だいすき

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 京の気が正常に巡り始めたというのは、こういうことも含まれるのだろうか。
 向かいに座る妹の姿を見ながら、ぼんやりとそんなことを思う。
 身内でありながら、分かり合うことなど決してできはしないだろうとずっと思っていた。
 些細な誤解から生じた大いなるすれ違いだったことが判明してからも、素直に歩み寄るにはどことなく気恥ずかしさがつきまとっていたのだが。
 まさかこうして同じ車に揺られながら出かける日が訪れようとは。
 これが正しい兄妹の姿なのかどうかはよく分からないが、少なくとも反目しているよりは良い関係だと言えるのだろうか。
「……いかがなさいました、兄上?」
 視線に気づいたのか、黒目がちな瞳がゆっくりとこちらを向く。
 勝真は軽く首を振って肩をすくめた。
「いや……奇妙な巡り合わせもあるものだと思ってな」
「奇妙、ですか」 
「こうしておまえと行動を共にするなんて考えたこともなかったから、不思議な心地だぜ」
「……ご迷惑でしたか?」
「別にそんなことはない」
 小首を傾げて問う小さな声がどこか不安そうに聞こえて、思わず苦笑がこぼれる。
「変に遠慮する必要はないさ。ただ少し驚いただけだ」
「え?」
「おまえが俺に供を頼んだことと、その行き先が花梨のところだってことに、な」
 花梨の名を聞いた瞬間、長い睫がぴくりと揺れた。
 細い面に微かな緊張が走る。
 それを少しでも和らげてやれるように、勝真は可能な限りの穏やかな声音で言った。
「おまえが花梨と親しくなりたいと言い出すなんてな、千歳。憑き物が落ちたようだってのはこういうことを言うのか」
「……それはもしかして、誉め言葉のおつもりで言ってくださっているのですか」
 どこか複雑そうな色を滲ませた声で問い返す千歳。
 怒らせたかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
 その視線は純粋に勝真の真意を測ろうとするものに見えた。
「誉めるなんて大層なつもりはないが、いいことだとは思う。おまえに親しい相手ができるのも、その相手が花梨だってことも」
「そうなのですか?」
「ああ、花梨は誰とでも分け隔てなく関わりを持てる奴だから、おまえも気楽につき合えると思うぜ。……そんなに身構えなくてもな」
「……そう――ですか」
 小さくそう呟いたきり、千歳は黙り込んでしまった。
 だがその横顔がどことなく嬉しそうに見えるのは、気のせいではないだろう――おそらく。
 何を考えているのか分かりづらい妹だと思っていたが、意外とそうでもないのかもしれない。
 それはそれで、嬉しい発見だと思う。
 そんな遣り取りをしているうちに紫姫の邸に到着した。
 出迎えに現れた花梨が、いつも以上に明るい笑顔でぺこりと頭を下げる。
「こんにちは勝真さん。千歳も来てくれてありがとう」
「ああ。今日はこいつがどうしてもって言うから、一緒に連れてきたぜ」
「いつでも大歓迎ですよ!」
 花梨はひたすらに上機嫌である。
 手放しの歓待に面食らう千歳に気づいているのかいないのか、とにかく笑顔だ。
 その姿を見ているだけで微笑ましい心地になるのは気のせいではない。
 花梨が笑っていると、胸に明かりが灯る。
 いつからなのかさえ思い出せないほど、当たり前のように心の内にある感情。
「嬉しいな、ゆっくりしていってね」
 言葉通りの嬉しさを隠そうともしない花梨。
 対照的に千歳はただ瞬きを繰り返しながらその様子を見ている。
 案内される間も到着した部屋で座ってからも、その口から言葉が紡がれる様子はなかった。
 一見するとただの無表情だが、内心で困り果てているのは明らかだ。
 勝真自身も決して人付き合いが得意とは言いがたいが、この妹はそれに輪をかけて不器用なのだろう。
 胸の内の苦笑を押さえられないまま、勝真は千歳を見た。
「今日は言うことがあって来たんじゃないのか?」
「……それは――」
 水を向けてみてもやはり千歳は目を逸らすばかり。
 不思議そうに首を傾げる花梨に申し訳なさそうな目を向けはしたが、それだけだ。
 やれやれと溜息をついた勝真は、改めて花梨に向き直る。
 花梨は不思議そうに勝真と千歳を見比べていた。
「二人とも……どうかしたんですか?」
「いや、別にどうもしてないんだが――」
 こういう世話を焼くのはあまり自分の性分ではないのだが、仕方ない。
 このまま顔を付き合わせていてもただ時間ばかりが過ぎていくだけだ。
「あのな花梨。千歳が改めて、おまえと仲良くしたいんだそうだ。今日はそれを言いにきたんだ」
「え?」
 花梨が大きな目を見開く。
 千歳は微かに非難がましい目をこちらへ向けたが、文句を口にすることはなかった。
「ええと……それって」
 戸惑うように瞬きを繰り返していた花梨は、千歳が否定しないことを見て取るや、途端に表情を輝かせた。
「嬉しい! 千歳からそう言ってもらえるなんてすごく嬉しいよ!」
「……え」
「ありがとう千歳! これからもよろしくね!」
 花梨のこういう反応をなんとなく予測していた勝真は特に驚きはしなかったが、千歳はそうではなかったようだ。
 信じられないものを見るような目で、花梨の満面の笑顔を食い入るように見つめている。
「だから言っただろう、何も身構える必要なんかないって」
「え? 身構えるって……千歳もしかして緊張してた?」
「ああ、おまえに突っぱねられると思ってたみたいだぜ。まあ今までの経緯を考えれば当然の不安かもしれないが」
「そんな!」
 からかうように笑ってみせると、花梨は心外だと言わんばかりに首を振った。
「そんなことしないよ千歳! わたしのほうから仲良くしてねって言おうと思ってたくらいなんだから」
「そう……なの……?」
「そうだよ! わたしずっと千歳と友達になりたいって思ってたんだよ」
「花梨……」
 そこまで言われて、ようやく千歳の表情が綻んだ。
 勝真も見たことがないくらい、それは心底からの喜びを表す笑顔だった。
「ありがとう、花梨……嬉しいわ。友達だなんて言ってくれた人、あなたが初めてよ」
「わたしも千歳がそんなふうに笑ってくれて嬉しいよ。千歳のことだいすきだよ!」
 なんのてらいもなく、満面の笑顔のまま花梨が言う。
 一連の展開を微笑ましく見ていた勝真だったが、その一瞬だけ心の琴線に触れたものがあった。

