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● それは難問  ●


「このあたりでいいか?」
 馬の走る速度を徐々に緩めながら問うと、ほぼ同時に胸の前で花梨が大きく頷いた。
「はい、すごくいいです! まだこんなにたくさん咲いてるところがあるんですね」
 ここへ来る間も花梨はずっと、走っている馬の背の上であちこちに興味を向けていた。
 勝真が身体の前でしっかり支えていたからいいが、そうでなかったら振り落とされていたに違いない。
 馬に乗ったことがなかったと言うだけあって危険意識も相当低いということが改めて分かった。
 これだから目が離せない、と内心で思わず苦笑が落ちる。

 ――離すつもりもないのだから、結局は同じことなのかもしれないが。

「ここらの桜は遅咲きなんだ」
 先に馬から降り、次いで花梨を抱き上げてゆっくり降ろしてやる。
 花梨の足が地面につく寸前、揺れた髪から甘い香りが微かに流れた。
「ちょうど今くらいが見ごろなんじゃないか? いい時期に来られてよかったな」
「はいっ!」
 幼子のように満面の笑みで大きく頷く様を見ていると、このまま抱き締めてしまいたくなる。
 そういう行動に出ても別に問題はないのだが、とりあえず今はやめておくことにした。
 花梨を腕に閉じ込めることはいつでもできるが、桜を愛でられるのは今だけだ。
 それに、満開の桜の下で舞い散る花弁に囲まれている花梨を見られるのも今しかないなら、そちらを優先するほうが良いに決まっている。


 昨年の春には、まだこの世界に存在しなかった娘。
 秋口に突如として現れ、新しい年を迎えるのと同時にいなくなってしまうはずだった存在。

 けれど年が明けても春が訪れても、彼女はまだここにいてくれる。

 ここに――勝真のすぐそばに。
 いつでも触れられる距離に、いてくれる。

 それは逆に、いつなら触れてもいいのかという迷いを勝真に与えてくるのだが、焦れる気持ちは不思議とあまりない。

 ――ただ、花梨がいつも笑って隣にいてくれればそれでいいと思う。


「勝真さん、ここらへんとかすごく綺麗ですよ。あとからあとから花びらが降ってきて、じっとしてたら埋まっちゃいそうです」
 勝真が馬を繋いでいる間あちこちの木を見て回っていた花梨が、一本の木の下で立ち止まって歓声を上げた。
 傍まで歩いていきながら、勝真の口の端にも自然な笑みが刻まれていく。
「埋まったら掘り出してやるから心配するなよ。せっかく来たんだからゆっくりしていけばいい」
 冗談とも本気ともつかない軽口を叩くと、花梨はますます可笑しそうに笑った。
 そして、その勧めに従うように木の根元に腰を下ろす。
 振る花びらと積もったそれとに囲まれた姿は、本当にそのまま桜の中に吸い込まれていってしまいそうだ。
 埒もない不安が胸をよぎり、一瞬にして勝真の頬から笑みが消える。
 衝動的に足を一歩踏み出していた。
「勝真さん?」
 肩を掴まれて驚いたように顔を上げる花梨。

 無邪気なその笑みは、確かに目の前にある――本物。

「あ、ああ、いや――なんでもない」
 誤魔化すように呟いて、そのままさり気なく隣に座る。
 微かに触れる腕から伝わってくるのは、確かなぬくもり。

 ――花梨は、ここにいる。

 夢でも幻でもない、確かな現実。

 手の届く場所にあるものを何よりもいとおしいと思えることが、こんなにも胸を温かく染めるなんて。

「そういえば勝真さん、ひとつ聞きたいことがあるんですけど」
 唐突に明るい声が隣りから響いた。
 見遣ると、声のままの輝いた瞳が真っ直ぐにこちらを見上げている。
「勝真さん今なにか欲しいものとか、して欲しいこととかありませんか?」
「は?」
 瞬きをしながらそう聞き返す以外に、できることがない。
 いろいろ突拍子もないことを言ったりやったりする娘だと思ってはいたが、その認識は間違っていなかったと念を押されたような心地だ。
「なんだかよく分からないが、相変わらず唐突な奴だなおまえは」
 前触れも何もなく要求を聞かせてくれと言われても、即答できるはずもない。
 しかも問い方が漠然としすぎているので尚更だ。
 それでも花梨の言葉にならちゃんと応えてやりたいと無意識の下に思った勝真は、一応考えてみた。
 だが――努力と結果は必ずしも結びつくものではないらしい。
「そうだな……急にそう言われても咄嗟には思いつかないな。今じゃないと駄目なのか?」
 時間が欲しいと言外に言うと、花梨は少しだけ困ったような様子を見せたが、すぐにまた笑顔に戻って頷いた。
「わかりました。じゃあ、決まったら教えてくださいね。あ、でも今月の十八日までにお願いしますね!」
「? ますますよく分からないが……まあ、覚えておくさ」
「はい、待ってますね」
 答えをもらえたわけではないのに、花梨は何故かやけに嬉しそうだ。
「何なんだ、いったい? 十八日に何かあるのか?」
 問いかけとも独り言ともつかない呟きを零すと、秘密です、と悪戯っぽく微笑まれてしまった。
 いつもとどこか違う様子に少々どころではなく面食らったが、花梨が楽しそうにしているのを見るのは悪くないのでそれ以上追求するのは止めておいた。
「でもここ、本当に気持ちいいですね。なんだか眠くなっちゃいそうです……」
 舞い散る桜を見上げながら、眩しそうに目を細める花梨。
 その瞼がゆっくりと下りていき、彼女の綺麗な瞳を完全に隠してしまうのにさほど時間はかからなかった。
「花梨? ……眠っちまったのか。ったく……」
 この娘と過ごすようになって、何度こんな風に苦笑を零したことだろう。
 必要以上に他人を気遣うような繊細さがあるかと思えば、まるで子どものような無邪気さを惜しげもなく見せたりする。
 振り回されているなどと感じたことはないが、一緒にいて飽きないのは事実だ。

