儚く終わると思っていた日々は、今もまだ続いている。
こんなにも穏やかに――最も幸福な形で。
望むことさえ許されないと、それが当たり前なのだと思っていたから、未だに信じられないけれど。
今もまだ彼女は隣にいてくれるから。
花が綻ぶような笑顔を見るたびに、現実なのだと実感できる。
「あっ、瞬兄おはよう」
階段を下りてくる音と共に、弾む声で名を呼ばれた。
ソファから振り向き、笑みを返す。
「おはようございます、ゆき。よく眠れましたか?」
「うん、ちゃんと眠れたよ」
頷きながら隣に座るゆき。
瞬は少しだけ身体をずらしてゆきの顔を覗き込んだ。
「確かに、顔色は良いようですね。なによりです」
毎朝の日課になっている視診を行い、ゆきの体調に不具合がないことを確かめる。
「あなたはすぐに無理をしすぎますから。少しでも変調があったらすぐに知らせて下さい」
指先でそっと髪に触れながら、釘を刺すことも忘れない。
ゆきが素直に頷く。
「分かってるよ、瞬兄。体調が悪いときはちゃんと言うから」
でも、とゆきは微笑った。
「瞬兄はいつも、言うより先に気付いてくれるよね。わたし自分から具合が悪いって言ったこと、あんまりないよ?」
「それは……誰よりも大切な人のことですから。真っ先に気付くのは当然です」
なんでもないことのように言うと、ゆきが僅かに目を見開いた。
紡ぐべき言葉を探してでもいるのか、唇が小さく何度か動く。
「……いけませんか?」
「い、いけなくはないけど……」
途端にゆきの頬が真っ赤になる。
その反応が可愛くて、瞬の顔には自然に笑みが浮かんだ。
以前では考えられなかった遣り取りだ。
瞬自身がゆきを拒絶していた、あの日々の中では。
いつか必ず別れが訪れると【知って】いたから、わざと冷たい態度で距離を取っていた日々。
ゆきに好かれないように。
ゆきにとって必要な人物とならないように。
こんな風に率直な好意を表現するなど、考えられなかった。
それなのに――ゆきは違った。
瞬がどれほど冷酷に接しても、どれだけ突き放しても、彼女はただ真っ直ぐに瞬だけを見ていてくれた。
自分の命を削ってまでも、こんな風に一緒にいられる未来を切り拓いてくれた。
守るべき神子に、実は瞬のほうこそ守られていたのだと、今ならはっきりと分かる。
「けど……なんですか?」
「え、ええと……」
ゆきの反応を見ているとついからかってしまいたくなり、意地悪く言葉尻を拾ってみる。
真っ赤になったまま俯いたゆきが、小さく呟いた。
「瞬兄がそういうこと言ってくれるの、なんだか不思議だなって思って。嬉しいけど、ちょっと……恥ずかしいかも」
「まったくだよねー。まるで人が変わったみたいって、まさに今の瞬兄のことを言うんだよね」
ゆきの言葉が終わるのを待ち構えていたかのように、階段の方から別の声が飛んだ。
面白がるような響きの中には、ただの子どもらしい無邪気さとは違う色が含まれている。
弾かれたように顔を上げたゆきが、優しい笑みをそちらへ向けた。
「おはよう祟くん」
「おはよ、お姉ちゃん」
ゆきに声をかけられたことが満足だったのか、祟は嬉しそうに近づいてくる。
一見人懐っこそうな笑みが、そのまま瞬の方へ向いた。
「瞬兄も、おはよう」
「……ああ」
あからさまに申し訳程度といった体の挨拶に複雑な表情で返すと、祟は途端に眉尻を吊り上げた。
その変わり身たるや、本人の言葉を借りればまさに【人が変わったよう】だ。
すっかり見慣れてしまった身としては、今さら驚くことでもないが。
「あのさ、朝っぱらからこんなとこで何してるわけ? いちゃいちゃするのは勝手だけど場所わきまえてよね、いい大人なんだからさ」
「そ、そんなことしてないよ!」
