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● 紅い幻  ●


 夕暮れを見るのは好きではない。

 ――あの日の空を、どうしても思い出してしまうから。


 *     *     *
 

 馬に乗るのを怖がらない女は初めて見た。
 怖がらないどころか面白がってさえいる様は、勝真の胸に奇妙な感覚をもたらして止まない。
「……おまえって変わってるな」
 馬から下ろしてやりながら、無意識にそんな呟きが零れる。
 ごく小さな声だったはずだが、至近距離ゆえに花梨の耳にも届いたらしい。
 地面に足をつけるのとほぼ同時に、彼女は小さく首を傾げた。
「? 何がですか?」
 無邪気に瞬く瞳で見上げてくる花梨。
 僅かに騒ぐ胸を抑え、さりげなく目を逸らしながら勝真は静かに息を吐いた。
「……いや、なんでもない」
 手頃な木に馬を繋ぐ間、花梨は静かに待っていた。
 問い返されたらどう答えようかと密かに考えあぐねていた勝真だったが、もうそんなことなど気にも止めていない様子で物珍しそうに辺りを見回している。
 この船岡山まで上ってきたのは初めてなのだろう。
「ずいぶん上ってきたんですよね」
「ああ、徒歩だとかなりかかるだろうな」
「そうなんですか。じゃあ馬に乗せてもらえてラッキーでした」
「……は?」
 小さな唇からときどき不意に飛び出す、勝真の知らない言葉。 
 当惑を即座に察知したらしい花梨は、慌てて続けた。
「あ、ごめんなさい。ええと、ラッキーっていうのは運が良かったってことです」
「馬に乗るのが怖くはなかったのか?」
 先刻も抱いた疑問を投げかけてみる。
 すると心底嬉しそうな顔で花梨は頷いた。
「全然! 風が気持ちよくて、すっごく面白かったです!」
 いささかの迷いもない言葉は、勝真の胸に再び不思議な感覚を植え付けてくる。
 京の常識では計りきれない基準ばかり持ち合わせている目の前の少女。
 それは異世界からやってきたがゆえなのか、それとも――。
「紅葉って遠くから眺めるのも綺麗ですけど、こうやって近くで見るのもいいですよね」
 変わらず明るい声が、思考に没頭していた勝真を現実へ引き戻した。
 枝や葉を傷つけないように気を遣いながら触れていく細い指。
 いとおしそうにそれらを見つめる煌いた眼差しと、半分伏せられた長い睫毛。
 嬉しそうな笑みを刷き、微かに艶を含んで光る小さな唇。
 そこには何故かいつもの童めいた幼さではなく、もっと違う何かが垣間見える。

 ――どことなく「女」を感じさせる気がする。

(なにを考えているんだ俺は……)
 我に返った途端にばつが悪くなり、乱雑に髪を掻き回す。
 そのまま花梨から目を逸らしたとき、視界の端を何かが横切った。
「あ、トンボ!」
 それが自分の目の前を通るや否や歓喜の声を上げたのは、もちろん花梨だ。
 彼女はそのままとんぼを追いかけて木の向こうへと駆けて行く。
「おい、あまり遠くへ行くんじゃないぞ」
 反射的に声をかけたが、おそらく届いてはいないだろう。
 小さな影を見送りながら幾度か瞬きを繰り返した勝真は、やがて深々と溜息を落とした。
「ったく、前言撤回だ――やっぱりあいつはガキに間違いない」
 とんぼを追いかけて山を駆け回る年頃の女など京でお目にかかったことはない。
 花梨の世界でそれが普通なのかどうかは知らないが、少なくとも勝真にとっては珍しいことこの上ない。
 あまりにも型に嵌らなさすぎる破天荒な少女は、それこそ子供のように笑いながらとんぼと戯れている。
 先刻感じた女らしさなど、片鱗さえも今の花梨から感じることはできない。
 やはり錯覚だったのかと失笑が零れるのと同時に、少し残念な気分が浮かぶのも事実で。
 だが――。
(あいつは、ああやって笑っているのがいちばん似合うような気がするな)
 勝真にはもういささかも残っていない純粋さや透明さ。
 昔は確かに同じものをこの身に持っていたはずなのに。
 笑うことも喜ぶことも楽しむことも、本当の意味でできていたのはあの日までだ。

