もとより――自分が龍神の神子だと驕るつもりなど、少しもありはしないのだから。
「こんなにたくさん雪が積もったのって見たことなかったんです。だからつい嬉しくなっちゃって」
振り返りながら言うと、勝真は微かに肩をすくめた。
それ以上何か言っても無駄だと悟ったのか、彼の口から更なる皮肉が出てくることはなかった。
時おり息抜きと称して勝真があちこちへ連れ出してくれるのは、いつ頃からだったろう。
最初は戸惑ったが、今ではすっかり楽しみになってしまっている。
今日もそう言われ、真っ先に花梨が思ったのは「雪が見たい」だった。
もちろん紫姫の屋敷の庭でも雪を見ることは出来るが、もっと広い場所で一面の雪を見てみたい。
そんな願望を思いつくまま口にしてみると、勝真は京の外れのほうまで足を伸ばしてくれたのだ。
人里から離れているので人家もなく、当然人通りもほとんどない。
木立の向こうには真っ白に染まった山が見える。
うら寂しいと言われれば否定はできないが、ゆっくりするには最適な場所だとも言えた。
埋まった足を引き抜きながら歩くことすら楽しく感じて、白い雪の上に次々と足跡が伸びていく。
勝真の皮肉のとおり、まったくもって子供と変わらない自分を花梨自身も少しだけ自覚してはいた。
それでも――どうしてか、心が踊って止まないのだ。
勝真に言ったように、見たこともないほどの雪のせいなのか、それとも――息抜きに来られたこと自体が嬉しいのか。
どちらも間違ってはいないような気がする。
「勝真さん、この雪いったいどこまで続いてるんでしょうか?」
いつも普通に歩いていたら花梨のほうが確実に置いていかれるのに、今日はまったく立場が逆だ。
すっかり後ろのほうに離れてしまった勝真を再び振り返って、花梨はそんな言葉を投げかけてみた。
それは問いの形をしてはいたが、答えが欲しかったわけではない。
――答えは、自分の目で見てみたい。
逸る心のまま、何故か唐突にそんな思いに駆り立てられた。
「どこまでって……そりゃ道のある限り続いてるんじゃ――って、おい花梨!」
制止の声もまったく耳に入っていなかった。
雪の上を歩くのにもだんだん慣れてきていた花梨は、もはや振り返りもせずに先へ進んでいく。
まばらだった木立が少しずつ密度を増してきて、頭上を覆い隠す枝が周りの明るさを遮り始めた頃、ようやくその足が止まった。
「わ、ちょっと遠くまで来すぎちゃった……?」
今さらのように慌てて辺りを見回してみても、変わらず真っ白な光景が広がるばかりだ。
立ち並ぶ木々に無言で威圧されているようで、思わず身が竦む。
そこで初めて花梨は我に返った。
(わたし、いったい何をやってるんだろう……)
時を不自然に止められていた京の町。
それを上手く動かすことができて、やっと冬が訪れて。
正常に流れ始めた京の姿を見るのが嬉しくて、見られる限りたくさん見ておきたいと思った。
もちろん、もとの世界ではなかなか見られないほどの雪が心を昂ぶらせていたのも本当だけれど。
それでも――もう少し考えて行動するべきだった。
後悔の念が足元から急激にせり上がってくる。
「勝真さん……?」
振り返りながら呼んだ名前は、自分でもそれと分かるほどに震えていた。
喉を何かに圧迫されているかのように、上手く声が出てこない。
「勝真さん……っ!」
叫んだつもりだったけれど、実際に零れたのはごく小さな声にすぎなくて。
それすらも、果てしなく広がる雪の中へと静かに吸い込まれていく。
戻らなければと頭では思うのに、足がどうしても動かない。
途方に暮れて力なくかぶりを振った、そのときだった。
「――りん」
風に乗って流れてくる微かな音が確かに耳に届いた。
聞き間違いではない証拠に、同じ響きが何度も繰り返されながら近づいてくる。
「――ん……かりん――」
「か――勝真さん!」
決死の思いで負けじと叫ぶ。
今度はちゃんとはっきりした声になってくれたことに、小さな安堵の念が湧く。
花梨の声が聞こえたのか、呼び声が一瞬止まった。
そして。
雪の向こうから、勝真が姿を現した。
「――花梨っ!」
歩き難さを物ともせず豪快に雪を蹴散らしながら近づいてきた勝真は、花梨と目が合った瞬間にその動きを止めてひときわ大きく叫んだ。
頬が微かに青ざめて見えるのは、雪の反射のせいだけだろうか。
まだ動けずにいる花梨を見てどう思ったのか、勝真の眼が僅かに細められたのが分かった。