「……」
遠慮の欠片もない物言いに、素直にゆきが慌てふためく。
いい加減そろそろ慣れればいいと思うのだが、そこがゆきたる所以なのだろう。
祟のこの態度にいちいちそんな反応をする必要はないと思っている瞬は、無言で目を細めた。
「……祟、起きたのなら顔を洗ってこい」
「ふーんだ、言われなくても分かってるよ」
口を尖らせ、祟が言う。
ゆきへ向く視線と、瞬へ向いている今のそれとには、明らかな違いがある。
だがそう思っているのは祟も同じだったらしい。
「ほんっと瞬兄って昔からお姉ちゃんのことしか眼中になかったのは知ってるけどさ、開き直るにも程があるよね」
「……」
「今までさんざん冷たくしてたのに、まるで手のひら返したみたいに優しくなっちゃってさ。バカみたい」
心底面白くなさそうに吐き捨て、祟はくるりと踵を返した。
言い返す隙を与えないようにだったのかもしれないが、言い返すつもりも瞬にはない。
言いたいことだけ言って祟が去っていくと、後には元通り瞬とゆきが残った。
「祟くん……」
祟の背中と瞬の顔をゆきが交互に見比べる。
その瞳に浮かぶのは、戸惑いと憂い。
瞬は小さく溜息をついた。
「……気にすることはありません。いつものことです」
「でも……」
ゆきはそれでもまだ何か言いたそうにしていたが、やがて小さく頷いた。
瞬にとっては本当に【いつものこと】だ。
昔から祟が世界のすべてを憎んできたことを、瞬はいちばん近くでずっと見ていた。
いつか消える運命を呪い、恐れ、己をその未来へと導く龍神の神子をずっと憎んでいた祟。
けれどそれがただの憎しみでないことも、瞬は知っていた。
祟の望みはいつでもたったひとつだった。
消えたくない――それだけが彼の望み。
ただ居場所が欲しくて、自分を必要としてくれるものが欲しくて。
そんな当たり前のことさえ許されない自分自身の運命を、どうにかして変えたくて。
きっと祟は、ただ手を差し伸べて欲しかっただけなのだろう。
――他でもない、ゆきその人に。
憎しみとは真逆にあるはずのその感情を、祟が自覚しているのかどうかは分からないけれど。
「やっぱり祟くん、まだわたしのこと……」
ぽつり、とゆきが呟く。
「……恨んでる、の、かな……」
その瞳は、先刻までよりも更に深く憂いに沈んでいる。
瞬は微かに眉根を寄せた。
「そうではありません。今のはあなたにではなく――俺に対してです」
「え? 瞬兄に? どうして?」
本気で意味が分からないという顔で問うゆき。
祟に感情の刃を向けられるべきなのは瞬ではないと、そう言いたげに。
彼女は今まで、ただ自分自身だけを責めてきたのだろう。
祟が望む未来をその手から奪い取る存在。
かつてのゆきは祟にとって、確かにそうだったかもしれない。
けれど今は違う。
明らかに違う。
消えてしまうはずの運命から解き放たれた祟は今、憎しみの裏に隠していた本来の感情をゆきへ向けている。
そして分かり易い負の感情は、ゆきのいちばん近くにいる存在――すなわち瞬に向いているのだ。
それが恋情なのか、それとも単に肉親の情を求めているようなものなのか、そこまでは知らない。
ただ、瞬とゆきがこうして穏やかに同じ時間を過ごしていることが祟にとって面白くないことだけは、確かなのだろう。
胸を刺す感情が湧かないわけではもちろんない。
龍神の神子に仕えて使命を全うすることを割り切っていた瞬と違って、ずっと苦しんできた弟。
ようやくすべてから開放された今、彼にももっと本心からの笑顔が増えて欲しいと瞬も願っている。
けれど――瞬にも譲れないことはあるから。
大人げないとは思っても、これだけは譲れない。
瞬がゆきに対して抱いているのと同じ想いを、ゆきが瞬へと向けてくれている限り。