 あの日――猛り狂う獣のような紅の空の下で、この世にたったひとり取り残されたのだと思って。
 それほど不安で、恐ろしくて――誰でもいいから救いを求めた。
 けれどやっと現れてくれた助けの手は、勝真が願ったような救いではなく。
 命を永らえた代わりに、その他のすべてが勝真の掌から零れて消えた。
 その日を境に、まるで厚い帳を下ろしたようにそれまでの自分を遮断して、自分を取り巻くすべてを否定しながら勝真は生きてきた。
 そんな勝真が失った様々なものを、驚くほど自然に彼女は持っているから。

 ――勝真の基準になど、当てはまる必要はないのだろう。

 そう考えた途端、自分の中で何かがすんなりと収まったような気がした。
 花梨が不可思議な存在であることに変わりはないけれど、彼女はそれでいいのだと思う。
 どのみち今日は息抜きをさせてやりたくて連れて来たのだ。
 少しくらい羽目を外す様を見るのも、悪くないのかもしれない。
「見て見て勝真さん、ほらっ!」
 呼ばれて見遣ると、花梨の細い指の上にはなんとも器用にトンボが乗っている。
 知らず瞬きを繰り返した後、自然に勝真は吹き出していた。
「おまえ……まるで野生児だな」
「えー? ひどいですよ勝真さん!」
 途端に頬を膨らませる花梨。
「そう怒るなよ。誉めてるんだぜ」
「とてもそうは聞こえないんですけど……」
 まだぶつぶつ言いながらも花梨の目が本気で怒っているわけではないのは分かったので、勝真もただ笑ったまま、それ以上言い繕うことはしないでおいた。


 *     *     *


「すっかり遅くなっちまったな」
 気付けばもう西の空はすっかり紅に染まっている。
 明日もきっといい天気なのだろう。
 そう思えば、この空の色も明るい気持ちで見ることができるのかもしれないけれど。

 山も木々も町並みさえも――視界に映るすべてを朱に染め上げるこの色は、嫌だ。

 ――最も思い出したくない記憶を喚起して止まないから。

「ごめんなさい、遊びすぎちゃいましたね……」
 別に謝ることはないさ。今日は息抜きのつもりで来たんだしな」
 夕陽に背を向ける勝真を見上げて微かに眉尻を下げた花梨だったが、そう返されて少し安心したような顔になる。
 そして勝真の肩越しにその視線を動かした途端、彼女の頬にみるみる笑みが広がった。
「今日の夕焼け、すごく綺麗ですよ勝真さん!」
 言われた瞬間、どんな顔をしたらいいのか本気で分からなかった。
 当たり前だが花梨の目には、夕焼けは夕焼けとしか映らないのだろう。
 紅葉を見たときやとんぼを追いかけていたときと寸分違わない輝きをその瞳に宿し、動かない勝真の横をすり抜けて夕陽がよく見える場所へ駆け出していく。
「わぁ、ここからだと京の町がよく見えるからほんとに綺麗ですね」
 ね、勝真さん、と背中に聴こえる無邪気な声。
 そのまま聞こえないふりをして帰る支度をすることもできたのかもしれない。
 けれど彼女の声を無視することはどうしてもできなかった。
 あるいは自分ひとりに向けられているであろう笑顔を、見たいと思ったからだろうか。
 なんにせよ勝真は振り向いた。
 できれば見たくないと思っていた夕陽が否応無しに視界を染める。

 目に映るすべてが赤く――まるで燃えているかのように。

 そしてその朱の中に立つ花梨を見た刹那、勝真の心臓は凍りついた。
(っ―――!)
 燃える空。
 どこまでもただ赤く、何もかもを飲み込んでしまうような。
 あの日、こんな色の空の下で、いったいどれほどのものを失っただろう。