そして大股で雪を踏みしめながら花梨の目の前まで来た彼は、いきなり腕を伸ばして花梨の頭を軽く小突いた。
「この馬鹿! 独りで勝手に行くんじゃない!」
痛くない触れ方とは裏腹に、本気の怒声が空気を裂いた。
その鋭さに一瞬身を竦める。
「ごっ――ごめんなさい」
反射的に謝った途端、大きな手にそのまま髪を掻き混ぜられた。
「まったく……向こう見ずなのは知ってるつもりだったが、まだ俺も甘かったな」
つい今しがたの鋭い声音が幻のように、溜息交じりの言葉が静かに零れる。
厳しさと優しさを併せ持つ勝真らしい叱責の仕方だと、ひどく冷静に思った。
――本気で心配してくれていたのだと、胸が熱くなる。
無性に零れそうになる涙を、堪えるだけで精一杯だった。
「……そんなにいつまでも不安そうな顔をしてるなよ」
唇を引き結んだままの花梨の瞳を覗き込むようにして、勝真が優しく語り掛けてくる。
花梨は慌ててかぶりを振った。
「ごめんなさい。勝真さんがいなくなっちゃったら――もう会えなくなっちゃったらどうしようって……」
「……」
「あ、ええと、わたしが独りで先に行っちゃったのに、そんなこと言ったらいけないですよね」
勝真の瞳が微かに揺れたのを見逃さなかった花梨は、急いで言葉を付け足した。
「あの、本当にごめんなさい。もうこんなことしませ――」
言葉が不自然に途切れたのは、意思に反して身体が前へと倒れていった為だ。
それが倒れたのではなく抱き寄せられたのだと気付いたのは、勝真の胸にしっかりと抱え込まれた数秒後だった。
「馬鹿野郎……――は、――だろう……」
耳に息が触れるほどの距離なのに、聞き取れるか聞き取れないかくらいの微かな声。
鼓動がやけに大きな音でひとつ跳ねた。
「え……」
「いや……なんでもない」
「……」
花梨に聞かせようと思ったわけではなかったのか、勝真は繰り返そうとしない。
いくら待ってみても、それを覆すつもりはないようだった。
「ほら、帰るぞ。いくらおまえでも、いつまでも雪の中にいたら風邪をひくぜ」
何事もなかったかのように身体を離しながら、冗談めかして促す勝真。
「ええっ? わたしでもってどういう意味ですか?」
彼の口調に合わせるように、わざと口を尖らせてみせる。
更に合わせてくれたのか、それとも本気だったのかは分からないけれど、勝真は可笑しそうに笑った。
「そのままの意味だよ。おまえ風邪なんかひいたことなさそうだからな」
「そりゃあ、確かにあんまりひいたことないですけど……」
「ほらみろ」
言いながら踵を返して歩き出す勝真に、花梨も反論しながらついていく。
他愛のない会話だけが、そのまま二人の間を繋ぎ続けた。
――けれど。
笑顔を作るたび胸に走る微かな痛みを、花梨は確かに感じていた。
――本当は、ちゃんと聞こえていた。
問い返したら何かが壊れてしまうような気がして、尋ねられなかっただけで。
――『馬鹿野郎……いなくなっちまうのは、おまえのほうだろう……』
何を意味するのかは、もちろん分かっている。
そして、それが間違っていないことも。
でも――それでも、何故か焼け付くような焦燥が胸を刺す。
いなくなるのは、嫌だ。
会えなくなるのは――嫌だ。
ずっとここにいたいと、懇願するような声が脳裏で響くのだ。
ずっと、この世界に。
願わくば――勝真のそばに。
その理由は分かるような気がするけれど、気付かない振りをしたままでいるほうがいいのかもしれないと思う。
けれど、もし――もしも願いを聞き届けてくれる誰かが、どこかにいるのなら。
この望みをたったひとつ、叶えてはくれないだろうか。
そんな風に祈る気持ちも、抑えきることはできなくて。
ささやかなのか大それているのかさえ分からない願いを、捨て去ることもできそうにない。
願いは星に。
祈りは空に。
きっとそれが普通なのだろうけれど。
この冬空の下でならば煌めく白銀にそれを託してもいいような気がして、花梨はそっと心の中で小さな願いを呟いた。
〜END〜 (2007.05.19 written by Saika Hio)
<あとがき>
遙か2阿弥陀さんに投稿させていただいたものです。
タイトルがそのままお題でした。
遙か2のキャラソンにはしっとりと優しい冬の歌がいくつかありますが、青龍には熱い歌しかないのが残念で(笑)。
せっかくなので勝花で『風花昇華』のような切なさを表現してみようと思った所存です。
阿弥陀は初参加でしたが、書きやすいお題が当たってよかったなあとしみじみ思いました(笑)。