 ――次にどんなことを言い、何をするのか、寸分も目を離さずに見ていたいと思う。

「しかし十八日ってのは何だ? わざわざ指定するってことはその日に何かがあるんだろうが……」
 独りごちながら考えを巡らせてみても、符合しそうな予定などは見当たらない。
 と、勝真に軽くもたれかかりながら気持ちよさげな寝息を立てていた花梨が、そこで小さく身じろぎした。
 まるで今の勝真の呟きが聞こえていたかのように、その唇が動く。

「だって、そのひは……おたんじょうび、だから……」

 降る花びらとよく似た色の唇から吐息のように洩れる囁き。
 起きているわけではない証拠に、それは再び緩やかな寝息へと変化していく。
 馴染みのない単語だが、初めて聞く言葉ではなかった。
 少し前に花梨から尋ねられたことがあるのを思い出す。


『勝真さんのお誕生日っていつですか?』

 新しい年が明け、花梨がこの世界に残ることを決めたすぐ後だ。
 それこそ滑稽なほど楽しそうに、花梨はそんな問いを口にした。
 意味が分からず尋ね返した勝真に花梨が説明してくれたのは、彼女の世界の風習。

 一年の最初に一斉に歳を重ねるのではなく、各々の生誕した日に一人ずつ歳を加えていくのだと。
 誕生日の当事者は身近な者から特別な祝いを受け、贈り物を貰ったりするのだとも聞いた。

『生まれてきてくれてありがとうって、大切な人を一年に一回お祝いするんですよ』
 勝真の知らない世界のことを話す花梨はいつもきらきらと輝いて見えるけれど、そのときは殊更にそう感じた。

 嬉しくて仕方がないと、彼女の小さな身体すべてが告げていた。

 それは勝真を祝う日を知ることが出来た為なのだろうか――と、勝真自身が思うのは自惚れでしかないのかもしれないけれど。

 花梨が選んだ道は、勝真と一緒に生きていくこと。

 だからきっと花梨が心に抱いているものは、勝真のそれと同じなのだろうと思う。


「とんでもない無理難題を無邪気な顔で簡単にふっかけるんだな、おまえは」
 傍らの寝顔に、起きているときと変わらない口調で囁きかける。
 もしかしたら眠っているからこそ言えることなのかもしれないが、この際そんなことはどちらでも良かった。

 ――ただ胸がいっぱいで、言葉にしなければどうにかなってしまいそうなのだ。

 出逢うことができて。
 同じ世界で生きていくことができるようになって。

 ――ずっと傍にいたいという、たったひとつの願いが、もう叶ってしまった後なのに。

「いったいこれ以上俺に何を望めって言うんだ?」
 思わず天を仰いだのは途方に暮れた為だが、口元にはっきりと浮かんでいるであろう笑みを勝真は自覚していた。

 どうしたらいいか分からなくなるのは、絶望したときだけではなくて。
 嬉しくてたまらないときもこれほどまでに困ってしまうものなのだと、初めて知った。 

「だが、おまえが何かしてくれるって言うなら……その気持ちを無駄にするわけにもいかないよな」
 起こさないように静かに顔を寄せ、閉じた瞼の睫毛の先にそっと口付けを落とす。
 それから勝真は桜の花を見上げながら、傍らの大切な相手に何を願おうかと考え始めた。



 〜END〜 (written by Saika Hio 2007.04.18)



【あとがき】
 誕生日創作は苦手なので最近はめっきりキャラのお祝いが出来なくなりつつあるのですが、この人だけは…この日だけは…!(馬鹿)

 ということで、今年も一応ちゃんとお祝いすることができて嬉しいです。
 久しぶりに「誕生日」というワードがちゃんと盛り込まれた話にもなりましたよ!
(それでも誕生日当日のお話じゃないですけどね…)

 勝真さん、お誕生日おめでとうございます。
 大好きです!
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