるかもしれない。
そんなことを思いながら青年へ視線を投げる。
何度か会話をしたことはある相手だ。
その会話の内容を思い出すだけで反吐が出そうになる。
笑みの張り付いた青年の顔を最大限の険しさで以て睨みつけてみたが、相手は全く動じる風もない。
彼はそのままルルへ向き直り、慇懃に頭を下げた。
「あなたがルルさん……ですね?」
「あ、はい、そうですけど……あなたは?」
小首を傾げて尋ね返すルルへ、青年はにっこりと頷いた。
「初めまして。私は黒の塔で魔法についての研究をしている者です」
(Saika Hio 2010.10.23)