 ――だいすき。

 そのひとことがまるで浮き彫りになったかのように勝真の心にひっかかっている。
 なんということはない単語のはずだ。

 ――発したのが別の人間であったならば。

(なにを……考えてるんだ、俺は)
 自分で自分の思考に驚愕する。
 笑顔のまま千歳と言葉を交わし続けている花梨を見て、今までになかった感情が滲むように胸に広がっていくのを感じる。
 花梨の笑顔を見ているのは好きだ。
 誰とでも、どんな相手とでも、態度を変えることなく接する姿を好ましいとも思う。
 ましてやその相手が血を分けた妹なら尚更。
 こうして二人が心を通い合わせて仲良く笑い合っているのは、滞っていた京の気が巡り始めたことを象徴するかのような喜ばしいことだと思える。
 その気持ちに偽りはないはずなのに、たったひとことが胸に波紋を広げて止まない。

 ――花梨がその言葉を口にするのなら、自分に向けたものであって欲しい。

 そんな馬鹿げた思考が胸を占めていくのだ。
 自分で自分に失笑が零れる。 
 知らず額を押さえて溜息をついた勝真に、花梨が目ざとく視線を向けた。
「勝真さん? どうかしたんですか?」
「いや……別にどうもしていない」
 言えるわけがない。
 曖昧な笑みを浮かべて見せても花梨の顔から心配そうな色は消えず、さてどう誤魔化そうかと思考を巡らせたところで千歳と視線が合った。
「なんだ?」
「いえ……」
 そのままじっと見つめられること数秒。
 何も言われないのでこちらから言葉を発することもできず、僅かに苛立ちが募り始めた時だった。
「花梨。――少しいいかしら」
「え? うん、どうしたの?」
 勝真からするりと視線を外した千歳は、部屋の隅の方へと花梨を手招いた。
 促されるままそちらへ赴いた花梨の耳元に千歳が口を寄せ、何事か囁き始める。
 不思議そうに聞いていた花梨が、ある一点でいきなり顔を真っ赤にして目を見開いた。
「ち、千歳! それは――っ!」
「待って、それは私じゃなく――本人に伝えて」
「――!」
 赤面したままいよいよ言葉をなくしたらしく、花梨はただ口をぱくぱくと動かしている。
 そんな花梨へにっこりと笑いかけた千歳が、おもむろに勝真へ向き直った。
「兄上、私は先に失礼させていただきます」
「――は?」
 唐突な宣言に返す言葉が出てこない。
 何をどうしたらこの流れでそんな話になるのだろう。
 そもそも今日ここへ来たいと言いだしたのは自分だということを、この妹は自覚しているのだろうか。
「おまえ何を言ってるんだ? まだ来たばかりだろう」
「ええ、ですがとても有意義な時間でしたから」
「帰っちゃうの千歳?」
「いちばん欲しかった言葉をあなたからもらえたから。今日はそれだけで胸がいっぱいなの」
 言葉どおり、心の底から嬉しげに笑みながら千歳は言う。
「また遊びに来させてもらっても構わないかしら」
「もちろんだよ、いつでも来て!」
「ありがとう花梨。……それでは兄上、私はこれで」
「は? いやちょっと待て」
 打って変わって淡々と告げる妹を、当然の如く呼び止める。
「さっきから気になってたんだが……その言い方だとおまえが一人だけ先に帰ろうとしてるようにしか聞こえないぜ」
「そのつもりですから」
「……はぁ?」
 いよいよ以て勝真は片眉をつり上げた。
 よもや冗談を言うような性格ではないと思っていたのだが、いったい何を言い出すのだろう。
「おまえ自分が何を言ってるか分かってるのか? そもそも俺を連れ出したのは誰だと思って――」