諦めるという選択肢しか存在しなかった過去がまるで嘘のようだ。
祟に言われるまでもなく、自分は本当に変わりすぎるほど変わったと思う。
心を縛る鎖がなくなった今、ただひとつの想いだけを抱いていればいいのだから。
「……あなたも、そう思いますか」
ふと気になったことが、深く考える前に口をついて出ていた。
ゆきが不思議そうに首をかしげてこちらを見る。
「ずっとあなたに冷たく当たってきたのに、今さらこんな態度を取るなんて滑稽だと……あなたもそう思いますか?」
祟の言葉など気にする必要はないと、ゆきには言っておきながら。
ゆきにどう思われているのかが気になって仕方ないだなどと、我ながら滑稽にも程がある。
思わず逸らした視線の端に、かぶりを振るゆきの姿がちらりと映った。
「そんなこと、ぜんぜん思わないよ」
驚くほど揺るぎのない口調。
はっとして振り仰いだ瞬の目の前で、ゆきは穏やかに微笑っていた。
「だって瞬兄が冷たいなんて思ったこと、一度もないもの」
迷いなく、当たり前のようにゆきは言う。
「いつだって瞬兄はわたしのこと考えてくれて、優しくて……だからずっと、ずっと前から大好きだったんだもの」
「……っ」
咄嗟に言葉が出てこなかった。
儚げな見た目に反してゆきの心が強いことは、瞬もよく知っているけれど。
真正面からこんな想いをぶつけられては――どうしたらいいか分からない。
「――ありがとうございます」
やっとの思いでそれだけ囁き、ゆきの肩をそっと抱き寄せる。
ゆきが小さく息を呑む音が耳のすぐそばで聞こえた。
「こんな俺にそんなことを言ってくれるあなたが、何よりも愛しい。ありがとうございます、ゆき」
「瞬兄……」
「誰よりもあなたを愛しています。今まで言えなかった分も、ずっとあなたを大切にします」
愛する人に、愛しているとまっすぐに言える。
それはなんと幸福なことだろう。
「俺の心はすべて、あなたのものです――ゆき」
想いを偽る必要は、もう無いから。
この心のままに――すべてはあなたのためだけに。
(Saika Hio 2011.12.24)
【あとがき】
瞬兄のED後で祟くんのことが一切語られていないので「祟くんはいったいどうなったんだ!」というのがクリア当時からずっと気になっていました。メモブでもよく分からない書かれ方だったし。
でも兄弟(=同じ血を引いている)なんだし瞬兄が消えずに済むならきっと祟くんだって同じだよね? という勝手な解釈に基づき、瞬兄のED後は【元のまま】の生活が続いているのだと私は思っています。変わったのは、冷たくする理由がなくなった瞬兄がデレデレに甘くなることと、祟くんが常に本性を現しっぱなし、っていう点(笑)。私の勝手な妄想なので風花記が出たら辻褄合わなくなるかもしれませんが、まあそこはそれってことで(どれだよ)。
祟くんの本心は本編でもチラホラと見え隠れしていたけど、結局こういうことだと思っていいんですよね…ただの憎しみだけじゃないっていう。風花記で攻略対象になると知って確信しました(笑)。(チナミくんルートの「お姉ちゃんが何も見捨てない? なに言ってるの? あの人はボクを見捨てたじゃないか!」っていうセリフがいちばん分かり易かったと思う)
ただ、恋愛感情なのかっていう点では、明確にそうだったのかどうかは本編の時点では曖昧かなーと思っているのですが、そのへんは風花記に期待ってことで。
今回は、祟くんにチクリと言われた瞬兄が思わず我が身を省みてしまう、というシーンが書きたかっただけのお話でしたが、思いのほか瞬兄が書きづらくて難儀しました…祟くんのほうがよっぽど書き易かった(それもどうなの)。