 そして今――また。

「花梨……っ!!」
 無我夢中とはこういうことを指すのだろうか。
 目の前の少女が一面の紅の中に飲み込まれてしまいそうな焦燥感に捕らわれたのは、刹那のこと。
 何かが爆ぜたように真っ白になった思考では満足に考えることすらできず、気付いたら勝真の手は花梨の細い二の腕を両側から力任せに捕らえていた。
「か、勝真さん? どうしたんですか?」
 突然のことに身をひとつ跳ねさせた花梨は、しかし勝真の暴挙を責めるでもなく、戸惑う瞳をせわしなく瞬いている。
「だ……大丈夫ですか、勝真さん……?」
 そっと手首に触れられて初めて、自分が微かに震えていたことを知る。 
 我に返るにはそれだけで十分だった。
「すまん……驚かせたな」
 静かに手を放して呟くと、花梨はふるふるとかぶりを振った。
 見上げてくる瞳は明らかにそれと分かるほど不安げで。
 そんな顔をさせていたくないと思った途端に、言葉が零れていた。
「夕焼けは――嫌いなんだ。何もかもを包み込んで燃やし尽くしてしまいそうで……禍々しくて、好きじゃない」
 つい今しがたの馬鹿げた錯覚をそのまま伝える気にはならなかった。
 さすがにそこまで情けない姿を見せたくはない。
 だから差し障りのない範囲で嘘ではない言葉を告げると、花梨は少し考えるような様子になった。
「夜を運んでくるから……ですか?」
 ややあって小さな口から放たれた質問は如何にも花梨らしい。
 高ぶっていた神経が緩やかに凪いでいくのを勝真は確かに感じた。
「そういうわけじゃ――いや、まあ……あながち間違いでもないのかもしれないけどな」 
 すべてを真っ赤に染め上げ、やがて暗闇へと変えてしまう夕陽。
 大切なものをことごとく燃やして、絶望だけを残していったあの炎。
 両者を重ね合わせてありもしない幻影に捕らわれたのは本当だが、
 こんな曖昧な返事では答えにはなっていないだろう。
 それでも、すべてを話して聞かせることは、今はまだできそうにない。
 けれど花梨は気を悪くした風もなく、微かに笑みさえ浮かべて勝真を見た。

「でも夕陽は、明日また新しく昇ってくるために沈むんですよ」

「何……?」
 あまりにも突拍子がなさすぎて、意味を理解するのに数秒を要する。
「なんの……話だ?」
「あ、いえ、勝真さん夕焼けが好きじゃないって言うから――」
 慌てたように言葉を次ぐ花梨。
「だから、夕陽にも事情があって頑張ってるんだって思えば、少しは好きになるかなって……」
「………は?」
 異国の言語でも聞いたのかと、一瞬本気で思った。
 だが、言っていることの意味が分からなかったわけでは決してないと即座に気付く。
 そして意味を理解した次の瞬間には、勝真は声を上げて笑っていた。
「か、勝真さん?」
 いきなり笑い出した勝真を、花梨が不安そうに見上げてくる。
 その頭の中にはおそらく無数の疑問符が飛び交っていることだろう。
「どうしたんですか? わたし何かおかしなこと言いました?」
 しかも馬鹿がつくほど生真面目に問い掛けてくる。
 自分の言葉にどれほどの力があったのかなど、本人は知る由もないに違いない。 
 説明など到底できようはずもなく、ひとしきり笑った勝真は万感の思いを込めて花梨を見た。
「……本当におまえって変わってるよな」
 こんなに読めない言動をする女は、きっと二人といないはずだ。
 他愛のない戯言と言ってしまえばそれまでだが、確かに今の一瞬で勝真の意識は驚くほど軽くなった。

 沈む太陽を見るのはあれほど嫌だと思っていたのに。
 見事な夕映えの町を、不思議なほど穏やかな気持ちで見下ろすことのできる自分がいる。

「確かにこの夕陽は綺麗だと――思えなくもないな」
「ほんとですか!」
 灯火のようにぱっと輝く笑顔。
「好きになれそうですか?」 

「ああ。――好きだな」

 花梨が尋ねたのはもちろん夕陽のことだろうと分かったが、勝真の返答には別の意味が篭っていた。

 ――それを教えてやるつもりは、今はまだないけれど。

 あの日、手から零れて跡形もなく消えたと思っていたものは。
 もしかしたら、まだ微かに残っていたのかもしれない。

 いや、それとも――違う何かをこの手は新たに掬い取ったのだろうか。
 
 どちらにしても、今度こそ手放さずにいられたらいい。


 ――手放さないように、今度こそ守っていたい。

 
 〜END〜(written by Saika Hio 2005.11.04)

 

 <あとがき>
 勝花が書きたくて作ったはずのお題がすっかり放置プレイでしたので、一念発起して書いてみました。
 この二人にしてはちっとも甘くない話になってしまいましたが、たまにはこういうのもいいかな(苦笑)。
 夕陽と大火の炎を重ね合わせて錯覚して――というところが書きたかっただけの話です。
 その後の花梨ちゃんの台詞は言わずと知れたあの歌のアレです…すいません…!(陳謝)
 それと、勝真さん夕焼けキライだとか勝手な捏造設定作っちゃってすみません…。

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