「私よりも兄上の方がもっと花梨と深いお話がおありかと思いまして。邪魔者は退散させていただきます」
「は……? 何の話をしてるんだおまえ……?」
「それではね、花梨。……先ほどの話、頑張ってね」
「が、がんばることなのかどうかよく分かんないけど……」
 最後に何やら念を押された花梨は再び顔を赤らめて口篭もっている。
 状況にさっぱりついていけていない勝真が再度呼び止めようとするより先に、千歳は本当に退出していってしまった。  
 怒るというよりも呆気に取られ、しばし部屋の出口から視線が剥がせない。
 多少は分かり合えるようになったかと思っていたのだが、認識違いだっただろうか。
「いったい何なんだ……」
 長い長い溜息と共にそんな呟きを落とす。
 傍らの花梨は何故かまだ顔を赤く染めたまま明後日の方を向いていた。
「おい花梨、あいつはおまえに何を言ったんだ?」
「えっ!」
 勝真としては至極素朴な疑問のつもりだったのだが、花梨は飛び上がらんばかりに目を見開いた。
「ええと、その……」
 不自然に反らされた顔がますます赤みを帯びていくように見えるのは気のせいだろうか。
 相当言いづらいことを吹き込まれたのは間違いない。
「なんだ、俺の悪口でも聞かされたか?」
「え!? ち、ちがいますよ! そんなんじゃなくて!」
 別に千歳が辛辣なことを言ったとしてもさほど気になるわけではないのだが、こちらが気の毒になるほど悲壮な顔で花梨はそれを否定した。
 そして、誤解は解いておかねばならないとでも思ったのか、覚悟を決めたように拳を握りしめる。
「あの、ですね。悪口とかそんなことではなく!」
 勢いよく言い切ったかと思うと、途端にその視線が下を向く。
「あの……わ、わたしが千歳のこと大好きって言ったから、勝真さんが、そのぅ……」
 ぽつぽつと語られる言葉を聞きながら、今度は勝真が目を見開く番だった。
 そこの流れを蒸し返す話だなどとは夢にも思わなかったのだ。
 鼓動が、奇妙な具合に鳴り響く。 
 嫌な予感がよぎったのと、その予感通りの言葉を花梨が口にしたのはほぼ同時のことだった。
「――し、嫉妬、してる――って」
 か細い囁きが耳朶を直撃した瞬間、いよいよ勝真は本気で頭を抱えたくなった。
 あの流れでこうまで的確に心情を読みとるとは、やはりあの妹は只者ではないらしい。
 昔から不思議な能力を秘めていたようだが、まさか本当に読心術でも操るのだろうか。
 そもそも自分のことはあれだけ躊躇していたくせに、この掌の返し様はなんなのだ。
 絶句したまま固まってしまった勝真をどう思ったのか、泡を食った花梨が必死の様相で両手をばたつかせ始めた。 
「いえあのっ、い、言われたわたしもびっくりしたっていうか、そんな都合のいい話あるわけないですよね、あはは!」
「……っ」
「千歳って真面目そうだけど意外に冗談とか言っちゃうんですね! あの、まさかそんな自惚れたこと考えたりしてませんから! 違ってたら違うって言ってくださ――」
「――違わない」
「そ、そうですよね、違うに決まっ――え?」
 押し殺したひとことで、からくりのねじが切れたように花梨の言葉が止まった。
 不自然に張り付いた笑みのまま動きも止まり、ただその瞼だけが時おり音もなく瞬く。
「か、勝真さん……?」
「……」
「あの、今なんて――」
 差し向かいの状態を維持できた限界はそこまでだった。
 邪気の欠片もなく見上げてくる瞳が、あまりにも眩しすぎて。
 自らの腕の中へ強引に隠すことで、どうにかその呪縛から逃れることに成功する。
 だが解放の安堵と反比例するかのように、鼓動はどんどん速度を増していくばかりだ。
「違わない、と言ったんだ。頼むから恥ずかしいことを何度も言わせないでくれ」
「えええ、ええと、あの……っ」
 状況についていけていないらしい花梨が腕の中で懸命に動く。
 だが両腕にしっかりと力を込めてやると、面白いほどすんなりとその動きがおとなしくなった。
 忙しなく打ち付ける鼓動の音ばかりが胸に響く。
 これは自分のものなのか、それとも――もしかしたら花梨の鼓動なのかもしれない。
「まったく格好が付かないったらないな。いつどんな風に言おうかと思ってたらこのざまだ。まさかこんな不意打ちを食らうとは思わなかった」
 胸を占めていくのは開き直りとも呼べるような感情。
 劇的に告げようなどと思っていたわけではないものの、もう少しやりようがあったのではないかと思わずにはいられない。
 だが現実というのはこんなものなのだろう。
 ――きっかけは甚だ不本意だが、告げることができたのは良かったと思うべきなのかもしれない。
「あの、ええと、勝真さん、それってつまり――」
 遠慮がちな問いは、小さくなって消えていく。
 そこで改めて勝真は、決定的な一言を口にしていないことに気づいた。 
 確かにはっきり言わなければ花梨には伝わらないだろう。
「――だから」
 体を離し、細い両肩に手を置いたまま見下ろす。
 見上げてくる無垢な瞳を、今度こそまっすぐに見つめたまま。
「おまえが好きだって言ってるんだ。くだらない一言に嫉妬しちまうくらい、な」
 花梨は一瞬ひどく驚いた様子で目を見張った。
 柔らかな髪に縁取られた頬が、炎に炙られたように真っ赤になる。
「あの、もちろん千歳のこと大好きなのは本当なんですけど、でもっ」
 恥ずかしそうに、けれどひどく嬉しそうに、花梨は満面の笑みを浮かべた。 
「勝真さんのことは、それじゃ足りないくらい大好きなんですよ。もうずっと前から」
「花梨……」 
「大好き、よりもっと好きな気持ちを伝えられる言葉があったら、それは勝真さんにしか言わないって断言できますよ!」
 なにやら確固たる意志を秘めた瞳で力強くそんなことを言われ、勝真は思わず吹き出してしまった。
 あまりにも花梨らしい発言が嬉しくて、身体中に嬉しさが満ちていく。
 なるほど、そういうことなら話は簡単だ。 
「そうか、じゃあ教えてやるよ」
 口の端を微かに持ち上げて笑ってみせると、花梨の瞳が驚いたように瞬いた。
「そういうときはな――」
「え――」
 長い睫が瞬きに合わせて揺れるのをこれ以上はないほどの至近距離で見つめてから、ゆっくりと瞼を閉じる。
 啄むように触れたとき、柔らかな唇が微かに震えたのを感じた。

「――愛してる、って言えばいい」


(Saika Hio 2011.04.18)
  

【あとがき】
勝真さん、お誕生日おめでとうございます!
お誕生日ネタでなくてすみません!(いつものことですが)

勝真さんは意外と大人げないというか、結構つまらないことに嫉妬してしまうような気がするのは私だけでしょうか。あと、私の中では千歳にサラッとあしらわれてしまうイメージ。たぶん千歳には勝てないと思うのです(笑)。
最後をどう纏めようか実はちょっと迷いながら書いていたのですが、勝真さんが勝手にラストの台詞を言ってくれました。
さすがだ!(何が)
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